8 空手少女のキックはボールを蹴ることが出来るか?
後半開始の笛が鳴る。
今度は荻野チームがキックオフだ。
名も知らぬ女子サッカー部員がドリブルを開始する。攻め込まれまいと彼方も後ろへ下がった。
「織原! お前はいいから前線へ行ってろ!」
双海が叫ぶ。
「でも……!」
「お前はディフェンス出来ないだろ。だったらカウンターに備えておけ」
「お、おう!」
確かに双海の言うとおりだったから、彼方は攻め入る敵二人を無視して前へと走る。するとその彼方の動きのつられたのか、荻野が攻めから転じて下がってきた。いくら初心者が相手といえども、やはりカウンターは怖いらしい。
名も知らぬ女子サッカー部員と双海が一対一になる。そして前半から双海は一対一で決して負けることはなかった。今回も然り、である。
奪ったボールを双海がまた彼方へ大きく送ってよこす。彼方チームはずっと、攻撃といえばこのカウンターばかり。けれど彼方は初心者なのだ。多彩な攻撃を期待する方が間違っているというものだろう。
彼方はまたもやモタモタしたドリブルを繰り広げた。やはりドリブルが上手くいかない。ちんたらちんたらやっている間に、荻野はもちろんのこと、彼方チームの陣地に攻め込んでいたはずの名も知らぬ女子サッカー部員までもが戻ってきて彼方の進路をふさいだ。
前半からこれの繰り返しだ。彼方がボールを奪われ、それを双海が取り返し、また彼方が奪われる……。何の進歩もない。彼方がこの二人をどうにか突破しない限り、負けはしないが勝てもしない。
どうすれば勝てる?
ここに来て、彼方はようやくそれを考え始めた。
前をふさぐ二人の間にボールを通そうとしても駄目。いったん双海にボールをあずけて……と思っても、双海は攻撃に関しては手を出すつもりがないようであるからこれも駄目。
あと何が出来る? 勝つために何が……。
(二人の間に出しても駄目なら、脇だ!)
そう思い、荻野の脇へとボールを蹴る。しかしこれもあっさりと荻野にインターセプトされてしまう。
敵二人はまた攻撃に転じたが、それはまた双海にボールを奪い返され、失敗に終わる。
もう何度目になるだろうか。彼方はまた双海からのロングボールを受け、ドリブルをし、二人に囲まれる。
真ん中もパスも脇も駄目。あとは……。
(あとはもう上しか残ってないじゃん!)
半ばヤケクソであった。
彼方はボールを蹴り上げる。昨夜、双海から教わった蹴り方で。ぽーん、と弧を描くように。
それはほとんど偶然といえた。たまたま彼方はボールの中心より下を蹴っていた。そして慣れない蹴り方で蹴ったせいで、ボールに余分な力が加わらなかった。
ボールは、前をふさいでいた敵二人の頭上を越えて、向こう側へと飛んでいく。
「……ループボール!?」
この場にいた彼方以外の人物すべてが虚をつかれた。まさか初心者の彼方がループボールを蹴ってくるとは思わなかったのだ。
そしてその一瞬の隙を、彼方は見逃さなかった。彼方は驚く敵二人の間をすり抜けるように突破する。敵二人を抜き去りさえすれば、もうそこは敵陣ゴール前。もう彼方のキックを邪魔する者はいなかった。
「ふはははは! 見たかあたしの実力!」
彼方は持ち前のキック力で、思い切りボールを蹴った。そのボールは(珍しく)真っ直ぐにゴールの枠内へと飛んでいく。
しかし、ゴールネットが揺れることはなかった。
確かに彼方のキックを邪魔する者はいなかった。けれど、彼方のシュートを防ぐ者はまだいたのだ。
そう、キーパーである。彼方、渾身のシュートは、相手キーパーの真正面に飛び、キーパーがそんな取りやすいボールを取り損ねることはなかったのだ。
「あーっ! もう何で取っちゃうのよ! せっかくいいカンジのシュートだったのに!」
「馬鹿かお前は! キーパーがシュートを止めるのは当たり前だろうが!」
ムチャクチャな叫びをあげる彼方の後頭部に、荻野がチョップをお見舞いした。
「惜しかった……ですね」
はるか後方、彼方チームのゴール前でりな子が双海にそう言った。
あのループボールにはりな子も驚いた。いったいいつの間にループボールなんぞを蹴ることが出来るようになったのだろうか。……まあ、偶然だろうが。
だがこれでますます彼方が点を取ることが難しくなった。
あのループボールが偶然であろうとなかろうと、もう荻野チームはそれを警戒してくるであろうから、もうあの手段は上手く行かないであろう。初心者の彼方に、あの二人を突破するための手立てが他にあるとは思えない。
そう考えれば考えるほどに、あのシュートが決まらなかったことが悔やまれる。相手チームのキーパーは、女子サッカー部の正ゴールキーパーで副キャプテンの大道寺エリカであった。まあ、正ゴールキーパーとは言っても、女子サッカー部にキーパーは一人しかいないのだが。
それでもエリカの大きな体は、ミニゲーム用の小さなゴールをふさぐのには充分だ。もしまた偶然に偶然が重なり、彼方がフリーでシュートを打つことが出来たとしても、このエリカの向こうにボールを持っていくことが出来るのか。りな子には不安であった。
「ふーん、なるほどね……」
腕を組んだ双海が、ピッチの向こう側で荻野となにやら言い合いをしている彼方を見やりながら呟く。
「キャプテンがアイツを欲しがる理由が少し分かったかな」
「え……?」
「ゆうべ、初めて会ったときにも思ったんだけど、アイツ、下手だけどセンスは悪くないんだよな」
珍しい。双海がこういうふうに他人を誉めるのは。少なくともりな子はこんな双海を初めて見る。
「運動神経は良いみたいだし、丸っきりの初心者だから、変なクセもない。これは一から叩き込めば化けるかもしれないぜ」
双海もまた、彼方に目をつけたのだろうか。サッカー部のメンバーが足りずに困っているのは城野キャプテンだけではない。女子サッカー部の者ならみんな困っている。双海だってそうだ。
そして双海がもし城野キャプテンと同じように彼方をサッカー部に入れたいと思ったなら、ますます双海は彼方に協力してくれなくなるのではないか。
だって、彼方が女子サッカー部に入るための条件は、この勝負に彼方が負けること。
このまま彼方が点を取れずにいて、双海がディフェンスすらしなくなってしまったら、彼方チームに勝利はない。
りな子だって女子サッカー部員として、足りないメンバーをどうにかして補いたいとは思っているし、その補充メンバーとして彼方は最適だと思う。でもりな子は彼方に無理矢理サッカーを強いることはしたくなかった。
りな子はサッカーが好きだし、サッカー部に入るなら彼方にもサッカーを好きになってもらいたいと、そう思うのだ。
試合が再開する。
キーパーのエリカが高く放ったボールを、荻野と双海がヘディングで競り合う。女子にしては背が高い双海は、やはり競り負けることはなかった。
そして自分で落としたボールを素早く取りに行く。それからお約束のように前線で待っている彼方へとロングボール。
彼方のすぐそばには、もうすでに名も知らぬ女子サッカー部員が詰めている。
さて、今度はどうやって抜こうか。
そんなことを考えてみるが、彼方には考えるほどに手数が揃っていない。さっきだって、前も横も後ろも駄目だから上を選んだだけのこと。つまりさっきのループボールが最後の手だったわけだ。それすら使ってしまった後、彼方に残された手段はない。
それならば、さっきと同じようにすればいい。
単純な彼方はそう考えた。考えたが、そこで思考はストップしてしまう。
(あれ? さっきの……、どうやって蹴ったっけ?)
もう一度あのループボールを蹴ろうとしたのだが、ついさっきのことだというのに、もうその蹴り方を忘れてしまっていた。それもそうだ。もともとあのループはたまたま出来てしまっただけのもの。狙ってもう一度やろうとしたって出来るわけがない。
(どどどど、どうしよう……)
もうあまり時間はない。十分ハーフなんてすぐに過ぎ去ってしまう。
「えーと、えーと……」
必死にループの蹴り方を思い出す。
確か、昨日双海に教わったのと同じように蹴ったはず。
軸足はボールの真横にかかとから、つま先を蹴る方向に向けて。蹴る方の足の内側を体の前に出して、くるぶしのちょっとしたあたりで蹴る。
(でもさっきはちょっと、当たりそこなったっていうか、上手い具合に蹴れなかったんだよな……)
でもそれが結果的にあのループを生んだ。
(上手く蹴るのも難しいけど、わざと下手に蹴るってのも難しいかも……)
不用意に蹴ってしまえば、すぐに敵にボールを奪われてしまう。今だって荻野や名も知らぬ女子サッカー部員が、ちょこちょこと足を出してきて、冷静に考えをまとめることが出来ない。
彼方のあまり強くない忍耐力が、またもや悲鳴を上げていた。
「織原! こっちだ!」
ふいに声がする。
「へっ?」
それは彼方の右斜め後ろあたりから聞こえた。彼方はつい反射的に、そちらへボールを蹴ってしまう。それは声がした右斜め後ろには飛ばず、彼方の右脇へ真っ直ぐ転がっていったが、声の持ち主は素早くその蹴りそこないに追いついた。
「双海!?」
そう、もちろんその声の持ち主は双海だ。今まで一度も攻撃に参加していなかった双海が、初めて前線へと上がっている。
これには敵の荻野たちも驚いたようだ。向こうも双海は上がってこないものと考えていたのだろう。
「なっ……、どうして!」
双海はそのまま右サイドを駆け上がっていく。彼方たちを追い越していくと、内側に切れ込んできた。
キーパーエリカが前に出る。双海と一対一だ。それでも双海は立ち止まらない。エリカの大きな体で双海のシュートコースは消されているにも関わらず、双海はエリカに向かって直進していく。
ふっ、と双海の走るスピードが緩んだ。かと思うと、双海はポンと軽くボールを蹴り上げる。
それはさっき彼方が見せたようなループ。エリカの頭上を越え飛んでいくそれは、弾みながらゴールの中へと吸い込まれてく。
彼方のまぐれループとは違う、正真正銘狙ったループシュートであった。
「入った……」
荻野が呆然と呟く。
「ぃやったぁー!」
彼方は拳を握り、ガッツポーズを作った。自分で点を決めることは出来なかったが、自分のチームに一点が入ったことには間違いない。残り時間もあとわずか。これで彼方は勝ちに大きく近づいたのだ。
一方の荻野チームには焦りが見えた。
試合はすぐに再開されたものの、荻野たちの攻撃は相変わらず双海に潰され、守備は今まで彼方一人だけを注意していれば良かったのが、今度はそれに加えて双海までもを警戒しなくてはならなくなった。初心者の彼方はともかく、双海は荻野たちにとって、充分すぎるほどに脅威であった。
そして時は過ぎ、試合終了のホイッスルが鳴り響く。
「勝ったー!」
彼方チームは、双海があげた一点を守りきり、勝利を収めた。
「ああ……、そんなバカな……」
直接、勝負に負けた荻野チームの三人よりも、落ち込みが激しい人物がいた。城野キャプテンである。これで獲得を熱望していた彼方の入部がなくなってしまったのだ。落ち込むのも当たり前であろう。
「で、でも織原さん、サッカーは面白いでしょう? 後半は惜しいシュートもあったじゃない。あれが決まると爽快よ~。ねっ、やってみたくなったでしょう? そうでしょう?」
キャプテンは必死だ。
「いや別にー」
しかしキャプテンの必死の言葉も彼方には届かない。ハーフタイムの時と同じように、すげなく断った。しかも勝って気分がいいものだから、その言葉はやけに爽やかだ。そしてキャプテン城野はますます落ち込んだ。
状況を変えたのは、双海の一言だった。
「別にいいじゃねぇか。こんなヤツいなくたって」
キャプテンに向かって放たれた言葉である。
「え?」
城野は涙目で双海を見上げた。
「こんな初心者、いたところで足手まといだ。だったらメンバーが足りなくても十人で戦ったほうがまだマシだろ?」
「双海先輩?」
りな子は眉をひそめる。
おかしい。双海はついさっきまで彼方の潜在能力を認めるような発言をしていたというのに、いったいどうしたというのだろうか。
「キャプテンだって見たろ。まともにドリブルも出来ない。守備も出来ない。ボールを蹴るのも一苦労。こんなのが入部したところで、お荷物が増えるだけだ」
「なっ、なにおう!」
彼方も黙って言われているだけではない。双海に詰め寄り、その目を睨み上げた。
「事実だろ? 実際、今のゲームでだって点を取ったのはあたしだ。守備をして相手チームに点を取らせなかったのもあたしだ。お前はなんの役にも立ってなかった」
「ぐっ……」
これにはさすがに彼方も言い返すことが出来ないようだった。それはまったく双海の言うとおりだったからだ。
「でっ、でもっ! あたしは昨日サッカー始めたばかりだもん、しょうがないじゃない。もうちょっとやれば、すぐに上手くなるに決まってるんだから!」
「無理だね」
双海は鼻で笑ってみせる。馬鹿にしたような顔で、彼方を見おろした。
「くぬー! 言ったな? 言っちゃったな? よーし、見てろよ、絶対にあたしはアンタを超える! 今、決めた!」
人差し指を双海の鼻先につきつけて、宣言した。またもや彼方お得意の後先考えない発言だった。しかしこの発言に城野キャプテンは喜色満面で飛びつく。
「織原さん! それは……、それは……、サッカー部に入ってくれるってコトなの!?」
「望むところよ!」
あーあ、言っちゃった。
りな子にはもう、双海の思惑が理解出来ていた。
双海は昨日彼方と出会ったばかりだというのに、もうその性格をつかんだのだろう。ああ言えば、必ず彼方は突っかかってくる。その後は、売り言葉に買い言葉でサッカー部入部まで導く。上手い手だ。
考えてみれば、試合に負けてサッカー部へ入らせるより、この方が良いように思える。彼方に自発的にサッカーをやらせることが出来るという点で。
彼方はその性格からして、勝負に負けてサッカー部へ入部しても、決してやる気にはならなかっただろう。そうなれば、双海が言ったとおりに足手まといになることは必至だ。
だが、彼方が自ら進んで入部したならばどうか。もともと潜在能力は高い彼方のこと、すぐに上達するに違いない。
すぐそばでは城野キャプテンが彼方に抱きつき涙を流して大喜びしている。他のメンバーは異様なまでに喜んでいるキャプテンをなだめることに忙しい。
りな子は双海の横へそっと寄って、聞いてみた。
「双海先輩、今の、ワザとでしょう?」
双海はチラリとりな子を見ると、淡く笑んで、
「さあな」
と言った。
さて、この彼方入部劇で一番得をした者がいた。それは一年E組女子サッカー部、荻野由佳、その人である。
彼方は入部する、しない、を言い合う中で、すっかり忘れていたのだ。
荻野が負けたら三回まわってワンと言う、ということを。
もう一生忘れていてくれ。
荻野は密かにそう祈っていた。