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塔の屋上には人為的につくられた森が青々とひろがっていた。
梢がアーチをつくり、その下を十歳くらいの女の子がひとり逍遥している。
葉っぱは柔らかな黄緑色を燦然とこぼし、ほほえみをたたえながら見上げる女の子の瞳には、青空のきらきらしい断片が映っている。
風が吹き、葉っぱが鳴った。
青い空。
遠い雲の頂きから雫が落ち、見上げる樹々をほんのわずかばかりではあったけど濡らした。少女の頬っぺたにも、また。
雨、
もしかして降っている?
雲はあるけど、いまにも消えてしまいそう。
だから?
女の子は眉をひそめる。
ちがう。
ざあざあ降りの雨ふりじゃない。
だって、空はこんなにもきれいに澄みきって、鳥でさえ傷つけることのできない硬度を保っているんだもの。
雨が斜線を引っぱって青空に引っ掻き傷をつけるなんて、ちょっとむり、考えられない。
ふつうの気象現象がもたらした雫ではないのだ、これは。
――じゃあ、ここにきたのは誰かしら?
彼女は肩をすくめてみせる。
でも、ほんとうのところ、何日も前からここに訪問者がくることはわかっていた。
小径を右に折れてすぐのところにベンチがある。
そこで一休みしようと思っていた矢先のことだった。
曲がったところでベンチに先客がいるのをみつけた。
「ここに坐ってもいいのかな?」
そこにいるのが誰なのかわからなかったけれど、取り敢えず訊いてみる。
問われた方にしても、どうこたえたらいいのかわからなくて困っているようすだった。
いかにこたえを組み立てたら「ただしい」のか、その方法がわからず考えあぐねている。
「えっと、じゃ、ここ坐るね。いつもはあたしだけの場所なんだけど、今日はきみが先にきたんだね。
じつをいうとね、えへん、あたしはきみがここにくること前もって知っていたんだよ。
ともあれ、はじめまして、こんにちは」
彼女はそういうと、ベンチの右のはじっこにすとんとお尻を落とした。
左のはじっこにいる存在は、相も変わらず困り切ったようすだったけれど。
そんな相手の事情にはおかまいなく、彼女はスカートのポケットから貝を取りだす。
二枚貝ではない。
巻き貝ばかりをいくつもベンチの上に並べていったのだ。
ベンチの左のはじっこにいる誰かはずいぶん緊張をしているみたいだった。
ただ、緊張しながらも好奇心からなる視線を女の子は感じていた。
女の子はそのうちの一つを手にとると、てのひらのうえに転がし、寄り眼になるまで瞳を近づけた。
そうしてから彼女は、深い緑のむこう側が仄かにすき透った貝殻を耳にあてた。
「あのね、巻き貝のなかから波の音が聴こえてくるんだよ。
でも、それは海を懐かしがっているわけじゃないの。
ほんとうはね、その海の音の正体ってね、貝殻の構造が空気を集めて鳴らしている風の音なの。風が吹いているんだよ、貝殻の中で。いろんな種類の巻き貝があるけど、その利用目的はただ一つ。
空気を集める特性を利用し、誰かが風になり、雲となり、ここにやってくるのをスキャンするセンサーとして活用すること」
「え……え……あ……う」
相手が語りだそうとする。
が、はじめのうちは、もやもやとした音のけはいのようなものでしかなく、ふつうの人間の耳に聴こえるものではない。
「えっ、えっ、えっ、え、えええええ」
相変わらず何をいおうとしているのかわからない。それでも少女は辛抱強く耳を傾ける。
そうしてやっと傾聴の姿勢が功を奏しはじめたのか、それらの音の羅列がじょじょに意味をなす言葉としてつながりだし、みずからを開示しようとするのを敏感にとらえた。
「か、い、が、ら、な、の、に?」
「ようやく耳に馴染んできたよ。もう少し」
少女は励ます。
すると。
「えっと、」
「うん?」
「えっと、えっと、」
「いいよ、その調子で」
「えっと、えっと、えっと、もしかして」
「もしかして、何?」
「もしかして、か、か、か、貝殻、っていうのに」
「はい」
「も、もしかして貝殻だ、っていうのに風の音を聴くというの?」
「うん、そうだよ。よくいえたね。それから?」
「かつては海の生きものだったというのに……」
ベンチの左のはじっこから聴こえてくるそれは、まだ十分な音声にまで育っていなかった。
だから、もしここに彼女以外の人間がいたしても「彼」のことを耳にすることはできなかったし、その音声を発した当の本人の姿を可視化することだってかなわなかっただろう。
だが、彼女はあたかもそこにコミニュケーション可能な存在がいるものとして話をつづけた。
「うん。海にいたのに不思議だね。死んで殻の内部で風を巻くようになったんだよ。
そしてきみがここにくるのも、もうずっと前からわかっていたの。
それを死んでしまった貝が教えてくれていたんだ」
風はぐるぐる、吹きすさぶ。
砂漠からもジャングルからも、そしてシヴァ神のすむ冠雪した岩塊の頂きすらも超えて遥々やってくる。
さらには血の飛沫によって錆びついた砲弾のにおいまでふくみこんでいるから、まさしく嘘偽りのないこの惑星の風なのだった。
そうして風の訪れをしらせるのが、これら巻き貝の役割だった。
巻き貝のしらせのとおり男の子はここに降り立った。
ガラスの塔の屋上部分につくられた森に飛来したのだ。
「船に乗り換えたのは賢明だとしても、それじゃ、まだまだ何を表現しているかわからないよ」
船というのは、そのものが纏っている形のことらしい。
ありていにいえば肉体のこと。
しかし、いま彼女の眼に投じられた像はスライムのようでもあった。
像はメタモルフォーゼをくりかえしている。少しでも彼女に理解できるようなものになろうとして試行錯誤しているのだ。
「まだ、わからない?」
男の子は訊いた。
「そうね、何がなんだか」
「これでどう?」
「なにかな? 犬のようなイヌ?」
「イヌってなあに?」
「え、と、犬のことはあとでいいよ。ああ、それじゃ、何がなんだかますますわかんないよ」
「じゃ、この方向で形を変えてみるね」
「チューニングがあってきたよ」
「そう?」
「もう少し」
「こうかな」
「それじゃ、カンガルーになっちゃう」
「かんがるー?」
「あ、ごめん。カンガルーっていう概念がないんだね」
「もともとの形だったものかな?」
「うん。そういうこと。どうせだったら人間になってみたら?」
「にんげん?」
「あたしみたいな生きもののことだよ」
「ああ、それならわかる」
鳥のかたちになったり、かと思えばゼリーみたいに崩壊したりするうちに、フォルムの調律ができるようになってきたようだった。
ベンチの左のはじっこには人間の男の子がひとり、ちょこんと坐っている。
しかも、きちんとした身なりの子だった。
彼こそが風に乗り、旅をしてきたカンガルーの男の子なのだった。
「どうしてここにいるの?」
女の子が訊いてくる。
「どうして、って」
わからないのだ。そんなことを訊かれても。
「誘われたの?」
「え? 誘われた、って?」
「ここはね、音の出るところなの」
「音のでるところ?」
心に浮かぶイメージをまさぐって、なんとかこたえを探しだそうとこころみる男の子だった。
が、まだ情報が不足しているのか、感情の波はそよとも動いてはくれないし、想像はいっこうに形をなしてくれない。
「あのね、ここは特異点なの。
地球の風がありとあらゆる方向から吹いてきて、このビルの上でぶつかりあい、色んな音をだすの」
「ビルってなに?」
「建物のことだよ」
「蟻塚に似てるかな?」
女の子は男の子の連想に思わず笑った。
なるほど、蟻塚とはね。
その斬新な発想に心地よく笑いが漏れた。
「うん。似てるかもしれない。蟻じゃなくて人間がうじゃうじゃいるけど」
「ビルとは蟻じゃなくて人間がいる蟻塚のことなんだね」
「ま、そういうことにしておく。
そしてここはね、全地球の風が四方八方から集まってきて、すてきな音をだす庭なのよ」
「樹があるね」
男の子はあたりを見まわし、すぐ頭上にある梢を見上げた。
「うん。ここはビルの屋上なんだけど、樹々が鬱蒼として小鳥だってたくさんいてる。彼女たちは森で卵を孵し、雛を育てている。虫もいっぱいいるよ。
小さなせせらぎもあって冷たく澄みわたり、水底には落ち葉が堆積して雨水を濾過してくれているの。お魚だっているんだよ。
そうして、この森はね、あるお年寄りが自分の愉しみのためだけにこしらえたの。
お金持ちだったけど、孤独なお爺さんだった。それでね、なんでお爺さんが森をつくったかっていうと、ここに地球のありとあらゆる方角から風が集まって音を鳴らしていることを知っていたからよ。
その人は寿命がきて死んでしまった。
庭師の人以外は立ち入り禁止になってしまった森なんだけど、でもね、じつはさまざまな生きものたちが、きみみたいに風に乗って、ここに集まってきている。
すべて地球的な風のおかげ。とても秘密めいているくせに、その実、生きものたちでいっぱいにあふれかえり、賑やかなところなんだ」
「だから、ぼくも誘われたってことなの?」
「そうかもね。だってきみは風になり雲になり、さいごは雨になってここにやってきたんだから」
「あなたは誰なの?」
男の子からの問いかけだった。
だが、訊いてから戸惑いが生じた。
その戸惑いがどこからやってくるのか、しかし男の子にはわからなかった。
「じゃ、きみは誰なの?」
逆に訊き返してくる女の子。
「ぼく?」
そうだ。戸惑いの正体はこれだ。
彼は自問自答する。
――ぼくが誰なのか、わからないというのに。
じぶんとはだれだろう、とあらためて問いかけてみる。
自分という存在は取替えがきかない、という感じが強くある。
それはひどくたしかな手でさわれることのできる実感だったりするものだけど、そういう自分という実感が悪意でもって踏みにじられてしまうことに対する恐怖がある。
でも、そればっかりじゃなくて、風のように軽やかに吹きすぎてゆき、あとには痕跡すらも残さない短い音楽のフレーズのようなものとしても自分というものはあるような気がするのだ。
「もしかして名前で呼べるものなのだろうか? 存在は名前でもある、ってどこかで聞いたことあるよ。あなたには名前があるの?」
男の子がたずねる。
「あるわ。あたしは、ヨーコ。きみの名前は?」
ああ、そうだった。訊いてしまってから、――しまった、と男の子は臍を噛む。
みだりに自分の名前をいうもんじゃないし、人に聴いたりしてもいけないんだ、と。
男の子は後悔する。
名前というものは神聖な領域に属するということを、どこか本能的なこととして知っていたような気がする。
いまのいままで忘れてしまっていたけれど。
「だいじょうぶだよ。そんなこと、気にしなくても」
女の子は、彼の心の中身を読みでもしたみたいにつぎの言葉をいった。
「あのね、あたしの好きな音楽家にルボミール・メルニク(Lubomyr Mernyk)っていう人がいるの」
「え、音楽家?」
なんで唐突にミュージシャンの話題がでてくるんだろうか、と男の子は訝しげに首を捻るが、少女はたのしそうに微笑みをこぼしているだけだ。
「ウクライナ出身でカナダの音楽家らしいんだけど」
「うん」
気のない相槌をこぼす男の子。
でも、彼女はたのしさのテンションをまったく変えずに話をつづける。
「だから、ルボミール・メルニク」
「うん、メルニク」
「で、どんな音楽かっていうと、おんなじフレーズをずっとリフレインしつづけるミニマルミュージック的ピアノ楽曲をつくり、みすから演奏する人なのね」
ヨーコと名乗った女の子はそこでいったん言葉を区切ると、男の子の黒い瞳を覗き込んだ。
男の子の反応をたしかめているのだ。
すると、瞳の中に冷静で知的な光が静かに話のつづきを待っていることに彼女は気づいた。
ヨーコはふたたび口をひらき、言葉を奏でだす。
「えっと、風鈴がね、鳴っている、それも一つとかふたつとかじゃなくて、ここいらの樹に吊り下げてもまだまだ足らないくらいのとんでもない数の風鈴が風に吹かれていっせいに鳴っている、そんなふうに聴こえる音楽なんだよ。
きらきら、しゃりしゃりした、どっちかっていうとガラス質のきれいで涼しげな音楽なんだけど、これが一台のピアノで、しかも一人の人間の指から紡ぎだされるんだから不思議だよね。
作曲者であるメルニク本人が弾いてるんだ。超絶的な演奏テクニックの持ち主だともいわれているらしい」
「聴いてみたいな、その音楽」
男の子はいう。
ヨーコは瞼を閉じると、首をほんの少し傾げた。彼女の髪がゆれる。
ヨーコの眉間のあたりに青くて透明な翳りが生じた。
そこからメルニク自身がじかにピアノにタッチし、弾いている音がやってきた。
男の子の内なる耳に、そのおびただしい風鈴のようなピアノの音が響いた。
風はなにかと擦れたり、ぶつかりあって音をだす。風鈴も風に押されて鳴る。
メルニクの指さばきが風ならば、ピアノもまた風の琴となり、鳴りだす。
「群れをつくる生きものってさ、どうやって仲間のことを識別すると思う?」
女の子がいう。
たぶん、話題は名前のことに戻ってきたんだな、と男の子は思う。
「群れをつくる動物ってトリケラトプスもそうだし、シマウマもそうだよね」
「あとイルカも、仲間内で個体を識別しなきゃいけない」
と、女の子。
「だとすれば、どのみちやっぱり名前が必要になってくるよね」
「うん、だから風なんだ」
「どうして?」
「動物は言葉をもたないから、それぞれの個体がもっている音で判別するの」
「個体がそれぞれに持っている音で?」
「そうよ。いのちって束の間吹きすぎ、通り過ぎてゆく風なの。
風には善い風もあるし、悪意に染まった風もある。そして個体には怒りっぽい風もあれば、赤っぽい風もある。
かと思えば砂混じりの風だってあるわ。きみだって元々は風だった。それも個性ある風だったことはわかるでしょ」
そういえば、そうだった。
カンガルーの男の子は風になり、このビルへとやってきたのだ。
生きもののなかを流れる風のちがい。
ちがいがあるからこそ、それぞれを個体として識別することが可能となる。
だから、それは言葉によらない名だとさえいえる。
ただ、音だけが聴こえる。個性ある音として。
名とは、プネウマ。風にこそ命が宿る。
それ故にこそ、カンガルーの男の子もほんとうの名前はあかすことができない。
あかせば、命を他人に預けることになるからだ。
ヨーコという名前も、おそらく便宜的なもの。
だったら、ぼくは好きな名前を名乗ることにしようと、彼はふいに思いついた名前を口にした。
「ぼくの名前は三郎というよ」
女の子は表情を綻ばせる。
「ほんと? 三郎くん、じゃ、よろしく。
青い胡桃にそれから酸っぱいかりん、あとは放射能だけを吹き飛ばしてね」
三郎という名前と、胡桃を風によって吹き飛ばすことにいかなる因果関係があるのかわからなかったが、男の子は曖昧に笑った。
「じゃ、握手ね」
「あくしゅ?」
「こうするの」
いきなりだった。
ヨーコは三郎の腕をつかみ、それから左のはじっこにいる彼を自分の方へと引き寄せた。
と、にっこり笑う。
花の蜜のすがすがしくも甘やかな匂いが三郎の鼻尖きを掠め、胸がときめくのを感じ、赤らめた顔を俯けた。
「あのね」
「うん?」
「どっか行かない?」
「どっか?」
三郎はヨーコの声に顔を上げた。
ヨーコの瞳が近い。
くっついてしまいそうになるほど額を寄せてくるから三郎は困ってしまうのだ。
それにしても長いこと旅をしてきた。
風になり雲となってここにやってきたというのに、いまさらどこにゆくというのだろう。三郎は首を傾げる。
「街よ。街に行くの。
街に行けば、いままで見たこともないような愉快なもの、憧れにハートが痛くなっちゃうほどどきどきするものや、美しさにうっとりしちゃうものなんかが、これでもかっていうくらいいっぱいあるんだから」
「あ、あの、ぼくたちふたりでいくの?」
ヨーコはベンチから立ち上がると腰に左手をあてがい、上から三郎を睨みつけた。
それから右のひとさし指をピン、と立てると、左右に振ってみせる。
「まさか?
一人で街を味わいたいっていうんじゃないでしょうね。ふたりだから意味があるのよ」
そして一転、優しげに微笑むと、もう一度、三郎の手をとっていった。
「ね、行こう。愉しいよ」
三郎も眼を輝かせ立ち上がった。
ふたりは手に手をとって駆け出していた。