4
バスに乗って街じゅうを走り、やがて飽きるとふたりはバスから降りた。そしてソフトクリームを食べながら街なかを散歩した。
ソフトクリームを食べてしまったあとは映画館に行った。映画館の入り口は、回転式のガラス扉になっている。
「三郎くん、カンガルーのしっぽを挟んじゃいけないよ」
といいながらヨーコは建物のなかにさっさと入っていってしまう。
三郎は慌てた。
しっぽを挟まれるのは怖い。
けれど、ガラスとぶつかってしまうのは、もっと怖い。
何枚ものガラスの仕切りが回転している。後続の仕切りがやってくるその前に中に入ってしまえばいいのだけど、問題はタイミングだった。
ともあれ、風になればいい、と思う。
風になり、吹き抜けてしまえばいい。
と、呼吸をととのえ、イメージをした瞬間、三郎は一陣のつむじ風を巻いて突入していった。
そうして風となった彼の鼻尖きには、さっきバスに乗っているときに遭遇した、あの青い蝶がふたたび掠め飛ぶのだった。
傍にはヨーコがいる。
気がつくと、建物の中に入り込んでいる。
そうして彼女はといえば、天井から琥珀の色を放ちながら瀑布となって流れ、そしてそれがふいに時間の停止とともに凍結してしまったような氷の量塊を見上げているのだった。
「この氷はなに?」
三郎はその壮大さに呆気にとられた。氷だというのに冷たくはなかった。それに光を放ってさえいる。
「シャンデリア、っていうんだよ」
ヨーコが教えてくれる。
「え、しゃんでりあ」
「氷じゃなくてね、ガラス。人工的な灯り、とでもいったらいいのかな」
「すごいね」
「すごいよ。でも、もっと、すごいものがあるよ、こっちにきて」
ふたりは手を繋いで映画館の赤い絨毯が敷かれたロビーを走ったが、咎めだてる大人は一人もいなかった。
「ここはどこ?」
「映画をみるの」
「えいが?」
「楽しいものよ」
「どんなふうに楽しいの?」
「はじまればわかるよ」
「いつはじまるの」
「しっ! 静かに。他のお客さんに迷惑がかかるから、静かにしていて」
「もうすぐ?」
「うん、もうすぐだよ」
ふたりはクッションの効いたふかふかのモスグリーンの色をした座席に深く蹲るようにして腰掛けた。
そうこうしているうちブザーが鳴った。すると仄暗かった空間だったのが、さらに暗くなってしまう。光はみるみるうちに失われ、三郎の指さえも見えなくなった。
「だいじょうぶ。今からはじまるよ」
ヨーコが三郎の指に自分の指を搦めながら囁いた。急に暗くなったので、すんでのところでパニックになりかけたが、三郎はどうにか叫びださずにすんだ。
スクリーンに灯がともる。そこにフィルム上に焼き付けられたもう一つの現実が映しだされ、三郎はその光景に魂を奪われた。
映しだされているのは三郎がすんでいた平原だった。真昼の光があふれている。
骨を削ってこしらえたかのような釣り針じみた月が儚げな雲みたいになって青空にぽかり、浮かんでいるのだった。
「あれは、」
と三郎は言いかけて口を噤んだ。
ヨーコが彼の指を強く握り、喋るのをたしなめたからだ。
だけど。
――そう、あれは雌のカンガルーだった。
そして有袋類である彼女の袋のなかには、耳を動かしながらこちらを黒いつぶらな瞳で、こちらを窺っている男の子のカンガルーがいた。
三郎は帰らなくてはならない時間がきていることを悟った。
ヨーコもそのことを知っていて、もう一度、三郎の指を強く握りしめた。
彼女はもしかしたら、こう言いたかったのかもしれない。
――もう少しだけ一緒にここにいようよ。ううん、できたら永遠にこのままずっと。
でも、それは望むことすら許されない夢であり、三郎もヨーコもそのことはよく知っているのだった。
街はそろそろ夕暮れが訪れようとする倦怠した空気にくるまれていた。
映画館を出たあと、公園に噴水をみにいった。
風に水は靡き、平行に入射する光線によって燦めく黄金色のしぶきとなり、きらきら舞った。
ふたりはまばゆさに眼を細め、暫くのあいだ、すっかり黙りこくってその金の針が飛び散るさまを眺めた。