ほっとしよう
空飛ぶ自動車のルーフに落下してきた薊を回収した彼、彼女たちは急いで怪我人を喜多の入院している病院へと運んだ。
そして今、彼らは薊の治療が終わるまでの間すでに消灯した病院の待合室にてその身を休めていた。八千代は特に心身共に疲れが溜まっていたようでこの待合室に着くやいなや、クッションの敷いてある長椅子に身を任せて瞳を閉じ、安らかな吐息を立て始めた。
またその寝顔を撮ろうと一人の変態がIDパスを懐から取り出したが、すぐ秋等に奪われ注意を勧告されていた。
「ちょっとちょっと武ちゃん? アナタがこの子を想う気持ちは分かるけど盗撮は流石に駄目よ。乙女の寝顔はどんな宝石よりも貴いものなんだから。それとこのくらいはアナタ、自らの手で勝ち取りなさいな」
すると流石にばつが悪くなったのか端正な顔の口をひん曲げて、自らの行動を自分で律した。
「そうだね、確かにそれはクールじゃない。僕が間違っていたよ」
「あら、アナタがそうやって反省してるなら皆まで責めないわよ。あとこれ大切にアナタの懐に忍ばせておきなさい。だってほら、それの裏側にアナタが勝ち得たモノが貼り付けてあるじゃない」
秋等の言葉の通り、瑞雲のパスの裏側に八千代と喜多と自分の写っている小さな過去の輝かしい記憶が写真として貼ってあった。言ってしまえばプリクラの様なものだ。今から一年前、彼らがまだ高校一年生だった頃、元気の無かった八千代を連れて一緒にあのゲームセンターに行って少しでも彼女を元気付けようとした時に撮ったものだ。事情を知っていた瑞雲が必死に盛り上げていたあの記憶、それは彼にとって一番の宝物なのだろう。
ただそれを指摘された瑞雲は恥ずかしくなって顔を真っ赤にして早口で弁論し始めた。
「いやいやいやいや確かに僕にとってこれはとっても大切なものだし何より八千代たんと撮った唯一の写真だからIDパスの裏側に貼っているだけで決して僕の初心な恋ただ単純に示したいる訳でなくていつも一緒に彼女いれたらなあっていう願望といつか彼女と付き合ってあんなことやこんなことをしたいって言う願望もないしただのお守りっているかなんていうかねつまりそういうものなんだよ狩谷分かったかい」
「そんなに早口で言わなくても良いのよ。あと、多分アナタが否定していたものが本音だと思うんだけどそれはちょっと引いたわ。まあ、変な気を起こさなければ可愛いものだけど」
「何が可愛いんだよ! カマ野郎!」
自分の触れられたくない部分を触れられて瑞雲はこめかみに青筋を立てながら、叫ぶようで叫んでいない器用な罵倒の声を上げて、秋等の持っているパスを掠め取った。
無論そんなことをされた秋等は少しだけ怒った様子でその剛腕を女性らしく腕を組み、薄らとした笑みを浮かべながた。
「あら、アタシにそんな口を利いても良いのかしら? 今アナタの言ったこと全部録音してるからこれをこの子に聞かせても良いのよ?」
「それは……、困るなあ」
これにはクールを装う彼の肝を冷やしたようで、その顔を真っ青にして唸った。
「君たち、少しは落ちつたらどうだい? ほらコーヒーをくれてやるからさっさと座って飲みたまえ。もし八千代ちゃんが目を覚ましたらどうするんだい」
彼らのやり取りに呆れたのか伊野は待合室にあった自販機で缶コーヒーを二つ買って、それぞれに投げ与えた。また馬鹿二人もお礼を一言いうとそれに素直に応じて長椅子に腰をおろし、一服した。彼らが缶コーヒーを開けると待合室はコーヒーの芳しい香りで満たされて、ここに来るまでの殺伐とした空気を少しだけ忘れさせた。
伊野もまたコーヒーを買って、一口飲むと栗色の毛を一撫でして、自らも彼らの座っている長椅子に腰を下ろした。
「はあ、疲れた」
流石の飄々とした彼女も今回のことには骨を折ったのだろう、可愛らしい顔には疲れの表情を浮かべておじさんの様にうな垂れていた。
「全く、もってなんなんだよ。薊は意識不明だし、野郎は行方不明だし、雅人はさっさと帰っていなくなるし、空いてる病院は胡散臭いあの医者が居るこの病院しか無いし、本当に悩みの種しかないよ」
「まあ、そうですね。骨折り損のくたびれ儲けでしかなかったですね」
彼自身も今回の大した対価の得られなかったアクションがつまらなかったのか忌々しく言葉を伊野の愚痴に重ねた。
「でもちょっとの収穫は有ったじゃない。薊の戦利品、一橋のIDパスがね。だからアタシたちはあいつが目覚めるまでの間これの解析に勤しみましょうよ」
秋等は汚れたIDパスを手に持ってにっこり笑顔を同胞に向けて浮かべて、今一度薊の回復を待った。
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