猟犬系女子、色々やらかしてムンクの叫びになる
遠くで水の音がした。
「!」
眠子は反射的に飛び起きた。
寝ていたらしいソファの上で上半身だけ起こして、ぐるりと周りを見回す。
(事務所だ、ここ……)
はずみにポトリと眠子の膝に、水で濡れたハンカチが落ちてきた。
どうやら誰かに介抱を受けていたらしい。
それをくしゃっと握りしめて、眠子は強く額に押し当てた。
心臓がバクバクとせわしなく鳴っている。
視線は社長のデスクの背後の壁掛け時計へ。あれから一時間ほど寝ていたようだった。
混乱に拍車がかかった。
(ええっと、なにがどうなって……。そうだ、外人に頸絞められたところまでは覚えている)
おそるおそる喉に手をやって、そっとさすってみる。
綺麗な締め方をされたらしく、喉の圧迫感はなかった。
だが――。
上半身だけひねって、丁度正面にあった事務所の入り口にかかっている姿見を覗き見れば、眠子の喉に赤い輪が出来ているのがわかった。
(手形かよ。あんにゃろう……)
最悪だ。猟犬と称される身からすれば、ぐるりと首を回る痣が首輪のようで癪にさわった。
眠子は、忌々しい思いを首振って追い出した。
もっと大事なことがある。
(そうだ社長はどうなっt)
「あ、佐倉が起きたあああ!」
突然の叫び声に肩をビクッと跳ねさせて、眠子は声がした方向に目をやった。
給湯室の入り口に社長がいた。
しかも、水の滴るハンカチを握りしめながら仔犬の様にぷるぷるしている。40歳男性。
眠子を介抱してくれたのは社長だったらしい。
えらいぞ40歳。だが、ハンカチがミッフィーだ40歳。
「しゃ、社長……?!グハッ」
戸惑っている眠子にむかって、弾丸のように当の社長が飛び込んできた。
……よりにもよって、眠子のみぞおちに頭突きをかましながらだ!
眠子はゲホゲホとせき込んだ。
コイツは、止めを刺しに来たのだろうか。
ジト目で見下ろしても、社長は眠子の腹に手を回して、保護者を見つけた迷子の子供のようにがっしり抱き付くばかりだった。
40過ぎの黒縁眼鏡でワイシャツずるずるの野暮ったいおっさんが、18歳の小娘の腹に抱き付いておいおい泣いている。
(社長は無事だった。無事すぎて……もう少しどうにかならないのか!)
セクハラと傷害の重罪で、眠子の目がキリキリと吊り上がった。
「心配したんだよぉおお! 帰ってみれば、佐倉はすんごい怖い顔で中尉と睨みあってるし、目の前でバカスカやられるし! 佐倉気絶したら美人かなって思ったら、凄い顔で歯ぎしりしだすしいいい!」
「心配するか、けなすかどっちかにしてくれません?! てか、セクハラで訴えるぞ、このスットコドッコイ!!」
引きはがそうと、社長をむにににー、と引っ張ってみるも子泣きじじいのようにがっちりとホールドされている。
更にウザいことに、社長が高速でいやいやと頭を振る為に、眠子の腹がドリルの様にえぐられていった。
忍耐力もえぐられる上に、スーツが皺だらけだ。
こめかみに青筋が浮いて、口元が引きつっていく。
シグナルイエロー
「あ、佐倉?」
その殺気を感じた……わけもなく、社長は急にぴたっと止まって、眠子を見上げた。
40過ぎの上目づかい――視覚の暴力で訴訟起こしても、多分勝てる。
「……何ですか?」
かろうじて舌打ちを耐えて、眠子はぞんざいに聞き返した。驚嘆すべき忍耐力だった。
「ちょっと太った? 前より腹に肉が付いてるような気がすr」
――が、社長はその上を行くKYである。
ウザさと、発言内容のムカつきと、現在進行形のセクハラ、スーツへの賠償、そしてその他もろもろの余罪で……眠子は盛大にブチ切れた。
「……ヒューマン。おぉ、この世で最もおろかなる種族よ」
魔王眠子が爆誕した。
ギリギリとアイアンクローで社長の頭を鷲掴みにして、粉砕しそうなほど力を込める。
痛みと恐怖で、社長が更に涙目になった。
「い、いだだだだだああああ」
「せっかく助かった命を、不用意な発言で散らすとは……かくも愚かしいものよ」
眠子の絶対零度の視線が、社長にざすざすと刺さった。
「すいません、すいません!調子に乗りましたッ!」
「……」
「ごめナサイ、ワタシ、ワルイヒトチガウ……」
「スイマセンスイマセン、ハンセイシテマス。ホントホント」
無言で更に力を込めると、社長はどんどんカタコトになっていく。なぜだ。
「ゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイ」
(こぇええよ……!)
眠子は、謎のカタコトがコワイのと気持ち悪いのと、疲れで、いろいろとどうでもよくなってきた。
引きつった顔でため息交じりに、社長をのぞき込む。
「……反省してます?」
「イエスマム!ベリーイエス!ホンマニイエスデンガナ」
(誰がマムやねん……)
めんどくささが最高潮に達したので、眠子は社長を許すことにした。
それでなくても、社長は看病してくれたらしいので眠子は一応感謝しているのだ。
だから、セクハラは看病で相殺だ。
その前に、最後の情けを見せてにっこり笑いかける。
おなごなら修正を求めずにはいられないのだ。こと体重に関しては……。
「それで、私が太っているというのは?」
「あ、それは本当です、ハイ(`・ω・´)キリッ」
「ハハッ、デストローイ☆」
そこは嘘でもノーと言えよ☆ そこだけ急に流暢にしゃべりやがって、ハハッ!
きゃはっ(*'▽')と笑って、眠子は社長の頭をスパーンと引っぱたいた。
ただのビンタなら良かったが、眠子は何しろ猟犬系女子だった。
その膂力はすさまじい。
「ひぶっ」
と間抜けな声を出して、社長は撃沈した。
……手加減はした。……たぶん。
負傷しているときに余計な体力使わせやがって。けっ。
眠子はやさぐれていた。
不審者に首絞められてオチて、起きたら起きたで、今度は社長に精神的ダメージを食らった。必死こいて助けてやったのに、この上司ときたら……。
ため息ついて、ひ弱く気絶した社長をよっこいしょと自分が寝ていたソファに寝かしてやる。
入れ替わるように立ち上がって、背伸びをした。
かなり手加減したねこだましなのに、一発で撃沈したってことは、どうせまた寝不足だったんだろう。
軽佻浮薄な普段の言動に似合わず、この社長は色々厄介ごとを背負い込みやすいのだ。
そもそも超能力者ってだけでもめんどくさいのに、国の中枢に関わる予知能力者ともなれば……。
まぁ、自分がいないところで、なにかやっているということは察しが付く。
「ん? なにか……」
社長さっきなにか言ってなかったっけ。
眠子は片手で額を覆い、親指でこめかみをぐりぐりと指で押して、記憶を掘り返した。
そうだ、ついさっきの出来事だった。
「たしか『すんごい怖い顔で中尉と睨みあってるし』だったっけ? ……誰だ中尉って」
眠子の訝しげだった顔が、どんどん引きつっていく。
(私が睨みあってたのなんて、あのサングラス包帯不審者しか……)
とても嫌な予感がする。
バッと、音を立てる勢いで社長の顔を見下ろした。
(こいつ、さっきの不審者の正体を知っているんじゃないか……?)
幸せそうにむにゃむにゃ言っている顔が、無性に癪にさわった。
「ちょっと、おっさん!あんた、あの不審者が誰か知ってるんじゃないのか?!」
怒りの眠子が、社長の服を鷲掴みしてがっくんがっくんと揺さぶった。
マッチポンプなんて冗談じゃない!
社長の目的は不明だが、最悪、不審者を招き入れたのは社長かもしれないのだ!
社長のうっかりで眠子がボロボロになっているなら、これは見逃せない……!
社長は肝心なところで抜けているので、絶対ないとは言い切れないのが悲しいところである。
怒声を上げる眠子に対して、社長はまったく起きない。
むにゃむにゃと寝言を言い続けるだけだった。
「おなかいっぱいなので、ぱふぇのお代わりください。だいじょうぶ、べつばら~だし~。むにゃむにゃ」
「お約束かよ! 私より女子力高い事言いやがって!」
社長は、眠子の容赦ないゆさぶりにも余裕で寝こけている。
(何だコイツ……!普段いじめすぎて、耐久性が増してやがる!)
眠子は恐れおののいた。
このままだと、社長が目を醒ますまで、じっとりと待つ羽目になる……!
(そんなの、めんどくさい!)
社長は、寝不足の時はひたすら寝る。
下手すりゃ、10時間もザラだ。
ギリリッと、歯ぎしりした時、外階段を昇ってくる人の気配に気づいた。
身構えると同時にバーーンと音を立てて、事務所出入り口の扉が開く!
「説明しよう!」
「どっから湧いた諸悪の根源!」
反射的に突っ込んでしまったが、逆光を背に現れたのは……まさに美貌の厄災そのものだった。
クリスチャンディオールのシックなグレーのパンツスーツ姿。
上品だが、きりりとした顔立ち。
年齢は30半ばのキャリアウーマンといった風情だが、目はきらきらと少年のような好奇心と楽しさに輝いていた。
男性優位の政界で誕生した、我が国初の女性首相。
名を、朝島三弥子。
社長と眠子の、直接の上司でもある。
「お邪魔するよ、佐倉ちゃん。元気そうで何より」
扉の枠に背中を預けて、首相はひらひらと手を振った。
「やっぱり三弥子さん、あなたがなにか仕組んだってことですか……」
さっきは反射的に元凶だと断定したが、あながち間違ってはいないだろう。
引きつった声で尋ねると、案の定首相はニヤリと笑って答えた。
「その通り! まぁ仕組んだって程じゃないけど。 あ、こちら、同盟国から来たVIP。軍人さんで、階級は中尉でーす。今回の依頼主でもありまーす!」
じゃんじゃじゃーん!――と首相は機嫌の良い口ファンファーレと共に、外階段にいた人間を中に呼び寄せた。
眠子はのっそりと入ってきた巨体を見て、気絶するかと思った。
1時間前、生きるか死ぬかのバトルした軍服姿の外人だった……。
今回は、サングラスではなく、骨董品のような、レンズが割れた眼鏡をかけている。
その眼鏡の下の、両目を覆う包帯は健在である。
(目を包帯で隠しているんだから、上から眼鏡かけても意味ないだろそれ!)
現実逃避で脳内でツッコミを繰り出す、眠子。
それどころじゃないのは自分が一番よく分かっていた。
そうか、社長が中尉と呼んでたのは、この人のことだったのね。はは……。
……正直、別人だと思いたい。
まさか、依頼主とバトルしたとか自分でも信じたくない。
だが、これだけ変な格好をしている外人なんて、そうはいない。
しかも、外人の顎下には手当の湿布が貼ってあった。
眠子が渾身の力で蹴り飛ばしたのだから、当然ではある。
つまり、これで本人決定!……酷い駄目押しだった。
くらくらと眩暈がする。
(……VIPに蹴りかまして、――つまり依頼人を足蹴にしたわけですがそれは)
「あ、あの――」
「ん?」
引きつった顔で、おそるおそる眠子が片手を上げた。
ニヤニヤと笑いながら、三弥子首相が先を促す。
「仮にですよ、仮に同盟国のVIPがうちの国の人間に襲撃されたら、その、どうなります……?」
首相はビッと親指をサムズアップして、テンション高く答えた。
「外☆交☆問☆題! そのまま大惨事世界大戦で世紀末到来だね!(*'▽')」
イェア!と輝く笑顔は、そのままタイムズの表紙を飾れそうなほど魅力的だった。
だが、内容は全く笑えない。
「うあああああ!」
眠子はムンクの叫びじみた、とても面白い顔芸を披露した。ぐにゃぁああ。
その姿をさっきまでの敵で、今のVIPは、憐みと同情まじりの視線で見守った。
ニヤニヤ笑いの首相と、寝こける40歳社長と、崩れ落ちる18歳OL。
そして、微妙な顔で沈黙する、とても意味のない眼鏡をかけた軍人。
とてもカオスな事務所で、眠子の悲鳴がいつまでも響いた。