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ツキビト  作者: 小島もりたか
3/9

目覚め

 暗いどこまでも暗い闇の中で、少年は自らを護るように小さく丸まっていた。


 目を開けたくなかった。

 寒くて心細かったが、それ以上に目を開くことが怖かった。


 すぅと、恐らく少年とはかなり離れた場所で碧い炎が灯る。

 距離が定かではないのは距離を測るための対象がないからだ。

 少年と炎の間には闇しか存在しない。


 少年はまだその炎の光りに気がつかない。


 炎はやがて形を成し、宝石のような毛並みを持つ狼に変わった。


 少年はまだその存在に気がつかなかったが、碧い狼も少年の存在に気がついていないようだ。



 狼の側にどこからか星の雫が落ちてきた。


 薄い水色を湛えた、高潔なる雫。

 しかしそれは哀しみも含むように、時折藍色を織り混ぜる。


 それは狼の前に立ち止まると、見事な球体を保った。


 狼が口を小さく開く。


「とうとう見つかったのね」


「ごめんなさい……」


 少年はまだ気がつかない。

 声が届いていないのかもしれない。


「あなたのせいではないわ」


「これから彼は苦しむ」


「それも全ては息子の成長の、率いては全て種のためになる」


 狼が雫を励ますように笑んだ。

 雫以上に深い碧を湛えた瞳が雫を映す。

 それは過去の美しき時代の地球のようにも見えた。


 彼女の声はとうとう少年の耳にも届いた。


 柔らかく慈しみのある声に少年は顔を上げ、目を開く。


「……母さん?」


 少年の呟きは狼にも届いた。


 狼は驚いたが、少年の存在を確認すると滑るように走り寄り、声もなく少年の頬を舐めた。


「母さんがなんで俺の心の声と喋ってるの? 」


 母は答えない。

 優しく頬を舐めるだけだ。


 少年はあたりを見回して、自分達と宙に浮く雫の球体以外何もないことに気がつく。


「――そうか、これは夢なのか」


 少年は思いっきり母に抱きついた。

 夢の中ならば母に思う存分抱きついても、ポンに焼きもちを焼かれることも、ピクや母にたしなめられることもない。


 少年が母の身体に頬を擦り寄せても、母は少年を舐めることを止めない。


「止めてよ母さん、そんなに舐めたらくすぐったいよ」


 こんな夢ならずっと続けば良いと思った矢先、どこからか心の声が残酷な事実を告げた。


「アストラル、朝が来るわ――」





「――っ」


 絹連れの音と、静かな足音がする。

 一つ一つは小さな音のはずなのに、それが幾重にも幾重にも重なるので、とても大きな音に感じられた。


 そしてその音が木霊する。

 閉じた空間にはいるようだが、とても広く感じられる。


 上半身が温かく、ふかふかして肌触りがいい。

 安心する匂いがする。ピクの匂いだ。

 どうやら自分はピクの身体を枕にしているらしい。


 甘いハーブの臭いがした。

 あまり好きじゃない。

 ピクの身体に顔を埋める。


 ピクの匂いだけの世界に深く安心する。



――おはよう、アストラル。


――ここはどこ?


――ここは……。


 微睡みの中、目を開けようとすると、


『まだ寝ていろ』


 と、ピクが小さく唸った。


『いいの?』


 アストラルは甘えるように鳴く。


『あぁ、寝てて良い』


 今日はなんてついているのだろう。

 いつもなら、目覚めたのに気付かれた瞬間に起こされるのに。


 しかしその喜びも直ぐに小さな物音に書き消された。


 数え切れない程の気配が近くで蠢いている。


 こんなにも多くの気配は森の中で一度も感じたことがない。



『……ここはどこ?』


『大丈夫だ、まだ寝ていろ』


 ピクの口調が張りつめている気がした。


 アストラルの中で不安が膨らむ。


 返事をしないアストラルに、ピクは繰り返す。


『寝ていろ』


 こう気になってしまっては、少しくらい周りを確認しないと寝られない。


 心の声が何かを言い出す前にアストラルは薄く目を開き、しかし、その目は直ぐに見開かれた。


――どこだ、ここは?


 辺りは青の世界だった。


 天井は高く、丸い。そして青のグラスで構成されているため、外からの光で中が青一色に染められている。


 気配のする方に視線を向ける。


 自分とピクが居るところは少し高い位置にいるらしい。

 そこから眼下には、自分に向かって床に頭を着ける人、人、人、人、人――。


 皆、揃えたように同じ型、同じ色の服――恐らく白だろう、光の色で水色に見える――を着ている。


 それはアストラルにとってはあまりに異様な光景に思えた。


――なんだこれは……?


 思わず起き上がりピクの毛を強く掴む。

 後退りもしたが、背中はすぐにピクの胴体に当たった。



「おぉ!」


 少し離れた横から感嘆の声が聞こえた。

 振り向く。おそらく紺色の服を着た、初老の男と目があった。


 白髪が少し混ざり始めた男性の肌は、年齢にそぐわない程瑞々しい。


 アストラルは始め、彼の瞳の奥にどす黒い塊が踞っているように錯覚して、彼を怖いと思った。


 男の声に下にいた人々が一斉に顔を上げる。


 誰かが「神子みこ様!」と声を上げると、嵐が来た海のように次々に声が上がった。


「神子様、どうか我々にお導きを!」

「我々に救いをください!」

「神子様!」

「神子様!!」


『な……なにこれ……?』


『だから寝ていろと言ったんだ』


 ピクが毒づく。アストラルが途方に暮れた表情をしても、人々が興奮を収めてくれる様子はない。


 声という声が堂内に響き、大きさを増す。

 アストラルは半狂乱に見える人々に恐れを覚えた。

 逃げようとピクの背中を上に押すが、ピクは落ち着き払ってびくともしない。


 いよいよアストラルの足元に人々が殺到しようとしたとき、紺色の服の男が片手を挙げた。

 そしてよく響く声で人々に言う、


「皆、静まれ。神子様が怯えていらっしゃる」


 その言葉で、人々は電源が切れたように動かなくなった。


「落ち着きなさい」


 よく調教された動物のように、人々は静かに姿勢を正す。

 再び後頭部ばかり見える体勢になった。


 ギラギラした瞳が見えなくなると、アストラルはやっと少し落ち着きを取り戻した。


「あの……ここは?」


 男は張り付いたような笑みをアストラルに向ける。

 それだけなのにアストラルはそれがとても嬉しかった。


「おはようございます。神子様。ここは神子様の神殿でございます」


 アストラルはやっと眠ってしまうまでのことを思い出した。


――そうだ、俺、この人達にたぶん捕まったんだ。


 記憶が途絶える前のことを思い出して小さく身震いする。

 人々の視線が心底恐ろしかった。


――母さんや爺さんは無事なんだろうか?


 心の声は答えない。


「……神子様って俺のこと?」


 否定を願って確認をする。

 しかし男は心底嬉しそうに頷いた。


「はい、そうでございます」


「……神子様って何?」


「神子様は我らが神に愛された最も尊い御方です」


「神様に愛されたことなんてないよ?」


「いいえ、愛されていらっしゃいます」


 そんなはずはなかった。

 神というものが具体的に何かは分からないが、アストラルの記憶には神というものに関わった記憶も、ましてや愛された記憶なんてこれっぽっちもない。


 何故そんなことを自信満々に言えるのだろうと首を傾げていると、男はそっとアストラルの髪を手で示した。


「その美しい碧い髪と瞳がその証拠でございます」


「髪と目――?」


 アストラルは髪と瞳の色は碧いことが当然だと思ってきた。

 彼の周りは、爺さんや見慣れない動物以外は皆そうだったからだ。


 ピクを見る。

 傍らで寄り添ってくれているピクも、実際に碧い。


 アストラルの言いたいことを察したのか、男は微笑み、人々に視線を向けた。


「ここに居る大勢の者は、誰一人碧い髪や瞳は持ち合わせておりません。私が知っている者にも、神子様以外は一人もおりません」


 アストラルもつられて視線を向ける。


 白に映った青と髪の黒が水底でたゆたう丸い藻を連想させる。


 しかし、その藻にはギラギラとした瞳が付いている。

 多くの瞳がアストラルの姿を捕らえて離さない。


 人々は狂ったようにアストラルに向かって祈っている。


「――怖い。怖いよ」


 アストラルは男に懇願する。


「ここに居たくない」


 その時の男の微笑みはとても慈悲深く思え、心底安心した。


「分かりました。少し休憩しましょう」


 男に手を差し出される。

 アストラルはその手を取った。


 じっとりと湿り気を含んだその手は、普段なら不快に思うはずなのに、今はとても心地好く感じた。

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