15 忘れ去られた男
「ああもう、双海のヤツ! 何もあんなに怒ることないじゃない! そう思うよね、りな子も!」
「……いや、あれは誰でも怒ると思うよ……」
双海が怒ったというのは、もちろん彼方の味方のボールを奪うという、普通ならば思いもよらないであろう行為に対してである。試合後、彼方はぐるりと円を描くように集まったチームメイトたちの中心に正座をさせられ、双海の説教をくらったのだ。
「ちょっとは考えて行動しろ!」
「いくら初心者でも、お前のアレを見逃せるほど、あたしは優しかないよ!」
「小学生の体育のサッカーじゃねぇんだ!」
さんざん怒鳴られた。
その結果、りな子はこうして彼方のヤケ食いに付き合う破目になったのだ。
帰り道、ファミレスに寄った彼方とりな子は、おやつにしては明らかに多すぎる量の食事をとっていた。いや、多すぎる食事をとっていたのは彼方だけで、りな子はチーズケーキをひとつ食べただけだった。彼方は、ひょっとしたら全メニュー制覇を目論んでいるのでは? と思える具合に次から次へと食べつくしている。まあ激しい運動の後だから、お腹がすくのは理解できるが、それにしても多すぎやしないか。
またもや彼方はウェイトレスを呼び止めて、茄子とベーコンのトマトパスタを追加注文していた。ちなみにこれまでに彼方は、和風ハンバーグ、鳥の唐揚げみぞれ風、ラザニア、チキンドリア、きのこ雑炊、フライドポテトを平らげている。いったいそれだけの食糧が、体のどこに入っているのか。彼方が大食漢であることはずっと前から知っていたことだけれども、りな子は改めて驚かずにはいられなかった。それでいて、彼方はちっとも太ることがないから、うらやましいと言えば、うらやましい。
「だいたいさ、あたしはまだルールだって完全に理解してないんだからさ、ちょっとは大目に見てくれてもいいのに」
ぐーっとお冷を一気飲みし、「おねーさん、水!」とコップを掲げてまたウェイトレスを呼ぶ。
「そう、かもね……」
確かに彼方はまだサッカーを始めて間もない。オフサイドについても、なんとなく分かったような気がする、程度である。そんな彼方に戦略的に動けというほうが無理なのかもしれない。まあそのことを差し引いたとしても、味方のボールを奪うのはやりすぎだとは思うが。
「ごめんね。彼方ちゃん、本当は今日映画見に行きたかったんだもんね……」
それでも危機に瀕していた女子サッカー部のために、自らの予定を裂いてまでサッカーに打ち込んでくれたことには感謝せずにはいられない。……双海に乗せられただけ、という気もしないではないが。
「映画?」
彼方はキョトンとした顔で、りな子を見返している。りな子が何を言っているのか分からない、といった顔だ。
「彼方ちゃん、今日、映画行きたかったんでしょ? ほら、『天井のピアニスト』」
先週の体育の授業中に、行こうとしつこいぐらいに誘ってきていたはずだ。
彼方は首をひねる。腕を組んで、中空を睨みつけるようにして考え込む。
「あ!」
思い出したようだ。あんなに行きたがっていたのに、ここまで忘れてしまうぐらいに、サッカーのことを考えてくれていたのだ、とりな子はちょっとだけ感動する気持ちすら生まれた。
「しまったぁ! 忘れてた! マズイっ!」
彼方は立ち上がりつつ叫んだ。ここがファミレスであることなど頭から吹っ飛んでしまっているに違いない。周囲のお客もウェイトレスもウェイターも、みんな突然叫びだした彼方に注目している。
「い、今何時?」
「……えっと、もう四時半まわってるけど?」
「あああああ……。時間過ぎちゃってるよ……、五時間以上も……」
椅子に腰を落として、彼方は頭を抱える。そうやって唸ること数秒、彼方はまたもや周囲の目を集めて立ち上がり叫ぶ。
「りな子! とにかく行こう!」
「え? 行くってどこに……?」
「いいから! おねーさん、さっきの注文取消し! 伝票ちょうだい!」
彼方はりな子の腕をつかんで引っ張り上げると、レジへと向かった。りな子は訳も分からぬまま、彼方に引っ張られていくだけだった。
しまった。あまりにも豪快に忘れすぎていた。
「俺、小泉さんを映画に誘いたいんだ。だからコレ、小泉さんに渡してもらえるとありがたいんだけど……」
そう言った少年のことを。
「まーかせなさーい! 今度の日曜には、引っ張ってでもりな子を連れてってやるからさ! はっはっはー!」
そう答えた自分のことを。
そのとき受け取った映画のチケットは『天井のピアニスト』。上映時間は午前十一時から。
現在時刻、午後四時四十四分。
遅れること六時間弱。
りな子の腕を引き、全力疾走で映画館まで突進した彼方であったが、やはりそこには小山の姿はなかった。
「お、遅かったか……」
当たり前である。
「……か、彼方ちゃん……。いったい、どうしたの……?」
足の速い彼方に付き合って走らされたりな子は堪ったものではなかったことだろう。しかし今の彼方にはそんなところまで考えが至っていなかった。
「そんなに……、この映画見たかったの……? だったら、今から見ようか? 帰るのは遅くなっちゃうけど……」
別に彼方自身はこの映画を見たいとは大して思っていなかった。それは小山だってそうだろう。小山にとって大事なのは、映画をりな子と一緒に見るということなのだから。
あれだけ大口叩いて引き受けたというのに、このザマだ。先週はサッカーのことだけで一杯一杯だったから、小山のことなど、頭からスッポリと抜け落ちてしまっていたのだ。
小山も小山だ。昨日あたりに、確認の電話でもしてくれれば、彼方だってここまで忘れることはなかったのに。
まあ、思い出していたとしても、試合があったわけだから、どっちみち小山の望みは叶わなかったわけだが。
彼方はがっくりと肩を落とす。明日、小山に会ったら何と言おう。それを考えると、今から憂鬱である。
「ちょっとー! いいじゃないのよ! コレ、間違いなく『天井のピアニスト』のチケットよ! ニセモノじゃないんだから!」
その時だった。そういった甲高い声が彼方の耳に入ったのは。
何気なく視線を向けてみると、白と黒のジャージを身につけ、肩から大きなスポーツバッグをさげた少女が、映画館窓口のお姉さんになにやら食ってかかっている。
「いえ……、それは充分に存じておりますが……、その……」
「何よ!」
「ですから……、こちらのチケットはもう上映時間が過ぎておりまして……」
「だーかーら! 別にいいでしょ、時間が違うくらい。『天井のピアニスト』のチケットであることは間違いないんだから」
「こちらの映画は全席指定席になってますので、そういう訳にも……」
どうやら、あのジャージの少女も彼方たちと同じく上映時間に間に合わなかったようだ。それでも金を払って手に入れたのであろうチケットを無駄にせぬために、ああして窓口のお姉さんに掛け合っているのだろう。まあ、無駄であろうが。
「あーもう! じれったいなあ! もっと偉い人呼んでよ、アンタじゃ話になんない!」
少女がそう叫んで、カウンターをドンと叩く。窓口のお姉さんは、「ひっ」とわずかに声をあげ、身を後ろに仰け反らせた。どう見てもジャージの少女の方が、窓口のお姉さんよりも年下であったが、お姉さんはかわいそうなことに完全に少女のペースに呑まれていた。
「ねえ彼方ちゃん、どうするの? 映画見るの?」
りな子が窓口から目を離さない彼方を心配したのだろうか、そう声をかけてきた。
「ちょっと待って……」
それでも彼方は窓口方面から視線を外さなかった。
何も、あのジャージの少女がそこまで珍しかった訳ではない。彼方の視線をとどめたのは、ジャージの少女でも窓口のお姉さんでもなく、ジャージの少女の背後に並んでチケットを買う順番待ちをしていた少年たちであった。
学生の証明である学ランを、原型を残さぬほどに着崩している数人の少年。好意的に見ても、品行方正であるようには見えない。
彼方はその少年たちに見覚えがあった。
少年たちの先頭に立ち、ジャージの少女のすぐ後ろにいる少年は、前髪に金のメッシュを入れている。その特徴のある髪型の少年をはじめとする面々は、間違いなく先週、彼方が双海と共に叩きのめした不良たちであった。
「おいテメェ! いいかげんにしろよ。いつまで後ろ待たせりゃ気が済むんだ。あァ?」
前髪メッシュは、窓口から動こうとしないジャージの少女の肩をつかんで、むりやり振り向かせる。少女はいきなり肩をつかまれたことに驚いていたようだったが、すぐに前髪メッシュをにらみ上げ、あの甲高い声でまくしたてた。
「うっさいわね! こっちだって、安くない金がかかってるんですからね! 隣の窓口行きなさいよ!」
普通の学生ならば、避けて通るであろう前髪メッシュに対しても、まったく物怖じすることがない。
「んだと、コラ!」
前髪メッシュがジャージの少女を突き飛ばした。少女はカウンターに背中を打ちつけて呻く。
「あ!」
彼方は思わず小さくない声を漏らした。これまたジャージの少女が気になったわけでも、前髪メッシュの乱暴さを見咎めたわけでもない。
彼方が注目していたのは、前髪メッシュが持っていた財布だ。
どこにでもあるような茶色い革の財布。二つ折りのタイプで、前髪メッシュはそれを少女を突き飛ばした方とは逆の手に持っていた。財布の端の方をつまむようにして持ち、それをプラプラと振っていたのだ。前髪メッシュがつまんでいたのは小銭入れがついているほうで、前髪メッシュの手の動きに合わせてプラプラ上下に漂っていたほうには、定期入れがついている。しかし、そこには定期が入っておらず、代わりに一枚の写真が入っていた。
彼方と前髪メッシュとの距離、数メートル。だが、両目とも二.〇を超える視力の持ち主であった彼方は見逃さなかった。
その写真は、りな子の写真であったのだ。
考える前に、体か動いていた。彼方はつかつかと前髪メッシュへと歩み寄ると、その財布をつまんでいる手をガシリとつかむ。
やはりそうだ。間違いない。間近で見ても、それはやっぱりりな子の写真であった。
通学途中であるのか、制服姿で歩くりな子。その隣には彼方の姿もある。ただ、彼方は写真の隅に追いやられ、顔の半分も映っていない。りな子がまったくカメラに目線どころか意識も向けていないところを見ると、きっとこの写真は隠し撮りだ。
「何だ、テメェ……って、ああ!」
前髪メッシュは、そこでようやく彼方に気付いたようだった。
「てててて、テメェは……!」
少年たちは、そろって三歩ほどあとずさる。前髪メッシュだけは、彼方に手をつかまれていたので、それが出来なかったが。
「何で?」
「あ?」
「どうしてアンタが、りな子の写真を持ってるワケ?」
それが分からない。この他校の不良少年と、真面目でおとなしいりな子との接点などまるでないはずだ。少なくともりな子の親友である彼方は知らない。
「りなこ?」
前髪メッシュは彼方の言っている意味が分からないようだ。どうしてだ。これはコイツの財布ではないのか。
「ちょっと貸しなさい!」
財布を奪い取る。前髪メッシュは財布の端をつまんでいただけであったから、それは容易に出来た。
遠慮なく財布を除く。りな子の写真に小銭少々。お札入れには一万円と少し、それからコンビニと書店のレシートが数枚。そのお札やレシートと一緒に、レンタルビデオの会員証がつっこんであった。彼方は会員証を取り出して見る。そこにはその会員証の持ち主であると思われる名前がカタカナで記されてあった。
コヤマ タクジ。
「小山……!」
この財布にこの会員証が収まっていたということは、この財布は「コヤマ タクジ」のものであるということだ。そして彼方の知る限り、「コヤマ タクジ」という人物は一人しかいない。もしかしたら、この前髪メッシュの名前も「コヤマ タクジ」というのかもしれないが、財布にしまわれてあるりな子の写真を合わせて考えると、この財布は彼方のクラスメイトである、あの小山拓司のものであると考えたほうが自然であるように思える。
「アンタ……、この財布、どうしたのよ」
「あァ? 別に関係ねぇだろ、テメェにはよ」
「関係あるかもしれないから聞いてるのよ!」
唾を飛ばしながら怒鳴りつけてやる。前髪メッシュは「うわっ、キタネエ!」と両手で顔をガードしたが、どうやら遅かったようだ。
「さっきカツアゲしたんだよ! 文句あるか!」
あるに決まっている。つまりこの前髪メッシュたちは、ここで待ちぼうけを食っていた小山からカツアゲをして財布ごと巻上げたのだろう。
小山はりな子と一緒に映画を見ることが叶わなかっただけでなく、前髪メッシュたちに絡まれてしまったわけだ。不幸の見本みたいな男である。しかし、その責任の一端は彼方にもあるのだ。ここはこの財布を取り返してやるべきだろう。
「とにかくこの財布、あたしの知り合いのものだから、返してもらうわよ」
「んだと、そりゃあ俺のもんだ。俺がカツアゲしたんだからよ。返せ!」
「そんなむちゃくちゃな話があるか! とにかくこれは渡さない」
「テメェ……」
三歩ほど下がって事の成り行きを見ていた前髪メッシュの仲間たちが、彼方をぐるりと囲む。周りの人々は、何事かと足を止めるが、誰も止めに入ろうという者はいないようだ。
「ちょうどテメェには借りを返したいと思っていたところなんだよ」
「フン、何よ。またあたしにギッタギタにやられちゃいたいワケ?」
「勝手に吠えてろ。今日は双海がいねぇってことを忘れんな」
「双海がいなくたって、アンタらなんか敵じゃないっての」
彼方と前髪メッシュのメンチの切りあい。彼方も立派にチンピラである。
「かっ、彼方ちゃん! やめなよ……!」
不良たちの輪の外から、りな子がそう言った。
「りな子は危ないから下がってて」
ここで引くわけにはいかなかった。相手は前髪メッシュを含めて五人。対するこちらはたった一人だ。さすがの彼方も分が悪い。しかしここで頭を下げるような真似など、彼方には出来ない。こんなクズみたいな連中に負けることなど、彼方のプライドが許さないからだ。それに、りな子の写真がこいつらの手元にあるという事実も何となく嫌だった。
「またボコボコにしてやろうか? そうすればその見苦しい顔もちょっとはマシになるかもよ」
「テメェ一人で出来ると思ってんのか」
「一人じゃないわよ!」
そこで少年たちの輪に割って入った者がいる。あのジャージの少女だ。
少女は人差し指を前髪メッシュに突きつけて言う。
「アンタ! さっきはよくも突き飛ばしてくれちゃったわね!」
「何だと? テメェは関係ねぇだろ。すっこんでろ!」
「冗談! あたしはね、突き飛ばされて黙って引き下がれるほど甘くはないわよ!」
その啖呵の切り方を見ると、彼方は何故か既視感を覚える。それが自分自身に似ているということに、彼方は気付いていない。
「いいから、まとめてやっちまえ! 手加減なんかする必要はねぇぞ!」
「また泣かしてやるう!」
前髪メッシュたちと、彼方アンドジャージの少女は、一斉に飛び掛った。