解答編
伊野は八千代の質問に、果たして自分が答えてよいのかと悩み始めた。もちろん、自分が教えてしまっても今後に対する影響は何ら変わりないであろう。というよりも、彼女自身、敵他者に対して粗方のことは事前に知っているのだから、今更、敵対する人間が誰誰であるかを伝えることなど、伊野にとってはどうでも良いことでもあった。しかし、彼女は自分に知らされていない敵対者に対する厳密な情報を欲していることもまた現実である。そして、この現実に即して伊野は悩みを抱えたのである。
この伊野が悩む事柄に関わる重要な点は、薊が自らの友や先輩と共に立ち向かおうとする相手があまりにも強大であるということである。そして、兄を想う八千代であれば、絶対に敵う訳の無い相手に立ち向かうことを兄に対して止めるように忠言するだろうという予測も一点の問題として伊野の頭にあった。そして、もしも彼女が伊野の予測通り、兄に対して行動を止めるように忠告した場合、彼は彼女の意見にある程度の理解を示して、自らの行動を鈍化させることとなるだろう。この鈍化の作用が彼よりもたらされた場合、影響は自分たち全体の行動に波及し、第一目標である火野の暗殺すら達成できなくなってしまうだろう。今現在、人間の犠牲に対してある程度の理解を示しているある種の狂気を纏っている彼から、その狂気を剝いでしまったら、彼は今一度冷静で普遍的な思考を取り戻してしまう。普遍的な思考への回帰、この日常に戻るということはつまるところ彼の理性を常識の範疇に戻してしまうこととなり、本当に重要な部分、殺すか殺さないか寸前の地点で彼が動揺によってまともに動かなくなってしまうかもしれないという可能性を孕んでいた。このために、伊野は悩んだのである。
しかし、悩んだところで目の前の少女が折れて、悩みを流してくれるとは全く思わなかった。それどころか、ここではぐらかしてしまったら八千代は自分に対してもっと強力な圧力をかけ、否が応でも情報を聞き出してくるであろう。興奮を覚えた牛が手に負えないように、彼女もまた感情的になり、自分の欲することを否が応でも入手しようと行動してくるであろうと伊野は想像した。それくらい行動力のある人間が、彼女なのだ。
したがって、後後になって自身のみに降りかかってくるであろう面倒と、薊が正気に戻るかもしれない可能性を天秤にかけた時、伊野は前者を優先することとした。第一に、もしも八千代が感情的にあり、彼に中止を迫ろうとしたところで自分の魔術で彼女の思考性を異なった方向に向ければ、面倒な危険性を省ける。このため、伊野は自分にとって最もリスクが少なく、また、自分たちにとって最良の選択を取ることとした。
「まあ、なるべく感情的にならずに聞いてほしいんだけどさ」
「分かってますよ」
「本当に分かってるのか? 八千代ちゃん、君は結構興奮してるだろう。興奮って言うのは、あんまり主観から観測することは難しから知らないのも仕方がないけどさ。もっとも、八千代ちゃんなら感情に任せた行動を取らないと思ってるけどね」
「良いから教えてくださいよ」
のらりくらりとした伊野の言葉に対して、八千代はあからさまな苛立ちを示した。これは伊野が自分の魔術の影響を極大まで上げようとしたために、行ったはぐらかしである。つまるところ、彼女は悪戯好きで、非常に打算的な思考を持つ小悪魔の掌の上で転がされているのだ。
しかし、八千代が伊野の動機に気付くはずもなく、彼女は腰に手を当てたままぷんぷんと可愛らしく苛立ちを示していた。もちろん、可愛らしい言葉でもって彼女の怒りを表しているが、実際に彼女の苛立ちを真正面から受けている伊野は、その美しい顔から発せられる鋭い苛立ちの刃に慄きを覚えている。顔立ちが端正な者が発する純粋な怒りというモノは、常人が浮かべる怒りよりも幾分か鋭いのである。
ただ、鋭かろうと伊野は自らが今なせる目的を達成した。このため、真実の情報を紡ごうと一度咳ばらいをすると、再び八千代の紅の双眸に視線を合わせた。
「君の兄が、そして僕たちが敵対している人間は新庄だよ」
「知ってますよ。それは兄者が目覚める前、播磨さんや瑞雲さんから聞いていましたからね。あの時は、兄者が第一位に挑めるのかと驚きましたけど、今は別にどうとも思ってません」
「そっか。けどね、僕らには他にも敵が居るんだよ。それもとびっきり面倒くさくて、きっと新庄よりも強い敵がね」
「それは一体誰なんです?」
目を細めて、緊張感を纏いながら八千代は伊野に尋ねた。
「それはこの都市の創った人間にして、多分きっと、この世界で最も魔術に詳しい人間。つまり、神の力をこの世に定義した人間。天才中の天才、紫雲龍鳳だよ。この都市のトップだね」
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