第九話 『青い眼の男』
枢はオーセオン市の街中に出向くことにした。懐に波残寿の貨幣がいくらかあったからだ。
アリシアはメルバーユから話があるというので、彼は一人で出た。
枢は町並みを眺めながら歩いた。
街路は石畳でならされて平坦で、歩き易いものだった。
家屋も石造りや煉瓦造りのものが多く、木を基調とした波残寿の屋敷を思うと、枢の眼には新鮮に映った。
男たちは上衣と脚衣を、女たちは基衣の上に上着を身に纏っており、表情は明るかった。
時折吹く、湿気を帯びた生温い風に春雷の気配を予感した枢は、早々に用を済ませることにした。
海水を吸った服を着続けるのも気分が悪かったので、彼はまず、替えの衣服を手に入れるべく古着屋を探した。
枢はあまり考えずに、最初に目に入った店に足を運んだ。
「失礼。これに似たものはないか」
枢は自らの服を示して店の者に尋ねた。
「あら、いらっしゃいませ。変わった服を召されていますね。こういうのは……うーん、ちょっとうちには。でも、採寸させて貰えれば、お作りすることはできますよ」
番をしていたのは、柔和そうな婦人だった。
「ううむ…時間はどれくらいかかりそうか」
「一週間もあれば。お急ぎですか?」
「いや、それなら着ているものを洗った方が早いのでな。……では、当座の凌ぎとして、ここにあるもので一式買って行きたい。これで足りるだろうか」
そう言って、枢は波残寿の銀貨数枚を彼女に提示した。
「見ない銀貨ですね……ええっと、少々お待ちください」
そう言って、夫人は一度奥に引っ込んだ。
枢が首を長くして待っていると、じきに中年の男が奥から出て来た。どうやら夫人の夫のようだ。
「あんたか、見ない服に見ない銀貨でウチのヤツを困らせているのは。一体どういうつもりだ」
「困らせるつもりはなかったのだが……確かに、考えが足りなかった。申し訳ない」
枢はそう言って頭を下げた。男はまだ憤慨収まらぬようだったが、じきにそっぽを向いてまた奥の方へ戻って行った。
「すまないが、それで……支払いの方は?」
「ごめんなさいね、うちの人はつっけんどんで。この銀貨なら、9枚でいいってことでしたわ」
「中々の値段だな……」
「『それが嫌なら、よそを当たるんだな』だそうです。あの人を怒らせるのも怖いので、どうぞよしなに」
枢は仕方なく、もう四枚追加で銀貨を渡した。
「良い勉強になった。有り難う」
枢はやや気落ちしつつ挨拶を述べた。
「こちらこそ、ありがとうございました」
夫人はそう言って、にっこりと笑った。
枢が店を出た先には、一人の若い男が立っていた。
「君、よくあんな値段で買う気になったな。よほどの御曹司か、さもなければ世間知らずだぜ」
男は枢よりも少し背が低く、氷色の目をしていた。肌は日に焼けているが、本来は中々に白いらしいことが窺えた。軽装だが帯剣しているところを見るに、枢と生業を同じくするものと見受けられた。
「喧嘩を買う気はない。他所へ行ってくれ」
「いやいや、見上げた慈善行為だと思ってね。その服は今度の舞踏会のための仮装かな?ラン国のものに似ているな」
「何を……」
「おっと、口答えはいらない。オレに同行して貰おうか」
男の強権ぶりに思わず気圧された枢だったが、さしもの久峨岑の次期頭首、ここで尻尾を巻くほど柔ではない。
先刻買ったばかりの、荷物でしかなくなった衣服を地に置き、枢は拳を構えた。それを見た男は、浅く片頬を吊り上げた。
「やる気になってくれたか。そうでなくては面白くない」
抜剣する男。細身で両刃の剣だった。
睨み合う両人。しかし、素手である枢の方が防御と間合いで遅れを取ることは否めない。
武器の破壊を試みようにも、面の小さい相手の剣の前では、拳で白刃取りを決めて“發”を叩き込むという離れ技が要される。
故に──枢はもう一つの手に出ることにした。
相手がじりじりと距離を詰めて来るのを尻目に、彼は懐に手を忍ばせた。
「罪人は大人しく縛に付けッ!」
剣を水平に構え、一気呵成に畳み掛けようとする男。それを眼前にして、枢は怯まなかった。
何故なら──その手には。
「“巨鬼の双牙”!!」
瞬間、空が割れた。垂れ込める暗雲から、魔なる雷が落ちたのだ。
男の剣は、柄を残して粉々に砕け散っていた。
「馬鹿な……聖女の清めを受けた剣を打ち砕くだと!?その短刀、もしや」
「御託は良い。それより、人を罪人呼ばわりするとはどういうことだ」
「分かった、オレの負けだ。話そう」
男はそう言って、潔く腹を割った。
男はカイナ・レイフィールドと名乗り、自らをレングーン王直属の親衛隊長だと言った。
「最近、海を隔てた隣国のランからの密航者が相次いでいてね。
街もそのせいで治安が悪化していて、君もその一派じゃないか、と勘違いしたというのが経緯だ。すまなかった」
カイナは素直に非礼を詫びた。
「しかし、良いものを見た。“遺物”が行使される瞬間など、中々お目に掛かれるものではないからな」
枢はその言葉を聞いて、しかし溜め息を吐いた。
「矢張り“遺物”だと言うことは知れてしまったか……何とか、内密にしては貰えないか」
「それは無理な相談だ。いち市井の者が持っていては、何をしでかすか分かったものではないからな。王宮に報告はさせて貰う」
「それでどうなる」
「さて……宮内での権力闘争の道具にされるか、王族の玩具にされるか」
「そなたはそれで良いのか」
「何が言いたい」
「この剣に、もっと有意な働きをさせてやろうとは思わないのか、と言っている」
「剣に意志があるかのような言い草だな」
「こと“遺物”に於いては、な。軽々に扱って良い代物ではないのだ、これは」
「それについては同じ意見だ。だからこそ、王宮で腐らせておくくらいで調度良い。“遺物”の雨霰が飛び交う戦場なぞ、オレはご免だ」
「埒が明かんな。帰らせて貰おう」
「後日、隊の者を受け取りに寄越す。それまでに腹を括っておけ」
結局、二人の話し合いは物別れに終わった。