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 すでにここ屋上では、オレンジ色のひかりがそろそろ消えてゆこうとしている。

 陽が傾くにつれ、まるで下方から雲を映画のスクリーンにして薔薇色に染めているかのようにみえるのだ。


 ヨーコと三郎はふたたび、もはや迷宮ではなくなった森を抜け、はじめてふたりが出会ったベンチへと舞い戻っていた。

 ふり仰ぐ空は水よりも青い。


 ふたりは寄り添ってはいるけれども、何も喋らないでいる。

 別れの時が迫ってきているのはわかっていた。

 だけど、三郎は別れを認めたくはなかった。


 ――だって、あんなに楽しかったのだもの!


 しかし、しだいに森は暗くなり、葉っぱのなかに溜め込んでいた闇も取り返しがつかないまでにその濃度を濃くし、かげってゆく。

 光は失われる。

 樹々は黒々としたシルエットになり、三郎はなんとか森に吸い込まれてしまわないように眠気をこらえ、まぶたを懸命になって見開いていた。


 ヨーコはまだ、消えてはいない。

 彼女の声がした。眠りに甘くとろけていきそうな声だった。

 ベンチにはそこだけまだ仄白く薄い光がわだかまるように残っている。


「もうすぐ一日が終わってしまうね」


 ヨーコはいった。ひどく気だるそうに。


「楽しかったね」


 三郎もこたえる。


「さようなら」


 三郎は認めたくなかった。


「さようなら、って……」


 蝶の屍骸しがいと、貝殻とがベンチに残されている。

 ヨーコはもう三郎の傍にはいないのだった。


 貝殻を手にしても旅立っていったヨーコの行方を知ることはできない。

 しかし、たった一日の逢瀬おうせではあったけれど、千年もの時間の堆積を三郎は十分に満喫まんきつしていた。


 海の底ふかく潜航していったような青ぐらい層にむけ、三郎もまた、その形を徐々に沈めていった。

 蝶の屍骸を優しく拾い上げ、てのひらのうえに横たえると彼は何事かを短くつぶやいた。


 指に青い鱗粉りんぷんがついたようだったけど、輪郭さえもすでに見分けがつかなくなった。

 藍色の闇のなか、蝶の屍骸も風に乗り、飛ばされ、いずこかに消えた。


 ヨーコとは仮初かりそめの便宜的な名前でしかなかった。三郎もまた。



 森のなかのベンチでお喋りをしたり、バスに乗ったり、アイスクリームをめながら街を散策したり、映画をみたり、噴水のしぶきと戯れたりしたけれども、それは彼にとっていかなる時間であったのか、もう三郎自身にすらわからない何か、砂丘の上におぼろげに浮かぶ蜃気楼の街でしかなかった。


 けれど、一千年もの時間はターコイズの色をした小さな丸い石として結晶した。

 いまは彼の意識の海の底に沈んでしまったが、いつの日かひょっとしたら眼を覚ますかもしれない。


 風が吹くその日を待ちながら石もまた、眠りに就く。



 彼はカンガルーの男の子に戻っていた。


 バスのことも、あれほど甘かったアイスクリームのことだってすっかり忘れ、お母さんの袋のなかにいてじっとこちらをみている。


 その時だった。


 お母さんは何を思ったのか西の方角をめざし、ひときわ滑空時間の長く、しかも美しい弧を描く跳躍を敢行かんこうした。


 すると、カメラのフレームからカンガルーのお母さんも男の子もすっかり消えてしまった。



 あとはただ、風が鳴っているばかり。



 さようなら。


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