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第1話 霜月朝陽1

 ほどなくして、夢を見ていると気付いた。

 3人で何か言い合っているようだが、他の2人は見覚えがない。だけど何故かすごく彼らのことを知っているような、変な感覚だった。

 話し合っている内容も支離滅裂だが、僕たち3人はとても大事なことを熟議していた。自分自身の存在を懸けているような、そんな話し合い。

 スマホのアラームで目が覚めると、先程まで見ていた夢の内容がすでにおぼろげだった。朝の慌ただしさと共に次第に夢を見ていたことさえも忘れてしまった。


 朝の身支度を済ませる。メガネを拭いていると、そろそろ買い換えたいとふと思った。レンズが擦れて少し見づらい。いつ買ったのかも思い出せない。

 今度の休みにでも買いに行こう。5,000円くらいで気に入るのが見つかれば良いが。僕は顔が薄い印象のせいか、メガネを覚えてもらうことが多く、メガネはもはや僕自身と言っても過言ではなかった。誰かと話している時、相手は僕を見ているのか、それとも僕のメガネを見ているのかわからなくなる。話している最中に僕がメガネを外したら、相手は僕を見失うのではないか、とよく分からない不安に駆られることが時々あった。


 西武新宿駅から歩いて10分のところにある職場には、いつも就業開始の30分前には着いている。

 簡単な事務作業と月末の棚卸が主な仕事で、薄給だが忙しくないところが気に入っている。

 気が向いたら水曜日にTOHOシネマズ新宿やシネマカリテで映画を観て帰る。

 今日は帰りに紀伊國屋書店に立ち寄ることにした。

 電子書籍は便利だが、本と思わぬ出会いを果たしたい時はやはり本屋に勝るものは無い。僕のアカウントに対しておすすめの波状攻撃を仕掛けてくるAmazonのやり口に乗っかることもあるが、傾向が偏っていくので時々本屋へ出かける。近い未来には「VR本屋」のように本屋の中に入った感覚になれるソフトが普及するのだろう。

 2階の文庫本コーナーを歩いていると、「哲学カフェ」の文字が目の端に止まった。『哲学カフェを哲学する』という本で、帯には「承認欲求ゾンビたちへ」と書かれていた。

 僕は挑発的な謳い文句には近づかないようにしているので、この手の本は読む気がしなかったが、哲学カフェというのは前々から興味があった。

 誰かと哲学的思考を重ね合わせたり、他の人がどのようにこの世界を見ているのかがずっと気になっていたからだ。

 その時ふと今朝見た夢のことを思い出した。

 3人で話し合っていたのは哲学的な問題についてだったかも知れない。延々と答えが出なかったのは、元々答えのようなものがない問題であり、それでも延々と話し続けたくなるような問題でもあったのかも知れない。

 それこそ自分自身に対する問い掛けのような。自己の問題がそのまま世界の問題へと抵触しているような。この不思議に満ち満ちた世界へと自分を強烈に位置づけるような。そんなことを3人でああでもないこうでもないと、笑い合いながら、時には本気になってムッとしながら、でも互いに高め合いながら、何時間も話し合っていた気がする。

 『哲学カフェを哲学する』を手にし、目次を読み、レジに並んだ。


 帰りの電車の中で読む。

 身体が、背面が、実存の背骨が、少し浮き上がった感覚になった。2mmくらい。前々から哲学は好きだったが、この本はこれまで読んできたどの哲学本よりも、なんというか、面白かった。これまでのが「哲学紹介本」だとしたら、これこそが「哲学実践本」だと言えた。この著者は哲学を実践している。この著者にしかわからない、この著者だけのものである哲学を、誠実に実践している。

 よくある「私問題」は唯我論になったり答えをはぐらかす展開になりがちだ。だがこの著者丸久悠は視点の層がいくつかに分かれていて、上がっていくにつれて思考がごちゃ混ぜになったり洗われたりする。そして読む前と読む後で世界の見え方が変わる。

 「マリオは宮本茂に恋焦がれることが出来るか」という章では、自我を持ったマリオが創造主とも言える宮本茂のことを思考できるか、という問いかけから始まり、マリオがゲーム内で自身を模したゲームを作成することの奇跡と不可能性について書かれている。

 つまり「私問題」の私は絶対に核心に迫ることができない愚問であると断言しているのだ。だが、この愚問こそが本質であるとも断言している。

 ほんの触りを読んだだけでここまで引き込まれた本は生まれて初めてだった。これを書いた人のことをもっと知りたいと思った。電車を降りて帰り道を歩きながら著者をAmazonで検索してみたが、他に本は出していないようだ。


 家の鍵を開けた瞬間「あ」と思った。夕飯のおかずを買って帰ろうと思っていたのだった。今更引き返すのも面倒なので今日はご飯に納豆という最高のディナーにしよう。幸いなことに美味しい本にも出会えたことだし。うっかりミスも何か天啓のようなものに感じられるくらい気分が良い。メガネを外し、手を洗い、うがいをして顔を洗い、タイマーで炊けていたご飯をかき混ぜて蒸らし、ベッドに腰掛けて『哲学カフェを哲学する』をひと撫でした。

 最高のディナーを終えて食器を洗いシャワーを浴びてベッドに潜り込んだ。本の続きも読みたいが、今日はこのまま思考を巡らせて眠りに落ちたい気分だった。

 横になりながら『哲学カフェを哲学する』の目次にもう一度じっくり目を通した。丸久悠に会ってみたい。いろいろ質問してみたい。出版記念トークイベントとかやってないだろうか。新宿ロフトプラスワンだったら仕事が終わったあとでも間に合うだろうし。TOHOシネマズ新宿のゴジラの爪が脱着式だったらどうしようとか、歌舞伎町から「か」が家出をして武器町に戸籍変更しましたとか、よくわからない思考になりながら、いつの間にか寝ていた。

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