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ふわふわ  作者: ゆーう
4/5

その4

 あれから人間の世界ではどのぐらいの時間が経ったのだろうか。

 猪突猛進の如く考えなしで地上に降りてきてしまったけれど、今日は何曜日で、今が何時で、目的の小野がどこにいるのかもわからない。

 小野の出没ポイントは大学をメインに休みの日はファミレスとガソリンスタンドのアルバイト。夏休みや冬休みの長期休暇の時は中学生の頃から朝と夕方新聞配達をしている。

 親をどういう経緯で失ったのか、人間で言えば今の私と同じぐらい十歳ぐらいの頃からしか小野を見ていないために、それ以前の過去は知らない。

 しかし小野は安藤がいたせいか、血が繋がっていなくても本当の姉のように、時には本当の母のように接していたし、小野が大人になってからの二人の関係は決定的ななにかがあったわけではないが、接し方が長年連れ添った夫婦のようですらあったし、時には恋人のようですらあった。

「とにかく探そう」

 小野の出没ポイントは限られているのだから、全部を回ればどこかにいる。日本の大学生は入学するまでは大変だけれど、入学さえしてしまえば後は遊んでいられるといったような風習のようなものがあるが、小野はそういった遊び歩くタイプの人間ではない。

 毎日なにかを勉強し、アルバイトの休み時間も勉強に関係のある本を読んでいる。

 お金を貯めて……お金を貯めてなにをしようとしていたのだろうか。

 私は小野の行動範囲を順番に全部巡り、そのどこでも見つけられず最後にやってきたのは地上に降りてからは初めて訪れた、小野が一人で暮らすオンボロのアパート。

 布団一枚しか干せないベランダ側から室内を覗けば、そこには人影が見えたが、それが小野のものではないことはすぐにわかった。

「安藤」

『あすなろ園』の敷地からはゴミ捨てと買い物ぐらいしか外に出ているのを見たことがない安藤の姿を、『あすなろ園』から徒歩で十五分ほど離れた場所にある小野のアパートの中で見つけた。

 私も玄関側に回って小野家のチャイムを鳴らしてみた。

「はい」

 青い顔をした安藤が内側から応じた。

「あら、あなた……どうしたの? もしかして、小野くんに用?」

「どこに行ったんですか?」

 安藤は首を横に振った。

「入って」

 小野の部屋は飾り気どころか物らしい物が必要最低限にしかなく、台所は安藤が片付けたのだろうか。綺麗に片付き、床に大きなポリ袋が置かれ、透けて見える中にはカップ麺の容器がいくつも見える。

「お菓子あるけど、食べる?」

「いえ、いりません。それより、小野さんはどこに?」

「……昨日かな。小野くんに、私告白されたの。別にあなたのことを恋のライバルだなんて思ってはないわよ? でも、あなたも彼を心配してくれている。違う?」

 私はどう応えればいいのかわからず、身動ぎ一つしなかった。

「あなたよね。私と小野くんの間を嗅ぎ回って、小野くんに告白させようとしたのも、私の心をその気にさせたのも。だって今まで一度だって彼のことを特別に好きだって気づいた人、他にはいなかったもの」

 私は空人なんだってことは言えないし、わかってもらえるとは思えない。

 でも、二人は一緒になれて幸せなはず。

「小野さんのこと、好きなんじゃないんですか?」

「好きよ。大好きだった。私が言ったこと、覚えてる?」

「好きな人には幸せになってほしい、ですか?」

「そう。でも、私と一緒になったら幸せにはなれないのよ。わかっていたことなのよ」

「なぜですか?」

 私の問いに答える代わりに部屋の隅に乱雑に積まれた本の中からボロボロになった一冊を差し出してきた。

「これは公務員になろうとした小野くんが毎日勉強に使っていた参考書。でも、今日、彼は大学をサボった。この意味がわかる?」

「わかりません……」

 私は小野のしようとしていたことまでは知らなかった。私が観察していたのは日々の動向を探るだけ。

「教えてあげる。公務員はお給料やボーナスがいいし、なにより安定している。私は大学には行ってないから詳しいことはわからないけれど、公務員になるのにはすごく大変なの。それこそ遊んでいる暇がないぐらいにね」

 それなのに小野は毎日アルバイトをし、時間を見つけては勉強していた。

「なぜ公務員になろうとしたか――それは私と結婚をするため」

「結婚ですか」

 私は安藤の言葉を復唱することしかできない。安藤がなにを言いたいのかわからない。だって結婚するのなら、今付き合っていてもいいじゃない。

「彼にとってはそこがゴールだった。なのに私と今、こうして恋人になってしまった小野くんは、もう……私を振り向かせる必要がなくなってしまった。いいえ、約束をしていたわけではないのだけれど、小野くんは園長さんに、一人前の大人になったら私のことをもらいたいって言ってたのよ。だから、私は彼の夢を邪魔しないために告白はしないって決めていたし、小野くんもそれだけの覚悟を持っていた。二人とも好きだったのに!」

 語彙の強まる安藤の声を震えながら、黙って聞いて、その言葉と思いの重さを苦しいほどに感じた。

 そっか、ずっと感じていたこの二人の関係はこれだったんだ。

 好きなのに、好きになってはいけない。

 夢を叶えるまでは――。

「小野くんは私と一緒になれたことで、公務員という目標を失ってしまったのよ」

 安藤の鋭い視線と目を合わせられない。

「今までの反動か、彼は遊びに行ってしまったわ。もう……無理ね。別れようかしら」

 ぞくっ、と寒気のような底知れぬ悪寒を感じた。これは他の人が言っていた最悪のパターンだ。

 私たちのハートの矢は両思いの男女にしか刺さらない。しかし一日どころか半日で別れたとしても、それは正式な両思いとなる。

 なぜなら人間たちは「付き合ってみないとわからない」や「付き合ってみたら違った」というような風習が当たり前のようにある。

 そしてハートの矢のリスクを人間が知っていたら、たぶん誰もそれを望まないが、人はそれを運命と呼んで片付けるのかもしれない。

「そんなこと……しちゃいけません」

「あなたがたきつけなければ――いいえ、子供に言ったところで、子供のせいになんて出来ないわね」

 違う。いっそ、私のせいにしてほしい。

 私が早とちりして、細かく調べもしないで、二人の思いや夢を踏みにじってしまったのだから。

「ごめんなさい……私のせいです」

「あなたが気に病む必要はないわ。でも、もう私たちの前には現れないでちょうだい。私にはあなたが疫病神か悪魔にしか見えない」

 安藤の目には涙が浮かんでいた。

「……はい」

 私は小野のアパートを一人で出て、周りの目など確かめもせず翼を広げて、電信柱より少し高い空を飛んだ。

 小野を探さなきゃ。

 探してどうするかなんて私にはわからない。

 けれど、探してどうにかしないと。

 空から見れば地上なんてそう広くも感じないのに、地上に下りれば人間一人を見つけるのに、地上は入り組みすぎていてどこにいるのかまったく検討がつかない。

「お困りのようね!」

 焦りばかりが先行する中、突如として私の行く手を阻むように空から下りてきたのは他でもない。

「マリーナちゃん!」

 毎日のように顔を見ているのに、今、一番いてほしい人が目の前に現れて、私は咄嗟に抱きついてしまった。

「ちょ、なにをしますの。それより、クラミニカ、困っているんじゃなくて?」

「うん……それがね」

「ストップ。雲の上から全部見ていたから知ってる」

「間違ってしまった現実を元に戻したい」

「それで、あなたは納得できますの?」

「きっと恋愛って他人に押し付けられてすることじゃないんだよ。だから、私は小野に刺さったハートの矢を抜く」

「……いいんですの?」

「うん、いいよ。今の状態は誰も幸せにならないから、それならいっそ」

「わかった。しょうがないから、手伝ってあげますわ」

「ありがとう、マリーナちゃん」

 マリーナちゃんがいれば百人力だ。

 例え、どんな結果になろうとも。

 見ていてください、アンネロッテ先生。私たちはちゃんと一人前の空人になります。


「クラミニカさん、聞こえますか?」

「アンネロッテ先生?」

 そうか。雲から地上の声を私たちは聞くことが出来るのだから、叫ばずとも地上から雲の上の声が私の耳に聞こえても不思議はない。

「あなたたちの探している小野という男は駅前のボーリング場にいますよ」

「アンネロッテ先生、どうして……?」

「どうしてもなにもこれは試験ではありませんし、私たちはみんなあなたたち二人と同じ空人ですよ。困っていたら助けます」

「だって家族だろ、私たち!」

 第三クラウドにいた先輩空人たちの声がやかましいぐらいに聞こえてくる。

 そう、私たちはみんな家族なんだ。

「ありがとうございます!」

「試験は手伝えませんが、試験を乗り越えてしまえば、後はあなたの行動や理念に賛同すれば誰だって助けてくれます」

 私はマリーナちゃんと頷きあって、翼を大きく広げて駅前のボーリング場へと飛んだ。

「アンネロッテ先生、みなさん、ご迷惑おかけします!」

「クラミニカが私たちに迷惑をかけない方が迷惑よね」

「そうそう。クラミニカはなにをやらせてもダメなんだから、クラミニカが動けばなにかしらが起こることぐらい覚悟してる」

 先輩たちが口々に笑っている。

「でも、そんな中にあってもクラミニカはクラミニカなんだよね」

「いっつもふわふわしてて、ぽわぽわしてて、なにを考えてるのかわからないけれど」

「クラミニカは誰よりも人間のことを考えてる、空人で一番優しい子なんだよ」

「でも、今回は失敗しちゃったね。それはたぶん、私たちのプレッシャー。だからこそ、クラミニカのミスをみんなでカバーする」

「みなさん、ありがとうございます!」

 涙が止まらなかった。

 空人の歴史始まって以来の一番の劣等生と言われた私。

 私自身も、なにがいけないのか知っている。

 空人の使命よりも、人間が考え、重んじる心の部分を考え過ぎてしまうことだ。

 人間なんて家族でも友達でもない。まして、種族すら違い、空人よりも遥かに劣り、野蛮で下品で戦争なんてくだらないことをしていた蛮族とも呼ばれる人種だ。

 それなのに――それだから、私たち空人は、人間の世界に幸福を齎す。

 それが恋愛。

 だけど時代は変わり、空人にはいない男という種類の人間は全員が全員とは言わないが、恋に奥手な人間が増えて、新しい命が生まれにくくなっている。

 アンネロッテ先生は言った。人間が滅びれば私たちも滅びる――つまり、男と女がいて初めて恋をし、その恋が愛に変わって、新しい命が人間には宿るが、女しかいない私たちはどうやって生まれてきたのか。

「マリーナちゃん。あのさ、私たちって大人かな?」

 私の前を飛ぶマリーナちゃんのお尻に声をかける。

「んー、子供じゃない? まだ百年ぐらいしか生きてないし。胸とかお尻とかもっと成長したら大人かなー」

 人間に混じれば小学生の子供にしか見られない私たちはまだ子供。

「じゃあさー、大人になったら私たちも恋したいね」

「なに言ってますの。そんなものするつもりはありません」

 マリーナちゃんはまだ子供だなー。

 そう思っても、言わない。

 人間が滅びれば私たちも滅びるというのは、私たち空人に男がいないことを意味している。

 全部終わって家に帰ったらお母さんに聞いてみたいんだ。

 お母さんの恋の話。

「あそこですわ!」

 マリーナちゃんが大きなボーリングのピンが建物の屋上に立っている建物を指差す。

 昔ながらの町の古いボーリング場。東京の都市部に行けば、ボーリング以外にも色々な遊びが出来る複合施設が一般的になりつつあるが、ここのは夜になって明かりが消えればお化け屋敷みたいな古めかしい建物。

「マリーナちゃん、小野がどれだかわかるの?」

 真っ先に飛び込んでいこうとするお尻に問いかけると、振り向くことなく言った。

「クラミニカのハートの矢が刺さっている、地味な男でしょ?」

 中に入ると、レーンの数に比べて客の数は少なく、すぐに小野を見つけることができた。

「大学の人だ」

 先輩たちが見て楽しんでいる、女の影の多いイケメンの破天荒な生活とは違い、小野のグループは男女六人でみんな大学で見たことのある面子で楽しんでいる。

「なーんか、一人だけ浮いてるような気がしますね」

 ピンを倒してハイタッチをしたり大盛り上がりなのに、小野だけは場違いであるかのように、どこか纏う雰囲気が違う。

「じゃあ、早速ハートの矢を引っこ抜いちゃおうか!」

「待って!」

「もう、なによー」

「……少しだけ、小野と話したい。どんな気持ちでいるのか」

 安藤にはもう二人の前には現れるなと言われたけれど、こうしてしまった責任は私にあるのだから、せめてものことをしたい。

「償いのつもり? でも、私たちはハートの矢を抜く。そうでしょ?」

「結論だけ見ればそうだけど……」

 どう説明すればいいのだろう。

 私は空人みんなの力を借りて小野を見つけ出して、一度刺してしまったハートの矢を抜こうとしているのだ。そうすればすべては解決して終わる――でも、私が納得できない。

「はあ、いいわよ。いってらっしゃい。空人でありながら、人間の気持ちを重んじつクラミニカらしい考えですわ。それにクラミニカが刺したんですから、自分で抜きなさい。見ていてあげるから」

「うん、ありがとう」

「ってここで翼を仕舞うの?」

 みんなボーリングに夢中だし、それ以上に人が少なく人目がないので、躊躇うことなく翼で自分自身を包んで人間の目にも見える人間と同じ実体を取った。

「小野さん」

「また会ったね」

 小野は笑いかけてくれない。

「ちょっとお話いいですか?」

 そう言うと一緒にいた五人が私に視線を向けてきて、せっかく今までの自分を払拭して、遊び回っている人たちのグループに入ることができたのにと言わんばかりの小野が、五人の視線を気にしながら、重たい腰をあげた。

「少し外出てくるから、代わりに誰かやっておいて」

 安藤と付き合ったことで、小野の性格は少し変わったようだけれど、根底にある子供に優しい一面はちゃんと残っている。

「どうしたの?」

 外に出れば広い駐車場があるも、車はほとんどガラガラで、隣に建つパチンコ屋の車がこっちの駐車場を利用しているぐらいだ。

「今日で最後だからお別れに来ました」

「最後? どこかに引っ越しちゃうの?」

「そんなところです」

「そうなんだ……なんか飲む?」

 ポケットから財布を抜きながら自動販売機に歩み寄り小銭を手の中に用意する。

「いいえ、いりません」

 私は何度、小野と安藤の好意を断ってきただろうか。たぶん、こうしてなにかを与えてくれようとする優しさは、実の親がいなくても児童養護施設でたくさん色んな人に優しくされ、年下の子供に優しくする術を当たり前のように身につけていたせいだろう。

「それよりも聞きたいことがあります」

「なに?」

 サイダーを買って、プルタブを開けて飲みだした小野が視線だけをこちらに向けてくる。

「安藤さんのこと好きですか?」

「君には感謝してる。僕はずっと我慢していた。ちゃんとしなきゃって……でも、君に会って、君と話してから、僕は彼女に思いを伝えられた。そして付き合えた」

 まさかちゃんと目標を果たしていないのに交際を申し込んでOKをもらえるとは、小野も思わなかったのだろう。

「未柚さんに聞いてたりする? 僕と彼女のこと」

「はい。先ほど安藤さんにも会ってきました。全部知っています」

「じゃあ知ってるんだ。僕の夢も」

「はい。聞きました。そしてそれを投げ出すかのように大学を休んだことも」

 小野はサイダーを飲み干して空き缶を乱暴にゴミ箱に投げ入れる。

「それで、君は悪いと思って僕のところに来たの?」

「そうです」

「そっか。じゃあさ、聞きたいんだけれど、僕と未柚さんがもっと恋人らしくするにはどうしたらいいのかな? 君は僕よりも年下だけれど、どことなく君には不思議な力、縁のようなものを感じるよ」

 そりゃそうだ。私が二人を交際させてしまったのだから。

「でも、まだうまくいかないんだ。どうしたら簡単にデートとか誘えるかな? どうしたら僕は彼女と結婚できるかな?」

「なんで私なんかに聞くんですか?」

「うーん、なんというか、君は僕たちにとっての愛のキューピットみたいに思ってるんだ。君が僕と未柚さんをくっつけてくれた、天使じゃないかって考えないことはないよ。君と出会ってから、僕の見る世界は明るくなったからね」

 キューピット、天使――そんな大それたものを名乗るには恐れ多く、またおこがましい。

 それに安藤は私のことを疫病神や悪魔と言っていた。どうして、二人をくっつけただけで、二人の見る世界はこうも違ってしまったのだろうか。

「私、間違っていました」

「なにが?」

 さっき先輩たちの優しさに涙したけれど、今は自分の不甲斐なさと、自分の軽率な行動が招いた取り返しのつかないことに怒りのようなものが込み上げてきた。

 でも、それ以上に私の行動は間違っていた。小野を幸せにしちゃいけなかったんだ。

「最低な男だね」

 小野には聞こえない、同じ空人の私にしか姿が見えず、声も聞こえない翼を生やして人間の目には映らなくなった空人のマリーナちゃんが私の背後に立って呟いた。

 その声の調子はかなり本気で軽蔑している。

 マリーナちゃんの思いを一緒に握った拳に力を込めて、それを勇気として、言葉にする。

 先輩たちが面白がって見ているイケメンたちと同じか、それ以上に小野は悪い。

「あなたのような優しい人は、恋をすればもっと優しくなると思ってましたけれど、あなたは違った。私、間違っていました」

 誰かを愛するために夢を諦めるのなら、それは現実的でいいのかもしれないし、誰もが納得するかもしれない。それに代わるだけの、大切な相手を手に入れられるのだから。

 しかし小野の場合は違う。

 愛する人を手に入れたら、夢を諦めるのではなく、夢を捨ててしまった。

 それも愛する人を幸せにするための夢を。

 小野は必死に勉強をし、働き、苦学生だと思っていたが、実際は違った。

 夢を叶えて幸せになって性格や思考が変わるのは往々にしてよくあるべきことだけれど、夢を叶えずに目的だけ果たして、自分というものを失ってしまっている。

「私はあなたにとってキューピットでも天使でもない」

 もしかしたら安藤にとってはキューピットか天使になるのかもしれないし、小野にとっては疫病神や悪魔になるのかもしれない。

「あなたの胸に刺さったハートの矢を抜かせてもらいます」

「なにを言ってるんだい?」

 ばっ、と背中に大きな翼を生やしながら、右手を胸の中心に刺さっているハートの矢に手を伸ばす。

 この瞬間、もしかしたら小野の目には背中に翼の生えた私の姿が見えているかもしれない。それを確かめる術はもうない。

「抜いちゃえ!」

 マリーナちゃんが叫ぶ。

 力を込めて胸に刺さったハートの矢を引っこ抜いた。

 するとそれは手では掴めない雲となって手元から消えた。この目で確かめてはいないが、安藤に刺さっていたハートの矢も消えたはずだ。

 私の背中には大きな翼が完全に広がった。

「……あれ? 僕はここでなにをしていたんだ?」

 目の前の私の姿を見ることのできない小野は視線を左右に巡らせてから、ここがどこであるのか思い出し、ボーリングへと戻っていった。

「よくやったわね」

 マリーナちゃんの手が私の肩を叩く。

「うん……。これでよかったんだよね」

「だよね、じゃなくて、よかったんだよ」

 長いこと両思いだと知りながら、思いを伝えずに片思いをお互いにしていた一つのカップルがこうして終わった。

「大学もサボるようになって、公務員の夢すら捨てて、遊ぶことを覚えて、これで安藤って女が幸せになれるとは到底思えない。絶対に不幸になる。それを安藤もわかっていた」

「でも、考え直すこととかなかったかな?」

「恋は人を狂わせる。それも十年弱でしょ? 小野が安藤を好きだった期間って」

 私が小野を見たのは豪華そうな黒い車に乗せられて、『あすなろ園』に連れて来られた最初の日。

 すごく不安そうな顔をし、背中に背負ったリュックサックに必要最低限なものだけを詰め込み、見知らぬ人間の中に放り込まれて、血の繋がらない家族となった。

 そこで優しく声をかけて、気を使ってくれていたのが安藤だった。

 小野も成長し、中学生ぐらいになる頃には『あすなろ園』にも慣れ、元々面倒見のいい性格だったのか年下には慕われ、頭もよく勉強がよく出来ていた。

「小野はあそこの家族を助け、愛する安藤をしっかりと支えようとしていた」

 その術――公務員というのまでは私は知らなかったし、二人の間に交わされた無言の約束も夢も知らなかった。

「過程をすっ飛ばした恋はダメってことだね。私が刺した二人もどうなってるかわからないけど……しょうがないで終わらせたくないよね」

「うん」

 私たちのハートの矢の力は本物だ。

 しかしそれが本当に正しいかどうかはわからないことを私たちは学ばせてもらった。

「恋が愛に変わることもあるけれど、恋はそれ以上に人間を狂わせる」

 私はキューピットにも天使にも、疫病神にも悪魔にもなれない。ただの空人だ。

「帰ろう。帰ってアンネロッテ先生と反省会しよう。あと、勉強もしよう」

 マリーナちゃんから差し伸べられた手を取って、私たちは空へと帰る。

 空に浮かぶ大きな雲の上で、みんなが待っていてくれる。

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