救済者
アストラルにとってその街はとてもこじんまりしているように見えた。なにせ月で最も栄えていた街に居た後である、大抵の街なら物足りなく感じただろう。
市場はそれほど大きいものはなく、街の住人が生活するのにこと足りる程度の売り場が並んでいる程度だ。商業もそれほど栄えておらず、例えるならベッドタウンといった印象だ。
「なんで人がほとんどいないんだ?」
アストラルがケイオスに問いかける。住宅街らしき場所に入ってから、急に人が居なくなった。民家は多くあり、それに比例して人もいるはずなのに、その住宅街には人の気配がほとんどない。
「どこかに集まっているんじゃないか? まずは街の中心へ行ってみようか。そこに広場があるはずだ」
ケイオスに言われるがまま、アストラルは歩みを進める。
――なんだろう、この感覚は……。
そわそわと浮き足立ちたくなるような、大声を上げながら喜びたいような感覚が次第に大きくなる。
やがて声が聞こえた。
「なんだ、これ――」
アストラルは思わず息を呑んだ。
緩やかに湧き出たばかりの清水のような、酷く澄んだ美しい歌声がアストラルを震えさせる。
惹かれるように駆け足でその歌声を追っていくと、広場らしき場所に出た。街に住む全ての人々が来ているのだろうか、広場は地面が見えないほど人でごった返している。
そして、皆一様に目を閉じて涙を流していた。
人々は、広場にある噴水の舞台に立つ一人の少女に顔を向けていた。
恐らく年齢はアストラルより二歳程上だろう。体躯はあまり大きくはない、ほっそりとした四肢は白く、淡い金色の髪がよく似合っていた。瞳を見たいと思ったが、彼女はずっと瞳を閉じたまま語りかけるように歌っている。
母なる星は空高く 私達を見守る
私達の還るべき場所はどこだろうか
子らは母の傍らで 目覚めを待つ
母の目覚めはあと僅か
友よ泣くな
今生の別れとなればこそ傍にいた
友よ行け
お前が行かずして誰が行く
奪った者を怨んではいけない
歩みを止めるな お前の行く先に明日がある
行け 母の目覚めに備えるのだ
アストラルも気が付かない間に涙を流していた。自分の知らない間に心の隅に燻っていた靄が炙り出され、散らされた気がした。
静まり返った広場の雰囲気で我に還る。そしてそれは他の人々も同じだったようだ。一人が拍手をし始めると皆思い出したように拍手をし始まる。小雨のような拍手は、やがて豪雨になった。
アストラルも無心で拍手をした。
「ん?」
なんとなく、舞台に立つ少女と目があった気がした。しかし彼女はずっと目を閉じ続けている。そもそもこの人の多さだと、例え目を開いていてもアストラルの存在に気がつくもないはずだ。
「どうだ、救済者の歌声は」
ケイオスが目尻の涙を拭きながら笑んだ。
「凄かった……あの子はキュウサイシャって名前なの?」
「救済者は職種だな。他者を様々な方法で癒す者を指す」
「あの子は歌声で?」
「彼女の場合は一つが歌というだけだな。他も色々と優れていると聞く」
やがて熱い拍手が鳴り止み、それを見計らったように少女が口を開いた。小さいはずなのに、よく聞き取れる澄んだ声だった。
「あと数年で私達月に住まう者は地球へ飛び立たなければいけません。回帰の日に向けて準備することは数えきれない程あります。少しでも取り零しがないように、指揮を執る者だけでなく私達一人一人が心掛けて準備していきましょう」
見た目以上に深い色の声をした少女にアストラルは少なからず驚いた。
「まだあんなに小さいのに……」
「彼女は自分の特性をよくわきまえているからな」
「特性?」
見ればわかるだろ、とケイオスが顎をしゃくる。数多くの人々の敬愛を一身に受け、それでも恐れず力強く立っている少女の姿が見えた。その姿に彼女の意志が見えた気がした。
――人の心を惹き付け、癒す力……。
アストラルは純粋に彼女と話してみたいと思った。そしてその胸のうちを、どうしてこの道を選んだのかを訊いてみたいと思った。
少女はゆっくり微笑むと、側仕えらしきの者に導かれながら、ゆっくりと歩き去って行こうとする。道を空けている者が全て彼女を拝んでいる光景は圧巻だった。
「――あの子を追っていっていい?」
ケイオスに問い掛ける。ピクの答えは分かっていたので、ピクには特に確認をしない。
ケイオスは心底楽しそうに頷いた。
「好きにいけ」
誰もアストラルの存在に気が付かないし、ピクもケイオスも超能力で人目を引かないようにしていたので、少女の尾行は簡単だった。
少女は従者に導かれるまま、街の中心付近にある豪邸に入っていく。アストラル達も後に続いた。
豪邸内の警備は厳しく、アストラルな何度も見つかりはしないかとヒヤヒヤしたが、街の人と同じく目が合うことすらなかった。
少女はいかにも客間といった雰囲気の部屋に入っていった。少女を部屋に送り届けると従者は直ぐに部屋を出ていった。アストラル達は扉を透過して中に入る。
「こんにちは」
中に入ると同時に、少女にそう言われた。予想外の展開にアストラルは目を白黒させる。
少女はアストラルを安心させるように微笑んだ。
広場でみせた声とは異なる、あどけなさが残る声で彼女は語りかける。
「広場にいらっしゃいましたね」
「――うん。とても綺麗な歌だった」
「ありがとう」
彼女は心底嬉しそうに笑んだ。花が綻ぶような表情に、アストラルは思わず視線を逸らす。
「私はアルテミス・ヘルムと言います。お名前をお訊きしてもいい?」
「アストラル」
「後ろの方は?」
アルテミスは瞳を閉じたまま、顔だけケイオスに向けた。ケイオスが感心したように笑う。
「俺はケイオス。俺が分かってるってことは、足下の狼も分かってる?」
「はい」
「こいつはピク。俺のお兄ちゃんだ。――なんで目を閉じてるの?」
「開いていても意味がないからです」
「目が見えないの?」
アストラルは自分のことのように痛ましく思い、眉間に皺を寄せる。そんなアストラルに彼女は慣れたように淡々と答える。
「はい。生まれつき見えません」
「じゃあ、なんで俺達のことが分かるの?」
「視覚以外の感覚が他の人より優れているんです。だから私は、目では見えない者に他の人より簡単に気がつくことができるんです」
たとえば皆さんのように、と彼女は微笑んだ。
「流石、噂に名高い救済者様だ」
ケイオスが感心したように笑むと、アルテミスは首を小さく横に振った。
「私はまだまだ半人前です」
小さな顔に憂いが浮かぶ。アルテミスはそれを振り払うかのように、表情を笑みに変えた。
「それで、私になんのご用でしょう?」
ケイオスとピクの視線がアストラルに揃い、アストラルは急な展開に少し動揺した。
まだ訊きたいと思っていたことが、具体的な言葉になっておらず、自然と口ごもる。
「あ~~、え~~っと……」
そんなアストラルに、彼女は微笑む。
「この後お暇でしょうか? よかったら、一緒にお茶でもいかがですか?」
「あ――うん!」
アルテミスの助け船に、アストラルは勢いよく乗り掛かった。
ケイオスは何故かピクを連れてどこかに出掛けて行き、結果的にアストラルはアルテミスと二人でお茶をすることになった。
初めて会う人間で、しかも近くにピクがいないというのに、彼女といると自分の心が癒されていくのがわかった。
広い庭の東谷にティーセットを広げて、二人は他愛のない話をしながら、ゆったりと二人だけの空間を楽しむ。
庭に咲き誇るアデルという小さな白い花の芳香が鼻をくすぐる。静かな幸福感がアストラルを満たす。今なら自然と問いかけることができる気がした。
「――アルテミスはなんで救済者になろうと思ったんだ?」
小さく顔を上げて、アルテミスは微笑んだ。
「それが使命と思ったの」
「どうしてそれが自分の使命と思ったんだ?」
アルテミスは、はて、と考えるように首を傾けた。二人きりで話すアルテミスは、さらに幼く――やっと年相応に見えるようになった気がした。
「私には他の人にはない力があるって気がついた時からかな」
「あの歌声みたいな?」
「それもだけど、もっと別――私より感受性がかなり強いの。だからね、喋らなくても、触れなくても、見なくても、そのヒトの感情の流れが分かるの。そうして私はヒトの心の渦を歌にするの」
「じゃあ、あの広場の歌は、広場にいた人たちの心を歌にしたの?」
「そうなの」
そう言って、アルテミスはアストラルの手を握った。柔らかく、少しひんやりしたしっとりとした手に、アストラルは露骨に動揺した。しかしアルテミスは気にしないで続ける。アストラルに向ける顔はとても憂いを帯びていた。
「アストラル、あなたは今、自分に振りかかる大きな運命に困惑している」
アストラルは思わず息を呑んだ。目が見えていないことを一瞬忘れて、顔を反らす。そんなアストラルの素振りも容易に見えているかのように、アルテミスは握る力を強めた。
「帰る場所をいきなりなくし、人々の欲望、希望の的になった。――あなたは今、人の視線が恐ろしい」
アストラルの脳裏に、森から連れ去られた時の人々の狂った瞳が、次いで神殿でアストラルを凝視し、拝み倒していく人々の姿が過る。
「もう、森には帰れないってピクに言われた――」
言った途端、ポツリと手の甲に何か当たった。無感情に確認する。透明な液体だ。さらにそれが手の甲に落ちてくる。
それが自分の涙だということに気がつくのにアストラルは時間が掛かった。
「あ……」
一度泣いていることに気がついてしまうと、涙が止まらなくなる。
「母さん――っ、皆に会いたいよ――!」
堰を切ったように声を上げて泣くアストラルの背中を、アルテミスは聖母のように優しく撫で続けた。
「――これ、飲むと良いよ」
粗方泣き付くしたアストラルが鼻をすすっていると、アルテミスは一杯の水を差し出した。アストラルにはその水に懐かしい匂いを嗅ぎとる。懐かしさで、再び涙が滲んだ。
「これは――『森』の湧水だ」
それは、アストラルやピク達、使徒が毎日口にしていた水だった。連れ去られてからも『清水』と呼ばれる水を提供されてはいたが、森の湧水には遥かに劣っていた。久し振りに森の湧水を目の前にして、アストラルは改めてその清さを思い知る。
これをなんで? とアルテミスを振り仰ぐと、アルテミスは悪戯っぽく笑った。
「先日、狼の森に行った時に採ってきたの」
「森に行ったの? なんで?」
「森の穢れを確かめに。人に荒らされたと聞いたから…」
真っ先に自分が連れ去られた日のことを思い出し、アストラルは押し黙った。グラスに入った水を覗く。よくよく観察してみると確かに、ごく薄くだが靄が入っているように見えた。
「それで、森は穢れてた?」
アルテミスは小さく頷く。
「ええ、確実に。でも幸運なことに、水が湧く場所は最小限の穢れですんでたかな。流石に信者もそこが近付いてはいけない場所だとわかったみたい」
アストラルはゆっくりとグラスに口をつけた。前より僅かに穢れているといっても、その清さは群を抜いている。少しずつ味わって飲もうと思っていたはずが、勢いよく飲みきってしまった。
「森の水が一番美味しいや」
そう言って口を拭うアストラルにアルテミスは笑む。
「まだまだあるから、もっと飲んでいいよ」
アルテミスは先程アストラルが泣いている間に持ってきた水入れを軽く掲げて見せる。軽くグラス五杯分は入っていそうだ。
アストラルは有り難くそれを頂いた。
水入れも空っぽになり、ひと心地ついた頃、アストラルはゆっくりと口を開いた。
「アルテミスは俺を差別しないんだね」
できるだけ何気無く言ったつもりが、思いの外重い言い方になってしまったとアストラルは一人顔をしかめる。アルテミスは小首を傾げてから苦笑いした。そんなアルテミスを見て、アストラルは困惑する。
「なんで笑うんだよ?」
「アストラルがそう望んでるのが分かっていたからね。自分の特性がちょっと卑怯だと思って」
「そんなこと――ない……」
アストラルはアルテミスの手を握った。ひんやりとしたアルテミスの手が、熱を帯びた自分の手に心地良い。
「俺、嬉しかったんだ。アルテミスに普通に話して貰えて……。皆、俺を神子だって言って俺を普通の人間じゃないみたいに扱うのが嫌だったんだ。カールネルとケイオスは違ったけど……」
「アストラル……」
アルテミスは顔に憂いを帯びさせたが、それも一瞬ですぐに消した。固い表情と共にアストラルの手を強く握る。
「残念だけど、アストラル、あなたは普通のヒトではないわ。あなたは使徒なのだから」
アルテミスの言葉に、アストラルはいきなり頬を強く打たれた気分になった。
信用できると思った矢先に裏切られた、と無意識に思い、握られた手を振り払おうとしたが、アルテミスの力が思いの外強かった。さらに強く握られ、言い聞かせるように見えない瞳でアストラルの顔を覗く。
「俺は普通の人間だ――っ!」
「いいえ、あなたは使徒。それを否定してはあなたは自分の半分を否定しまうことになる。あなたは確かに人間だわ。でも使徒でもあるの。人間の使徒であるということは、人間――さらには月に住まう全ての種を導く者であるということなの。そんな人間が『普通』に扱われていいはずがないじゃない」
アルテミスの言葉に、アストラルは途方にくれたように呟く。
「俺は何もできないのに……?」
「確かに『今まで』は何もできていないかもしれない。けれど、あなたの役目は『これから』なのよ。これから、あなたは皆に必要とされる。あなたが正しく導かなければ、やがて皆月で滅ぶわ」
アストラルは目を瞬かせる。聞き覚えのある話だった。
『月はまだ百年はもつ』
『それから先は? 俺達の子孫に苦しめというのか?』
『……私達には直接関係がない』
――そうだ、ピクが使徒の塔で怒っていた話だ。
あの塔でピクはずっと他の使徒達にに怒っていた。あの時はピクの怒りについていけなかったが、今なら少しだけ理解できるかもしれない。
「でも、地球に帰らなくてもいいって言ってる人も結構いるよ?」
アストラルの言葉に、アルテミスは顔をしかめる。
「それは、カールネルが言っていた言葉?」
意外な程棘のある言い方にアストラルは少なからず驚いた。
「あと、棟の使途達も言ってた……それでピクが物凄く怒ったんだけど……」
「それはピクさんが怒って当たり前よ。その使途達は自分達の役目を放棄して、美味しい汁だけを啜ってるんだもの」
「でも、皆が望まなければ、地球に帰っても意味がないんじゃないか?」
アルテミスの顔が引き締まる。アルテミスは一呼吸おくと、噛んで含めるようにゆっくりと、しかしはっきりと言った。
「皆がそう望むように先導するのも、使途の役目よ。ここで今、月に住まう私達が一致団結して行動を起こさなければ、先は見えていんだから」
アストラルはそこでやっとピクの説明を思い出す。あの時のピクの説明は大雑把で、アストラルには今一つ理解に欠けていたが、アルテミスとの会話でやっと腑に落ちた。
「統一する者――」
「統一する者?」
「うん。ピクがそう言ってた……。人間の使途は『導師』と言って、それぞれ『統一する者』、『造る者』、『運ぶ者』って呼ばれるって。俺は『運ぶ者』だって」
「それなら、統一する者と造る者はもういないのね……」
アルテミスは顔を曇らせる。自分のことのようにその事実を悼んでいるようだった。
「だからピクはその二人に代わる人を捜せって。どうらや俺はその二人を捜さなきゃいけないみたい」
「えぇ――そうでしょうね。あなた一人だけではとても背負いきれないわ……」
「じゃあ、アルテミスがその一人になってよ!」
アストラルは閃いたとばかりに顔を煌めかせる。
「きっと君なら統一する者もできる!」
しかしアルテミスはその提案に露骨に顔をしかめて見せた。
「アストラル……そういうことは、よく考えて決めるべきよ」
「なんで? 俺が決めていいのに?」
「いい、アストラル。もし私が物凄く上っ面だけの口先女だったらどうするつもりなの? この人選には月に住まう全ての生命の命運が掛かっているのよ?」
諭すようなアルテミスの物言いに、アストラルは拍子抜けしたように頭を掻く。
自分の直感は間違っていないと思うし、なんとなく頼られて喜んで貰えるかと思っていた。
しかし次の言葉で自分が言い方を間違えたことに気がついた。
「私には、荷が重すぎるわ……。もっと適性がある人がいるはずよ」
アストラルは自分の『運ぶ者』という役割が今一つ理解できていなかった。しかしアルテミスの悲しそうな表情を見て、その役割の大きさを知った。アストラルからすると、アルテミスは何でも――もちろん、視力に関係しないことだけだ――できそうな気がするのに、そんな彼女ができない自分を悔やむようにしている。
アストラルは勢いに任せて言ってしまったことを後悔した。
アルテミスが握っていた手を放した。包み込んでいた温かさがなくなり、ひやりとした冷たい空気がアストラル手を撫でる。心までも冷された気がして、アルテミスの手を握りたい衝動に駆られたが、辛うじて抑えた。
アルテミスはアストラルの手の代わりに水入れを握った。
「ちょっと落ち着こう。湧水のお代わりを持ってくるから、ここで待ってて」
アルテミスは少し遠くで控えていた侍女を呼んで屋敷に戻ってしまった。
そそくさと立ち去るアルテミスの悲しそうな後ろ姿と、去り際の声、握っていた手の温かさ、アデルの芳香がアストラルの五感に焼き付いて離れなかった。
そしてアルテミスが庭に戻ってくることはなかった――。