殉教者ハッサン・バブーフ
エジプトの首都カイロの雑踏に知った顔を見つけ、ウマル・ムサウィは息を呑んだ。白いものが混じる頬髯に覆われた顔は、やつれているが昔と同じだった。だが、その男は生きているはずはなかった。自爆攻撃で殉教したからだ。
殉教者ハッサン・バブーフは今、天国にいるはずである。だから、他人の空似に違いない。ウマル・ムサウィは、そう思い込もうとした。そのとき、相手と目が合った。その顔が驚愕で強張る。視線を逸らし来た方へ足早に歩き出す。
その背中を見てウマル・ムサウィは確信した。間違いない、あの男はハッサン・バブーフだと!
声を掛けたがハッサン・バブーフは立ち止まらなかった。急ぎ足で歩き続ける。人混みの中で相手を見失わないよう気を付けウマル・ムサウィは後を追う。同時に、自分も誰かに後を付けられていないか、気を配る。イスラム過激派の彼は当局に追われているのだ。
ハッサン・バブーフとウマル・ムサウィは、かつて同じイスラム原理主義勢力に属していた。その組織は自爆テロを辞さない過激派だった。二人とも自爆テロ要員だった。神の敵と戦って死ぬ殉教者は死後に天国へ行くと信じているので何も怖くなかったし、むしろ早く死にたいとまで思っていた。
自爆テロ決行の時が、やがて訪れた。ただし攻撃に参加を許されたのはハッサン・バブーフだけで、ウマル・ムサウィは待機を命じられた。
ウマル・ムサウィは深い悲しみに沈んだ。組織の指導者は次の機会を待てというのだが、早く天国へ行きたいのだ。彼は自爆テロを命じられたハッサン・バブーフを妬んだ。そして、その攻撃任務を自分と代わってくれと頼み込んだ。
ハッサン・バブーフは拒否した。彼は笑顔で言った。
「一足お先に天国へ行って、お前を待っているぜ」
攻撃は大成功だったが、凄まじい報復が待っていた。治安当局の反撃でテロ組織は壊滅し、ウマル・ムサウィは国外へ逃れた。残党狩りは熾烈を極め、国際手配された彼は何所にいても常に逮捕の危険にさらされていた。自分を捕らえようとする相手と戦って死ねば殉教者になれそうな気もするが、学識豊かなイスラムの聖職者に認定してもらわないことには、天国へ行けると保証されないのだろう。
しかし今ウマル・ムサウィの前を歩くのは、聖職者から天国行きを保証された男である。
それがどうしてカイロの街中を歩いているのか?
捕まえて問い質したかった。しかし人が多すぎてなかなか追いつけない!
前方に警官の姿を見かけ、ウマル・ムサウィは舌打ちをした。このままだと真正面ですれ違う。しかし後戻りしたら不審者だと思われるだろう。歩き続けるしかない、そう決めたときだった。
先を歩いていたハッサン・バブーフが後戻りして目の前に立った。
「お前、追われているんだろう。何も言うな。俺の後についてこい」
ハッサン・バブーフは警官が歩く向きとは違う方へ歩き出した。その後ろをウマル・ムサウィが続く。警官は二人に注意を払わなかった。やがて彼らは人通りのない路地に入った。狭い小道で相対する。
死んだはずなのに、生きているのはどういうことだ? と助けてもらった礼も言わずにウマル・ムサウィが尋ねる。ハッサン・バブーフは煙草に火を点けてから答えた。
「俺は自爆攻撃で死んだはずだった。だが、目覚めたところは天国ではなく、見たことのない生物が闊歩する別世界だったのさ」
その別世界にいる知的生命体の手で、自分は体に特殊な処置を施された、とハッサン・バブーフは言った。そしてシャツの裾を捲った。腹がある部分に暗黒が広がっている。
「腹の暗黒に何かが棲んでいる。そして時々、外に出てくるんだ。それが何なのか、俺には分からない。分かったところでどうしようもないと感じている。俺にできるのは、目立たぬよう振舞う、それくらいだ」
ウマル・ムサウィには理解しかねる話だった。彼は勢い込んで尋ねた。
「天国は、天国は、天国は無かったのかよ!」
ハッサン・バブーフは首を振った。
「俺は天国に行けなかったが、お前は行けるかもしれない。それは誰にも分からないさ。組織の指導者だろうと、聖職者だろうと」
ウマル・ムサウィが食い下がる。
「コーランには、ちゃんと書いてある!」
吸い終えた煙草を靴底で踏み潰したハッサン・バブーフは立ち去りかけて足を止めた。
「すまんが俺は棄教した。お前は天国へ行けるよう頑張ってくれ、それじゃ」
ウマル・ムサウィが気付いたときには、殉教者の姿は人の波に紛れ見えなくなっていた。