怒り
「薊! 一体どうしたんだ! あのクソ医者に何かされたのか!」
叫び声は無論、廊下だけではなく背後にある病室にも届いた。
すると扉はガッと勢いよく押し開け、一人瑞雲が飛び出した。彼は誰よりも早く薊の異常を勘付いた、もちろん他の者も異常を感じたのは間違いはないが体を動かしたのはこの者だけだった。それはきっと彼が一番薊との付き合いが長いからなのであろう。
そして瑞雲は薊の両の肩を両手で揺さぶった。
「いいや、違うぜ。でもそれも違うかもしれないけどな。野郎、あのクソ野郎、一橋高秀、ぶっ殺してやる。絶対この手で」
客観的に見ると彼は平静を保てて居なかった。もはや狂人である。息は荒く、目は血走り、手は爪を食い込ませすぎて血が滴っていた。もうどうしようもない怒りだ、憤怒である。尋ねた彼自身もその様子を見た、肩を揺さぶっても彼の顔に焦点を合わせずに彼のその姿を見るばかりであった。ただ、ひたすらの狂気に圧倒されたのだ。
「一体どうしちまったんだよ君? おい!」
しかし瑞雲は圧倒されようとも怖気付きはしなかった。彼はもう一度思いっきり肩を揺さぶった、今度はしっかりと薊の血走った狂った眼を凝視して。
「嗚呼畜生、クソッタレが! そうだな一旦落ち着こう、クソ!」
落ち着け、落ち着け俺。こういう時こそ冷静になるんだ、冷静にならなければ状況が掴めない。だがそれでも、許さねえ。いやでも万が一今回も勘違いの可能性がある。いや違うか、今回は本当か? 絶対本当かしら? 嗚呼、クソ! 考えが纏まりやしねえ。
「君、今考えが纏まっていないね? 一回でいいから深呼吸をしなよ、そしたらきっと少しは落ち着くと思うからさ」
こいつには何もかもお見通しなのかよ。笑えるぜ。
揺さぶられ、見つめられ、諭された薊は言うとおりに一つ呼吸を意識して行った。深く、青い海よりも深く、瞑想するが如くに。
「……、ありがとな。お陰様でさっきよりちょっとはマシになった気がするよ」
かくして彼は仮初の表層ばかりの平静を取り戻した。
「うん、なら良いんだ。取り敢えず中に入ったほうが良い、このまま廊下に君みたいな爆弾を置いておくのは他の人に迷惑がかかるからな」
「分かった」
薊は甘んじて彼の進言を受けた。
本当はどうしようもないほどの焦りと怒りを深く隠しながら。
そして薊は肩を震わせながら恐る恐る扉を開けて、その向こう側に居る友人たちに怒れるしかめっ面を見せた。また向こうの彼らも何かの不幸を感じていた。
「それで、一体どうしたんだい?」
部屋に入ると瑞雲がまるで何かの代表の様に重苦しい空気の中、開口一番堂々とした、口調で椅子に強張った様子で座っている薊の右肩に手を置きながら尋ねた。
そうすると薊は未だ狂った眼を震わせ、それと同じくらいわなわなと震わせながら口を開いた。
「どうやら俺の妹が……あの野郎に誘拐された」
その言葉を聞くと部屋は驚きと怒りに包まれた。誰よりも怒りを表したのは今まで薊を抑えていた瑞雲であった。もうその怒り足りるや言葉に表せないものだ。
しかし瑞雲はその怒りを一瞬で収めた。もっとも本来の業火は滾っているが。
「なるほど、君は彼女に連絡したのか?」
「いや、まだだ」
「なら! 早く連絡しないと」
「分かった」
一応の平静を保ちながら怒りで震える手を何とかしてIDパスを手に取る八千代に着信を入れた。
三コールの後。
遂に向こうの電話は取られた。
すると、
『よぉ、後輩ちゃん。元気にしてたか?」
野郎の声が聞こえた。
ご覧いただきありがとうございました。