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「迷路を突破するための賢い方法って知ってる?」
ヨーコが走りながら笑顔を三郎にむけ、訊いてくる。
ふたりはすでに森と蟻塚的ビルを脱出して、いま地上のアスファルトの上を手を繋いで疾走しているのだった。
いくら走っても息が切れることはなかった。テンションは鰻登りに上昇し、もう嬉しさでいっぱい、どうにかなってしまいそうだ。
「さあ? どういうこと?」
三郎も笑いながらヨーコに顔をむけ、逆に訊き返している。
「あのね、ビルのなかは迷宮なんだよ」
「森も迷宮だった」
たしかにそうだったね、と女の子は頷いた。
森は迷路になっていた。
それもビルの屋上に庭園をこしらえ、そこを森にした老人が悪意をもって迷宮へと仕立て上げたのだ。
人を阻み、視線の行方を遮り、森の存在自体を邪な魔法でもって隠匿した。
ここに足を踏み入れたなら最後、脱出することは罷りならんとする、人に対する寂寥のおもい、それから憎しみとが綯い交ぜになった呪詛を練り上げ、森を脱出不能なラビリンスと化していたのだった。
ヨーコは思う。
亡き人の哀しみを柔らかく解きほぐさなければ、と。
森は悪しき老人の霊によって支配されていたのだから。
彼女は巻き貝にさまざまなエッセンスを封入していった。
きれいに濾過された水、草のかぐわしさ、小鳥の懐かしい囀り、朝、蜂から頂いた蜂蜜、三郎が持っていた雲に関する記憶の破片、青い海の記憶、それからヨーコ自身の息を吹き入れたものなど、森のあちこちにある祠にお供えし、贈りものとし、浄めていった。
それはひいては苦悶する老人の霊を慰める行為となり、やがて森は迷宮を解除した。ヨーコの贈った合図というか、メッセージはつぎのようなものだった。
――あたしたち、あなたがここにいること知ってるよ。
風が集い、鳥や虫がやってくる素敵な森をつくってくれてありがとう。
みんな、とっても喜んでる。あなたに感謝している。
そうしてふたりは迷宮でなくなった森を脱出してしまうと、庭師の眼をも欺き、いま、ビルの外にいるというわけなのだった。
老人は風となり、正統な死者として招かれ、召されるべき場所へと赴くことができた。かつて老人だった風はもうこの森にはいない。
彼女はといえば、ひと仕事終えた人みたいなさっぱりとした顔をしている。三郎もまた、すがすがしさでいっぱいだった。
「とっても厄介な迷宮だったけど、でも難しくはなかった。最後はとてもすてきなお爺さんになっていたし」
輝けるばかりの好々爺となり、聖母被昇天のモチーフさながらにピンク色のつやつやした微笑みをこぼしながら雲の上へと引き上げられていった老人。
くろぐろとした悪意はすっかり消滅したのをふたりは眼にしていたのだった。
「うん。お爺さんは最後は賢者になっていたね」
「なっていたね」
ヨーコも頷くと、三郎にウインクした。
ヨーコと三郎はこんもりと葉っぱを繁らせた樹の下にある停留所にいて、バスがやってくるのを待っている。
「色が動いている」
「色?」
ヨーコは三郎が指をさした方に眼をやった。そこには二車線の舗装路があるだけだった。
「ほら、色が動いているよ。白や黒、それに青だったり。たまにピンクも動いていたり」
「あ、わかった。車のことだね」
「くるま?」
「そう。車が動くのが早過ぎて三郎くんの動体視力にまだ馴染んでいないんだよ」
「鳥が飛んでいるのは、ぼく、みることができるんだけどな」
「慣れの問題かな。
車が走っているのが色彩の流体みたいにみえるんだね。
しばらくのあいだ、慣れるのを待つこと。あ、三郎くん、バスがやってきたよ」
「え、ばす?」
「あれがそう」
「乗ればどこにでもいけるの」
「うん。でも、どこにでも、ってわけじゃないけど。
この街をぐるぐる循環しているだけ。街の外には出られない。
地球規模で循環している風じゃないから」
「そっか、風じゃないから」
「風はあたしたち」
「う、うん」
ふたりの眼の前に蟻塚より遥かにおおきな車体が流れるように滑り込んできた。
薄く延ばした鉄板を溶接して長方形に加工し、エッジには丸みをつけ、車輪があり、多くのホモ・サピエンスが乗車していた。
「これに乗るんだよ」
ヨーコが三郎にむかって叫んだ。
バスは停止すると、開いた扉からおびただしい数の人の群れを吐きだした。
ヨーコは開いた扉の中に手を延ばすと手摺につかまり、ステップへと足をかける。
そして三郎に顔をむけると、いった。
「さ、早く乗って。バス、出ちゃうよ」
「え、乗るってどういう?」
三郎は緊張した。
バスになんて乗ったことがないからどうしたらよいのか皆目、見当がつかない。
風になっての移動や、お母さんの袋に入っての有袋類の子どもとしての移動ならわかるんだけどな、と思い、ひどく困惑している。
「早く!」
上から声が聴こえる。ヨーコが促してくる声だ。
焦る、とても。
三郎は眼を瞑った。
だけど。
訊くより、からだを動かしたほうが早そうだ。
ぼやぼやしているとおいていかれてしまいそうだったし。
三郎はステップを駆け上がった。
運転手がこちらを、ちらと一瞥したが、ヨーコがウインクをすると何もいわず、フロントガラス越しにみえる樹の幹や、バス停のほんの少し先にある郵便ポストに眼をやった。
ヨーコは一番まえのシートに坐り、三郎も彼女にならって前輪のうえの高いところにあるシートの肘掛けにつかまり、やっとのことで攀じ登るとお尻を落ち着かせた。
坐ったと思ったとたん、バスが動きだし、背もたれに背中を押しつけられる。
びっくりしたが、ヨーコをみると何の合図かわからなかったけど、にこにこしながら右手の親指を三郎にむかって突きだした。
エンジンが震えている。
鼓動だ。
鼓動が聴こえてくる。
車体もあたかも生きているかのように振動している。
三郎は感心する。
鉄でできているけれども、バスもまた生きている。
バスが動きだすと、三郎はお母さんの袋によく似ているな、という感想を抱く。
だって、鉄の袋に守られて移動するのだから。
もっとも平原での跳躍しながらのカンガルー的な移動ではなく、四つの車輪をもちいての水平方向の移動になるのだけど。
窓の外の光景に眼をうつす。
帽子を被った女の人がみちを歩いている。
帽子につけられた青いリボンが風にゆれている。
と、思ったら、ひらり宙に舞う。
だとしたらあれはリボンではない。
座席から身を乗りだし、風に煽られてはとぶ、ひらひらしたものの軌跡を追っている。
蝶々だ、
と三郎は思う。
青のうるわしい光沢をはなっていたから、てっきりリボンだと思い込んでしまったのだけど。
蝶々は風に乗り、ふわ、と舞い上がると、窓から車内へと入ってきた。
三郎の鼻尖きすれすれを掠めたかと思った瞬間、ふたたび窓の外へとでて行く。
咄嗟にからだを捻り、眼はその残像を追いかけたが、見失ってしまった。
しばらく三郎の視界に青の余韻が尾を曳いていたけれど、それもすぐに消えた。
プラタナスの葉叢をすかし、さらに見上げると、雨水が染み込んだ建物の黒い壁があった。
壁のうえには鉄塔の骨組みが聳え、そこはラジオ局になっていて三郎は聴こえるはずのない音楽が耳にできるような気がした。
バスは走りつづける。
窓の外の色彩も流れる。
三郎の意識も、この街の色彩と一緒になって動き、くるくる優雅なワルツを踊りながら小さな旅行をたのしむのだった。