殴られ屋
俺は元ボクサー。
試合中にキレてしまい、レフェリーをボコボコにしたため、ボクシング界を永久追放された。
そのため、今では「殴られ屋」などという商売で食いつないでいる。
実は俺は、ボクサーとしての能力はそれほど高くなかった。
俺は相手の心が読めるのだ。
だから、次に対戦相手がどんな攻撃をして来るのか、完全に予測できた。
つまり、「これから右ストレートを出す」と言われているのと同じ事。
どれほど優れた才能のあるボクサーでも、俺にかかれば素人同然で、相手にならなかった。
もちろん、無心で向かってくる奴もいた。
だが、理屈では「無心」でも、心の声までは沈黙を守れないものなのだ。
だから「無心」なんて気にならなかった。
パンチの鋭い相手にだけは苦戦した事は確かだが。
そんな俺だから、「殴られ屋」は始めるべくして始めた「商売」だった。
まず、殴るお客に千円払ってもらう。
もし、俺の顔をかすめる事ができたら五千円、殴れたら一万円、ダウンさせたら三万円という取り決めをしていた。
無論、賭け事と思われ、警察のご厄介になると困るので、おおっぴらにはできない。
客を集めるための余興として、場末の飲み屋や、ストリップ劇場の幕間を活動の場にしていた。
相手は酔っ払いか、ヨレヨレの中年。
俺は現役でも十分通用する身体。
勝負にならないのは、よくわかっていたので、殴られると思った事はなかった。
そんなある日。
ストリップの幕間に、俺のショーが始まる。
何人か酔っ払いが挑戦し、まるで見当違いのパンチを繰り出した。
俺は心を読むまでもなく、あっさりとかわした。
今日は楽な仕事になる。
そんな風に思った時だった。
「私もお願いしたい」
老人が舞台に上がって来た。
多分、俺の父親より年上だ。七十代だろうか?
「では、挑戦料の千円をお支払い願います」
俺は微笑んで言った。するとその老人は、
「いや、一万円払おう。但し、私のパンチを避けられなかったら、倍返し。どうかね?」
何だ、このジジイは? どうしてこんなに自信満々なんだ?
俺はムカついたが、殴られるとは思っていないので、
「わかりました。後で取り消しはできませんが、よろしいですか?」
「無論だ。お前さんこそ、なかった事にしてくれとは言わせんぞ」
「承知しました」
クソジジイめ。吠え面かくなよ。
俺は胸糞悪さを抑え、構えた。
老人は俺の前に立ち、俺を睨んだ。
この気迫は!? こいつ、本当に老人なのか?
「行くぞ」
老人が言った。右のパンチが繰り出された。俺はそれを予期していたので、あっさりとかわした。
「ゲヘッ!」
ところが何故か俺はかわしたところに繰り出されたパンチをまともに食らい、倒れてしまった。
周囲の観客が歓声を上げた。
「避けられなかったな。倍返しだ。それに、ダウンしたから三万円も追加だな」
老人は不敵な笑みを浮かべ、俺を見下ろしていた。
「インチキだ。今、もう一発パンチを出したな、ジジイ!」
俺は飛び起きて老人に食ってかかった。
「いや、ご老人はパンチを一発しか出していないよ」
端で見ていた劇場の支配人が口を挟んだ。
俺は唖然として老人を見た。
老人は五万円を手にし、劇場を去った。
俺はどうしても納得がいかず、老人を追って劇場を出た。
「待ってくれ。どんなトリックを使ったんだ?」
「トリック? そんなものは使っていない」
老人は振り向かずに答えた。
「確かに俺は右のパンチをかわしたはず。なのに……」
老人はようやく振り返って、
「私は相手に嘘の心を見せる力がある。お前さんと逆だ」
「え?」
老人は俺と同じだった。力を使って俺を惑わしたのだ。
「本来、お前さんのその力は、あのような事に使う物ではないはず。そうは思わんかね?」
「……」
俺は何も言い返せなかった。
「私が言いたいのはそれだけだ。後はお前さん次第だな」
老人はそう言い残すと、立ち去ってしまった。
老人の言葉は、俺の胸に深く突き刺さった。