第七話 『救貧院にて (一) 』
お久しぶりです。切れ目が作れず少し長くなってしまいました。
その後、二人は少女の暮らす救貧院に向かうことにした。
「ここは何という国なのかな」
歩きながら、枢が鷹揚に尋ねる。少女は、その言葉に控えめに答えた。
「ここはレングーン……です。レングーンの……オーセオン」
レングーン、と枢が歌うように誦んじる。その髪が、夜の海から吹く潮風に戦いだ。
「では、此処は本当に瀲界……現世なのだな」
“現世”という言葉に、少女の耳がぴくりと反応する。
「じゃあ、あなたは……常世からの、客人様……?」
「そうなるらしい。某は由埜英──常世の、波残寿の生まれだ」
よしのはなぶさ、と少女がたどたどしい発音で復唱する。
「私……いつか常世に行くのが、夢なんです」
それほど良い所ではないぞ、と枢が苦笑気味に応じる。
「常世とて、争乱はある。現に某も、そこから逃れて──というのは些か語弊があるが──来たばかりだ。ただ、そうだな……桜は見事だ」
「さくら、ですか?」
「ああ。行く春に咲く、淡い紅色の、儚い花だ」
「さくら……見てみたいです。私も……いつか」
少女はゆっくりと眼を閉じた。
しかしな、と枢は俄かに難色を示した。
「現世からの境越えは容易でないと聞く。辰気の流れがそうさせるらしい」
「それじゃあ、客人様も帰れないんじゃ、ありませんか……?」
少女が不安そうな声を上げる。
「枢でいい。……故に、そなたの力になると決めた。よしなに頼むぞ」
枢はまた、強かに微笑してみせる。釣られて、少女も思わず微笑んでいた。
「はい、かなめ様」
そう受けた彼女の声は、少し頼りなかった。
二人はそれから少し歩いて、旧市街を抜け、街を東西に隔てる河を渡り、救貧院に辿り着いた。
それは左右に大きく翼を開いた、煉瓦造りの古びた屋敷だった。
しかし、その大きさにも関わらず、灯火の灯っている部屋は少なく、静まり返ってもいたので、不可解に思った枢はアリシアに尋ねた。
「これだけの屋敷、手入れするのは大変だろう」
「それが……ほとんどの部屋は、使われずに埃を被っているんです。旧市街には困っている人がたくさんいるのに……もう」
少女にも思うところがあるらしかった。
二人は、表門から中に入った。
人を助けたのだから堂々としていれば良い、とは枢の言だ。
少女は彼を案じるように時折振り返りつつ、白辰石の常夜灯が灯った、仄暗い院内を進んでいく。
すると行く手に、隙間から光の漏れている外開きの扉が現れた。
少女は枢に向かって僅かに頷くと、三度軽く叩き、扉を開けた。
そこには、書物が堆く積まれた机を前にして、空色をした瞳の、よく日に焼けた肌を持つ初老の男が座っていた。
「おや、君は……どうしたアリシア、こんな時間に」
本から顔を上げた男は、そう言って少女に説明を求めた。
やや乾いているが張りのある、不思議と人を穏やかな気持にさせる声だった。
「すみません、メルバーユ様……あの、海辺の遺跡で光るものがあったので」
少女は背の高い枢を仰ぐように見やった。
「そこに彼がいたのかね?」
「そうなんです。気を失われていたのですが、この剣が突然光り始めて……それで、その」
「某が左の一方を持っていたのです。巡り合わせとは不思議なものです」
枢が懐から、少女が“グレミニオー”と呼んでいた宝剣の片割れを取り出してみせた。
「成る程。双界の“遺物”が引き合って、君をここに辿り着かせた、という訳か。君、名は何という」
メルバーユと呼ばれた男が枢に尋ねる。
「失礼、某は久峨岑枢と申します。故郷の波残寿で騒乱があり、事態を収めるために奔走していたのですが──故あってこの地に流れ着くこととなりました」
枢は内心で、クゼと出会ってからの顛末を反芻したが、とても信じてはもらえまいと半ば諦めてそう言った。
「ふむ……?クガミネ殿か。私はエシェド・メルバーユ。ここ、リグ・ウシェミタ救貧院の院長です。“巡賛会”で辰術の教導も務めている」
軽く頭を下げるメルバーユ。枢も、それに倣って一礼した。
「これからどうされるつもりかな」
メルバーユは枢に問うた。
「叶うならば、この子の為に。某が今此処に居るのは、彼女との縁あってのことですゆえ」
枢はそう言って、アリシアを見やった。
「ふむ……アリシア、お前はどうしたい」
二人の大人に遠慮のない視線を向けられて、少女は戸惑いを隠すように下を向いた。そして、
「お二人が許してくださるなら、ですが……私は、父様と母様を探したいです」
と、か細い声で己の意志を示した。
「そうか……君は確か、ラウダニアの出身だったな。ということは、ご両親も……」
メルバーユは難しい顔をする。
少女はそれを受けて、決意の灯る眼で小さく頷いた。
「確かなことは分かりませんが……きっと、そこに手がかりがあるはずです」
「失礼、ラウダニアとは、このレングーンからかなり北西に行った先の国でしたか」
枢が口を挟む。
「そうです。何でもご存知のようだ」
メルバーユには冗談めかした様子もない。
「久峨岑の家には、昊天儀がありましたゆえ」
昊天儀か、とメルバーユは渋面を作った。
「“巡賛会”にも相当の金を積んで購ったものがあるが、とんだ気分屋でね。ごく稀にしか情景を映さない。困ったものです」
辰気の濃さの違いによるものでしょう、と事も無げに枢が応じる。
「あれは辰気の経絡が開けていなければ働きませぬゆえ。
此方は幽世と比べ辰気が薄いようです。
某の辰術も、さして要を得ないやも知れません」
「おや、クガミネ殿も辰術を使われますか。これは道行き心強い。……話が逸れましたな」
メルバーユは再びアリシアを見やった。
「かなりの長旅になるだろうが、その覚悟はあるか」
少女はもぞもぞと逡巡する様子を見せていたが、やがて腹を括ったのかこう言った。
「大丈夫です。やってみせます……!」
メルバーユはそれをら聞いて、少し表情を和らげた。
「諸経費はかつて母君が遺された分から工面してやれるが、全ての道を馬の脚で行くには、道は険しい。時には歩くこともあるだろう。船にだって乗るかもしれん。それでも、行くのだな」
少女はその言葉を受けて、メルバーユの視線を正面から受け止め、深く頷いた。
「クガミネ殿も、異存はないだろうか」
「某は何も。いざとなれば、この子を背負って行く程度の気づもりでおります」
「……だそうだ。頼もしい御仁で良かったな」
「はい。……よろしくお願いします、かなめ様」
そう言って、少女は丁寧に頭を下げた。
「話は決まりましたな。では、また明日」
メルバーユは再び、書物に目を落とした。下がって良い、ということらしい。
「行きましょう、かなめ様。お部屋に案内します」
少女はそう言って、未だ海水を含んで重くなっている枢の羽織の袖を引いた。
再び、暗い院内歩いて行く。
「とんとん拍子に話が進んじゃいましたが、本当にこれで良かったのでしょうか……かなめ様だって、お家の方が幽世で待っているんですよね……?」
少女は、今更のように不安げな顔をしている。
「某のことなら気にするな。そう簡単に帰れそうにはないのだ。何より、このまま己一人で戻り挑んだ所で、力及ばず自らまでも敵の手中に落ちてしまっては元も子もない。これはきっと、クゼが──いや、某に与えられた精進の為の猶予でもあるのだろう」
少女はしげしげと枢の顔を見つめた。
「かなめ様、色々あったのによく考えがまとまりますね……私も、見習わないと」
むん、と気合を入れた少女の姿は、どこか少し頼りないのだった。
結局、メルバーユの書斎があった左翼の最奥から、右翼の反対側まで歩くことになった。
「すみません、かなめ様。手入れをしてある部屋が、こちらにしかなくて……」
「客分の身だ、構わない。しかし、何故反対側なのだ?纏まっていた方が掃除の手間も省けるだろうに」
少女の申しわけなさそうな顔に一抹の焦りの色が加わった。
「それはその……わ、私が気に入っているからというか……ごにょごにょ」
「厶?」
しどろもどろになった少女はさして気にも止めず、目的の部屋に着いた枢は無造作に扉を開けようとした。
「ま、待ってください!この部屋からはですね……」
「ふむ、どうやら渡って来た河に面した部屋のようだが……アリシア?」
己が伝えたかったことをその気もなしに訳もなく看破され、少女は項垂れてしまった。
「もういいです……どうせこの時間じゃ見えないだろうし…」
(何か悪いことをしただろうか…?)
枢は消化し切れない気持ちのわだかまりを抱えつつ、扉を開けた。
部屋に踏み入った二人を待っていたのは、主のいない机と、メルバーユの部屋に勝るとも劣らない、凄まじい数の蔵書だった。
「これは……!こちらも、メルバーユ殿の書斎か?」
「いえ、こちらは違うんです。私もくわしくは知らないのですが、ある偉い方の趣味の隠れ家だとか……」
「そんな場所を寝泊まりの場として良いのだろうか……と言うか、ここに寝具を持ち込んだのは、さてはそなただな?」
「ぐっ……め、メルバーユ様からお許しは頂いていますから!」
図星を突かれたアリシアは、半ば開き直って反駁した。
「まあ良い。もう休むから、そなたも己の部屋へ戻れ。……力になると言っておきながら、世話になってしまったことはすまない。また明日」
「は、はい、かなめ様。……また、明日!」
そう言うと、少女は来た方に引き返して行った。
枢は一息吐くと、海水でべたついた羽織と着流しを脱ぎ捨て、寝床に入った。
もう2話くらいは続けて投稿したい所存です。