パンティに憤る。
秘密でも、スカートの中でも、隠されたものは得てして魅力的に見える。
それは何ももとから魅力的である必要はなく、例えブスでもくだらない秘密でも、隠されただけで大抵は見てみたくなり、知りたくなり、知ることも見ることもできないとなれば、もっと魅力的に見えてくる。
これが知的好奇心からくるものだと論ずる人もいれば、原始時代の名残だなんて主張もあるが、私には少し違うように思う。
隠すということはある人にとって一定の価値を認めているためおこなわれる行為であり、さらに一定の価値の上限がないために、隠されるべき最低限の魅力値ではなく、最高に美化して隠されたものが何か考える。
歴史上の名だたる君主、手品師、詐欺師はこの法則を最大限に活用し、そのパワーを高めた。
群衆はベールに包まれた神秘的な内側を知ろうと夢中になる。
しかし、現代においてはこの法則は緩みつつある。
SNSなどのネットワークシステムの普及やマスメディアの無遠慮な報道で大半の秘密は暴かれ、つまらないものになってしまった。
それはそれとして、私としてはどうでもよい事。
問題はそれに伴って増加した消費される娯楽(以下コンソメConsum entertainment)によって、物事が即物的になったことだ。もっと簡単に言うと、パンツが書かれるようになったのだ。
私は、パンツは隠されるからエロいと思う。
ネットや漫画にあふれかえった丸見えのパンツなんて、道端に落ちているマックナゲット並みに価値がない。正直に言いうと、私が頭の中で考えたおパンツのほうが魅力的で、神秘を秘めているのだ。いや、むしろスカートの中など想像すらしないほうがいい。神秘は神秘のまま、無限の闇に包まれた美しき境界への誘線をただ鑑賞することが、我々紳士にのみ与えられた最高の贅沢だろう。
パンティを描くということは、その価値を自ら下げているということだ。より内向的に生きてゆきたいものである。