神有月とドーナツ
十月は旧暦では神無月と呼ばれる。
神無月になると、日本全国の"神様"なるものは出雲へ集められる。つまり一ヶ月の間その地方を留守にするのだ。
そして八百万の神が集まった、出雲だけは神有月と呼ばれるのだ。
かつて現人神と呼ばれた天皇の住まう東京も例外なく"神無月"だった。
「腹減ったな」
とはいえ他宗教のいいとこ取りをしたこの国では神無月ーーーーーーというよりもジャックオランタンのほうが目立っていた。
「一日働かない奴が何言ってるんだよ。学生やらないならせめて稼げ。働けよ。」
私服姿の青年の隣、同い年くらいの学生が脇を突ついた。
制服は有名私立高校北条高校のものだ。
彼は非常に真面目で勤勉家だと、近所からの評判も良い。
だが隣の青年はと言えば。
「……ニコチン摂取した所で腹は満たされないと思うぞ」
未成年ながら、喫煙家だった。
駅前で北条高校の青年は彼と別れた。何でも受験で忙しいとのことだった。
それと入れ替わりで駅の改札から現れた人物に、青年の目が留まる。
「はろー」
「お前か」
ニコニコしながら近付くその少女は小柄で色白の大和顔だった。
大人らしいというより、あどけなさの残る顔立ち、さしずめ"たおやめぶり"と言った所だろうか。
「電車で遠出とは、お前にしては珍しいな」
「うんー、大事な用事だったからねー」
「切符間違えなかったか?」
「いい加減そのネタうざいよー、もう世の中パシモの時代だよっ」
ポニーテールに結った黒髪を青年にぶつける。美しい髪の毛が鞭のように直撃した。
「地味だし痛いしやめろ」
「悪いのはそっちだよ〜。私のこと子供扱いしてー。」
少女は口を尖らせる。
実際、幼い頃に切符を買い間違えたことを揶揄った彼が悪い。
「悪かったよ、何か食うか?」
そこで彼は食べ物で機嫌を取る作戦に出た。奇策万策を立てるのは彼の得意技である。
少女はしばらく考えて、駅のロータリーを挟んで反対側のドーナツチェーン店を指差した。
「今ドーナツ食べたい気分〜」
「ん」
くわえていたタバコを踏み潰すと、ポケットに手を入れて歩き出す。
少女は嬉しそうにそのあとをスキップでついていった。
「持ち帰り用まで買うって、お前俺を破産させる気か」
トレーにコーヒーとドーナツが二つある皿を乗せて青年が席に戻ると、既に少女はチョコのドーナツに噛り付いていた。
あわよくば割り勘と洒落込もうとしたが持ち帰り用の会計にはぐらかされ、結局自分が損をする羽目になったのだ。
「んひょ?」
声になっていない声を発して、首を傾げるが青年は苦い顔をして首を横に振った。
ちゃんと説明しろ。
彼の顔はそう語っていた。
「もぐ……んぐ……あ、ごめんね。説明してなかったよっ」
自分もドーナツを食べながら少女の話に耳を傾ける。
「あのね、美浦さんにお願いしてきたの。それのお礼。」
「……ああ、あれか」
少女の説明だけで納得した青年に、これ以上の説明は必要無かった。
「美浦さんといえばドーナツだからな
それなら早く説明して……て、お前が払えよ、それ。」
「でも奢ってくれるって言ったのそっちだよ〜」
完敗である。
見事なまでに彼は大和なでしこに負かされていた。
「お前それはズルいだろ……」
「うひひ」
楽しそうに笑って、少女は残りのチョコドーナツを口に運んだ。
「神無月だね」
突然、少女は残り一つのドーナツの"穴"から目を覗かせて言い出した。
突然のことにニ、三秒遅れて青年が反応する。
「そうだな。」
「彼は行ってるの?」
「まあ、あいつも異邦人とはいえ神の端くれみたいなものだからな。」
青年も自分の残り一つのドーナツの穴を見つめてみる。
特に何の変哲もない、穴だ。
というよりまず、ドーナツに穴が空いていて疑問に思うことはあるだろうか?
それと同じように
友人に"神様"の"ようなもの"が居ても彼は特に疑問を抱かなかった。
ドーナツの穴はドーナツの一部のように
彼はたとえ"神様"だったとしても青年の"友人"だったのだ。
「彼とお別れするの寂しい?」
不意に、少女が口を開く。
その質問に青年は眉を顰める。
「このままだと片方が先に死ぬし、片方が後世ずっと長く生きる。
そしたら寂しくない?」
私なら。と少女は蠱惑的に笑う。
「彼とずっと一緒に、死ぬまで一緒になる手段知ってるよ。」
そこにあるのは先ほどと同じ"たおやめぶり"だ。だがその奥から滲み出る、妖艶な雰囲気。決して卑しくはないが、その誘いは神秘的で、何かを突き崩されそうなものだった。
「断る」
青年の落ち着いた低い声がその雰囲気に一石投じた。
「お前は何か勘違いしてるな」
「ほへ?」
ぼんやりとした雰囲気が、彼女の中に戻ってきていた。同時に、あれこれ丸め込まれていた青年の気だるいようで鋭い視線が戻ってくる。
「あいつはそんなこと望んではいないし、俺も望まない。
ドーナツは穴があるものも、無いものもあるだろ?」
少女は手元のドーナツに目線を落とす。
「お前は片方だけをドーナツって言えるか?」
青年は自分のドーナツを一口齧る。穴は消えた。欠けたことによって、穴はドーナツから消えたのだ。
「どんな形でもドーナツはドーナツだ。それと同じでどんな形でも友情は友情だ。」
最後の一口を口に押し込み、コーヒーで流した。
しばらくの間ぼんやりと青年を見ていた少女だが、やんわりと笑うと自分のドーナツの一部分を指で軽く押した。
穴の形が、ハートマークに変形する。
「これも、友情のひとつ?」
楽しそうな彼女に対して、一言。
「悪趣味だからやめろ」
そういえば一ヶ月も空けるのか。
ドーナツチェーン店を出て少女と別れ、交差点に差し掛かった辺りでふと神有月に出かけている友人を思い出した。
しばらく連絡を入れてなかったが、特に何を話すわけでもない。女ではあるまいし。
「あ」
交差点の真ん中、少しだけ立ち止まってメールを打ち込む。
「そうだ」
別に気取った訳ではないし、相手を気に掛けてメールした訳ではない。
けれどそれはある種の"お約束"
ーーーーーードーナツにある穴のようなものだった。
【お土産、松葉ガニ、買って来い。】