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世界に一つだけの花  作者: 実
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 家に着くと、いつもは真っ直ぐに帰ってくる僕がいつもよりかなり遅く、そして制服を泥だらけにして帰ってきたために、母さんは驚いた様子だった。極力汚さないように気を使っていたのだけど、案外汚れてしまうようだった。小さい子が服を汚して帰って来るのを叱る全国のご両親は是非とも教訓にしてほしい。子どもに汚さないようにさせるのは、諦めた方がいいと。高校生の僕でもこうなるのだから。

「あんた、今日何したの? こんなに制服汚して」

 母さんは別に僕を咎めるでもなく、ただいつもと違う僕の様子を不思議がっているようだった。

「ちょっと転んで」

 そんな典型的な言い訳を適当に口にしてリビングを横切ると、いつもはこの時間にはいないはずの父さんが先にご飯を食べていた。そして、僕を視界に捉えるなり不機嫌そうな視線を寄越してきた。

「どうしてそんなに汚れているんだ。部活もしていない、塾に通うこともない。なのに、一丁前に遊んで帰って来たのか」

 いつもの嫌味を言われてむかっとした僕は、「うるさいな」と、父さんには聞こえないほどの声量でこぼした。言い返す度胸なんて、僕にはない。

 今日は久しぶりにいい気分だったのに、父さんの一言で、また憂鬱な気分が僕を支配し始めた。そんな僕の心境なんて意に介さず、父さんは続けた。

「そろそろ進路選択の時期だろ。もう決まったのか。まだ高校生だからって、甘えていたら負け組になるぞ」

 言われなくても分かっている。確かに、発破をかけられることで常に意識が向くようになるのは理解できる。けれど、そういうことではない。僕の気持ちが進路選択に追い付かないのだ。父さんの言い分は正しい。けれど、正しいだけの言葉が、僕を救うことなんてない。むしろ、その言葉が、遊んだり、自分の心に従うことへの妨げになったりする。そんなことにさえ罪悪感を抱いてしまうようになってしまうことを、父さんは知らないのだろうか。

「自分の好きなことすら」

「なんだって?」

 掠れる僕の声を聞き逃した父さんは、いつもの不機嫌な顰め面をこちらに寄せてきた。

「自分の好きなことすら分からないような僕が、将来したいことなんて分かるわけないだろ!」

 そうやって数年ぶりに父さんに叫んだ僕は、思わず二階の自室へと駆け上がった。途中、「紡!」と、僕を呼びかける父さんの声がしたけれど、僕は構わず無視して部屋に閉じこもった。

 しばらく電気も点けずに一人で部屋に籠っていると、コンコン、とノックの音が聞こえてきた。

「紡? 入るわよ」

 母さんはゆっくりとドアを開けて入ってきた。返事してないのに……。

「ちょっと、真っ暗じゃない」

 母さんは呆れたような声を上げて、手探りでスイッチを探しているようだった。真っ暗で母さんの顔は見えない。電気は消したままがいい。今は何も視界に入れたくない。そう言おうとしたけれど、手遅れだった。

 明かりが一瞬にして僕の部屋を照らした。急激に明るくなったことで僕の瞳孔はそれに対応しようと働く。そのせいで、僕は眩しさを感じて思わず唸った。

「制服二枚買っておいてよかったわ。その制服のままだと部屋を汚しちゃうから、早いうちに洗濯機に出しておいてね」

 母さんはそれだけ僕に言い残すと、そそくさと部屋から出て行った。かと思ったら、ドアを少し開いたまま、顔だけを僕に覗かせて言った。

「さっき、好きなことが分からないって言ってたけど」

 母さんの言葉でさっきのことを思い出して、僕は露骨に嫌な顔を母さんに向けた。

「もう、お話は書かないの?」

 僕の心臓が、ドキリ、と跳ねた。

 ずっと心の奥に眠らせていた、封印していた記憶が、突然箱を突き破って表に出て来たかのような感覚だった。

「…………書かないよ」

 僕は至って冷静であるふりをして、母さんに「出て行け」という視線を送った。

「……そう」

 母さんはため息を吐いてから、静かにドアを閉めて一階へと下りて行った。

 その日は結局、僕は極力父さんと目を合わせないようにお風呂に入り、ご飯を食べて、歯を磨き、自分の部屋に籠った。

ベッドに横たわったとき、数年ぶりに遊び疲れた感覚に支配されて、僕は彼女と遊んだ時間を思い出した。くだらないけれど、とても楽しかった。潜在的に僕は、こうしたことを望んでいたのかもしれない。けれど、どんどん大人びていく周りや、子どものままであろうとすることを煙たがる大人たちを恐れて、本当の自分を抑え込んできた。きっとそれはみんなが思っていることなのだろうけれど、僕を含めてみんなが、その空気に抗うことができずに飲み込まれて、毎日もがき苦しんでいるのだろう。誰もが、自分を自分であることを赦すことのできる世界の作り方を知らない。

 けれど、彼女はそれでも、身をもってそれをよしとしている。自分が自分であることを赦している彼女。そんな彼女のことを考えていると、僕は無意識のうちに頬が緩んでいることに気がついた。

 彼女の魔法にかけられた僕は、久しぶりの充実感とともに、眠りについた。

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