使途
「ん――?」
アストラルは人の気配で目が覚めた。気配と言っても近くはない。壁一枚分向こう側の気配だ。
――ここは……?
目を開けると、ピクが素早くアストラルの頬を舐めた。
頭の下に置かれたものが酷く柔らかい。身体に被せられたものも酷く柔らかく、また軽かった。
――鳥の羽だ。
アストラルには臭いでわかった。これだけの羽を集めるのに、いったいどれだけの鳥が殺されたのだろう。
『起きあがったら人が来る。寝ていろ』
『――俺、どうされたの?』
『眠らされたんだ』
『帰りたい……』
『俺は忠告したはずだ』
ピクの睨むような目に、アストラルは気圧される。
『ごめん――』
『俺は別にいい。これはお前の問題なんだから』
『俺の問題?』
『そう、アストラル、お前の問題だ』
『俺、やっぱり神子ってやつなの?』
『人間は、人間の使徒をそう呼ぶな』
『使徒って何? ここに連れてこられてから分からないことだらけだよ』
『あえて教えていなかったからな。使徒とは地球の眷属のことだ』
『地球の眷属――?』
アストラルがそう呟いた所で、アストラルの顔を覗いてきた人間と目があった。先ほどアストラルの前に立ちはだかった双子の片割れだ。
「お目覚めになられていたんですね」
アストラルが目に見えて顔を顰めると、彼は困ったように笑った。
「まだ眠られますか?」
「――お前、誰?」
「私は神子様の傍仕えを任されました、リードです。先ほどもう一人いたのが、私の双子の弟でレッドと言います」
「俺は起きたら何されるの? また人が一杯いる所行かされる?」
森に帰りたい……と小さく狼の言葉で言ったが、やはりそれはリードには通じない。代わりにピクが励ます様にアストラルの頬を舐めた。
「いえ、司祭様には使徒様の棟にお連れするように託っております」
「使徒って……?」
「神子様と同じように、我らが神の御遣いであらせられる方々です。どうされますか?」
「――行く」
アストラルはむくりと起きあがった。
自分は彼らの神の遣いだという。ピクの言い分だと、使徒というのはどうやら自分と同じ立場の様なものらしい。それなら是非会ってみたかった。そうすれば、自分が何に巻き込まれているのか、多少は分かるかもしれない。
もう一度一杯の清水を貰い、またあの仰々しい神輿に乗せられ、アストラルとピクは『使徒の棟』と呼ばれる場所に向かった。使徒の棟の綺麗な群青色で染め上げられた外壁を見た瞬間、アストラルは思わず声を上げた。使徒の棟も神殿に劣らず豪奢で、目がチカチカした。
大きな扉の前で降ろされると、リード達が頭を下げた。
「ここから先は、我々は立ち入ることが許されません」
――自分の足で行ってくれってことか。
高々その程度のことを何故そこまで仰々しく言うのだろう。そう思いながら、目の前の大きな扉を開いた。
――うわ。
アストラルは目を見開く。
ライオン、牛、馬、鼠、兎、鹿、鶴、雉、カモ、錦蛇、亀、蛙――他にも多種多様の、爺さんの家の図鑑でしか見たことがない、もしくは見たことすらない動物達が、全身を碧一色に染めて深い紅色の絨毯の上に鎮座していた。
アストラルにはそれがとても荘厳な風景に見えた。
《よくぞ参られました。我らが『導師』よ》
「?!」
唐突な感覚にアストラルは困惑する。頭に直接言葉が投げかけられた様な感覚。普段自分の心と会話しているのとはまた違う感覚だ。
「お前達が使徒……? 俺の『同士』?」
《そうです。我々は地球の眷属であり、使徒であります》
アストラルは全ての使徒たちを見渡すが、誰も口を動かしている気配がないため誰が自分と話しているのかが分からない。頭に伝わってくる声は同じであるように感じたので、同じ動物が話しているとは予想できた。
今度は別の声が聞こえてくる。どこか嘲笑を含んだ声だ。
《導師サマは念話ができないのかしら?》
「念話?」
頭のなかでクスクスと笑い声が響く。
念話とは何だろうか、とピクに問い掛けようとしたところで、ピクの身体が小刻みに震えていることに気が付いた。
《貴様らは何様のつもりだ!》
ピクらしき声が脳内に響き渡った瞬間、鎮座していた使徒たちが一斉に吹き飛んだ。アストラルとピク以外が突風に吹き飛ばされたかのように、一様に壁に叩きつけられる。そこかしこでうめき声が聞こえる中、ピクが前に踏み出した。
《もう一度言う。貴様らは、いったいどんなご身分なんだ?》
アストラルやポイには一度も見せたことがないようなピクの激情に、アストラルは思わず尻もちをついた。怒りを向けられているモノ達の一部は、当たり前だがアストラル以上に震え、涙を零しているモノもいた。しかし、あろうことか歯向かうものも、もちろんいた。
《使徒ですね》
牡鹿がゆるりと立ち上がった。初めに声をかけてきたモノと同じように思えたので、きっとこの鹿が一番偉いのだろうと、アストラルは震えながら考えた。
《いつから使徒はそんなに偉くなったんだ?》
《地球の御遣いなのです。尊ばれて当たり前でしょう》
《それは使徒が使徒としての使命を全うしていればの話しだな》
ピクの圧力が俄然強くなる。いつもは力をかなり抑えてはいるが、ピクの力は森の中でも群を抜いていた。それはここでも同じなのだろう。使徒の何体かがもう止めてくれと鹿に目配せをしている。
《我々の使命は、種を地球へ送り出すことだ》
《そうだな。それが第一だ。しかし、明文化されていないだけで、俺達にとっての『やって当たり前』の使命もあるよな》
鹿は押し黙る。
《お前らはそれを怠っていた癖に、まだ自分は使徒だ、敬えと偉ぶるのか?》
《しかし、地球はそれでいいと――》
《地球はお前らに情けをかけ過ぎだ。そしてお前らは、地球に甘え過ぎな上に傲慢だ。お前らの過ちのせいで『導師』が一人になっちまった。見ろ、こいつを》ピクがアストラルを鼻で示す。《まだこんなに小せぇんだぞ。お前らはこんな小せぇやつに月に棲む全ての生き物の運命を背負わせたんだ。最低の糞野郎どもだ》
動物達の視線がアストラルに集まり、アストラルは硬直した。そして彼等の瞳から重く暗い罪悪感が滲み出ているように感じ、酷く困惑した。
アストラルの額から冷たい汗が一筋流れる。
『ピク、話についていけないよ……』
アストラルは狼の言葉で呟く。ピクがアストラルを気遣うように、アストラルの汗を舐め取った。頭のどこかで《狼の言葉なんて……》と聞こえてきたが、ピクが一瞥すると小さな悲鳴を上げて黙った。
『すまん、アストラル。後から順をおって説明する』
『俺は何か関係あるの?』
『残念ながら、大有りだ。お前がこいつらを殺してしまっても、こいつら以外の使徒が誰も文句を言わないぐらいな』
ピクはそれだけ言うと、再び脅える動物達に振り返った。アストラルに向けた優しさとは正反対の感情を見せつける。
《お前らの過ちのせいで、『造る者』と『統一する者』が喪われた。残されたのは『運ぶ者』だけだ。この意味が理解できるか?》
誰も押し黙ったまま答えない。予想はできていたのだろう、ピクはそのまま厳しい口調のまま続けた。
《『運ぶ者』――こいつだけで、船を造り、全ての種を地球に帰れるように意思の統一をしなければいけない》
《……このまま、月に残ればいい》
誰かが小さく反論した。ピクはすぐに誰が発したのかわかったのだろう、素早くライオンに振り向くと睨んだ。多くの動物達がライオンに賛成するように押し黙る。
《この腑抜け共が!!》
ピクの一喝と共に、再び動物達が壁に叩き付けられる。
《見事にあの卑しい奴等に洗脳されたな! 》
《しかし地球は、それが月に生きるものの総意ならそれで構わないと言っている》
鹿が膝を屈指ながら反論する。ピクは吐き捨てるように言った。
《地球は甘ちゃんなんだよ! 地球に導くべき俺達が、月に残るように仕向けてどうする? あと四年しかないんだぞ?》
《月はまだ百年はもつ》
《それから先は? 俺達の子孫に苦しめというのか?》
《……私達には直接関係がない》
鹿がそう言った途端、アストラルの視界は真っ白に染まった。次いで空気が震えたかと思うと、何か把握できない程のおびただしい破壊音がアストラルの耳を突き抜けた。
一瞬だがピクの理性が飛んだのだと気が付いたのは、目が色を拾い始めてからだった。
『ピク……』
肩で息をするピクにそっと呼び掛ける。
ピク以外、アストラルの視界に映る全ての物質は破壊しつくされていた。辛うじて原型が残っているものは使徒達だけだろう。身体中の碧い毛を血で紫に染めているが――。
「神子様、ご無事ですか?!」
破壊された大扉の向こうから双子達が顔を覗かせ、皆揃って顔を青くした。
リードは唯一無傷のアストラルに駆け寄る。アストラルに本当に怪我がないかを確認すると、やっと僅かに安心した。その頃にはピクは落ち着いたらしい、アストラルの隣にむっつりと座り込んだ。
「何があったのでしょうか?」
アストラルが何と説明すればいいかと困惑していると、ピクがぼそりと促した。
『俺がキレたって言えばいい』
「その……ピクが使徒達に怒ったんだ」
「そちらの狼の使徒様のことですね? 何故怒られたのです?」
「子孫がどうとか言ってたけど、よく分からない……」
ピクが立ち上がり、大広間を出ていく。リード達が困惑したようにアストラルとピクと倒れて身動き一つしない使徒達を見比べる。
『ピク!』
『もうここに来る価値はない。行くぞ』
アストラルは駆け出した。
「神子様、お待ち下さい! レッドとリトゥンは至急、使徒様達の救護を呼んでくれ! 俺とロウトは神子様にもう少し事情をお伺いする!」
「分かった!」
アストラルの後ろを双子の片割れがそれぞれ続いた。