その3
地上に近い空を無作為に飛び回っていると、同じような並びの住宅街の中から、薄いピンクを携えた私と同じ翼を持ったマリーナちゃんが、私に気づいてやってきてくれた。
「どうしたんですの?」
ばっさばっさ、と翼を羽ばたかせて、私たちは最初に降りてきた芝生のある公園にやってきた。
帰宅途中のサラリーマンが抜け道に利用しているのか外灯の下を通る影がポツポツと見えるぐらいで、ベンチに座っているような人はこんな時間にはいない。
「クラミニカ、もしかしてホームシック?」
「違うよ……あのね」
私は小野と安藤のことをありのまま話すことにした。
「二人は両思いなんだけど……互いに気持ちは伝えられてない」
「なら、チャンスじゃない。クラミニカが男の背中を押すだけで、もう完璧」
「でも、それでいいのかな? 好きな人には苦労してほしくないってなにかな?」
「そんなことまで考えなくていいんだよ。私たちが持つハートの矢を刺された二人が本当に好き同士なら、それが『運命』になって二人は結ばれるんだから」
マリーナちゃんが両手を組んで、まるで人間が星に願うかのようにキラキラした目を空へと向けている。
「……ちょっと考えてみる」
「考えすぎよ、考えすぎ。この試験は例え一日で別れたとしても、結ばれた事実があればそれで合格。なにも私たちは赤の他人同士をくっつけるわけじゃない。少なくとも、このハートの矢は両思いじゃなきゃ効果がないんだから、その時点でもう成功じゃない。私なんてね、もうそりゃー苦労したよ」
マリーナちゃんが目星をつけたのも偶然らしいのだけれど、時間の融通が利き、色々なところで出会いがある大学生の男。
その男が好きなのはアルバイト先のコンビニに毎日必ず夜に買い物に来るOL。
「男の方とは接触したし、これから相手の女が店にやってくる時間」
「どうするの?」
「両方に矢を刺す! もし、女の方に少しでも気があればそれで成功。ダメなら他!」
「よく、男の人に好きな人がいるなんて聞けたね」
「……内緒だけど」
マリーナちゃんはちょっと難しい顔をした。
内緒と言っても雲の上にいるアンネロッテ先生は見ているだろうし、久しぶりに私たち子供が最終試験を受けているのだから、先輩たちも面白がって第三クラウドに集まって見ている可能性だってある。
「男に、好きな人がいないなら付き合ってって告白して、いるって答えたから、誰か聞いた!」
ずるいけれど、そんなことをする勇気は私にはないし、それを答えてくれるような初心な男を見つけたのはマリーナちゃんの手柄だ。
「だからさ、クラミニカも深く考えないでいいんだよ。私たちは思いに気づかせるだけで、告白までのシチュエーションは整える必要はないし、どんな理由があろうとも好きなら問題ないんだよ。ほら、この間、アイドルの子が普通の男と結婚したのだって、先輩のハートの矢のおかげだし。ワイドショーとかでは身分違いとか言われてるけれど、本人たちからすれば立場なんて関係なく、好きな人同士が一緒になれて幸せじゃん」
「……そうだよね」
二人が親しく話しているのだけでなく、小野が安藤を頼っているところを見るに、二人はちゃんと両思いだけれど、長年一緒にいすぎたせいで、思いを伝えるのに、今の関係を壊すのが躊躇われるとかそういうのだろう。
「明日、今度は男の方に本心を聞いて見る」
「クラミニカは正攻法で行くんだね」
他の先輩たちも雲の上からターゲットを定めてその男が片思いをしていればそのままそれを手伝うが、片思いすらしていなければ恋をするのを待つか後押しする。その監視の段階から、担当になったと言ってもよく、基本的には早い者勝ちで選べるが、私やマリーナちゃんが地上で実体を持って直接接触ができるように、先輩たちは決まってイケメンを選びたがる。その方がハートの矢を刺すまでの間の接触が楽しいから。
でも、その分、遊び人だったりすると、他の女の影が多くて本命を見極めるのが大変だと言っていた。
片思いをしている人たちはみんな同じで、強い思いを胸の内に宿し、秘めている。
「私も、やるよ」
「うん、落ちこぼれじゃないところ、見せてみなさい」
「うん。どんな理由があっても、二人が好き同士であるのならハートの矢を刺す」
「矢の使い方わかる?」
「翼がなければ使えない! 矢を射る練習はお母さんのでしたから大丈夫!」
「そう。じゃあ、明日か明後日には雲の上で会えるといいわね」
そう言ってマリーナちゃんはターゲットの男が働いているコンビニの方へと翼を広げて飛んでいった。
「ありがとう」
その背中にかけた声は風の音で聞こえなかっただろうけれど、もう一度。
「ありがとう」
翌日の午後、私はまた大学へと向かった。
昨夜はいつまで経っても消えることのないネオンが煌く繁華街へと繰り出して、大きな家電量販店やゲームセンター、一晩中明かりの灯っている場所で翼を最小限まで縮めて、誘惑の多い夜の街を楽しんでいた。
今まで意識したことがなかったのだけれど、私たち空人は食事と一緒で二日や三日寝なくても平気だが、人間は一日に何度も食事を取るし、毎日眠る。それなのに夜に眠らずに働く人も、遊びまわる人もいて飽きることはない。
そして小野が毎日のように通う大学は昼間に人が集まり、『あすなろ園』も夜になったら真っ暗になってしまう。
「昨日はどうもありがとうございました」
昨日と同じように大学の講義終わりに友達に誘われるのを断って、今日は昨日のように時間がなかったのか、慌ててファミレスへと裏口から入っていって、暫く店内に出て接客をしていた小野が、夜の忙しくなる前の休憩時間、裏口から外に出てきた。
「君は昨日の。よくここがわかったね」
服はちゃんと自分が着ていた雲で出来た服に着替えている。
「小野さんは、安藤さんのこと好きですよね?」
「いきなりだね」
小野は笑いながら、手に持った缶コーヒーをこちらに差し出してきたけれど、地上のものを口に出来ない私は首を振った。
「コーヒーなんか飲まないか。ジュース買ってこようか?」
「いいえ、それより話聞かせてください」
小野は従業員用の裏口から少し離れて膝上の高さのあるコンクリートの上に腰を下ろしてから缶コーヒーを振ってプルタブを開けて口をつけた。
私もその隣に腰を下ろす。
「確かに僕は安藤未柚のことが好きだけど……初めて会った君にもわかっちゃうぐらいなのかな?」
実はずっと観察していました、なんて言えるわけがない。
実際問題、こういう一途な男を見つければ私たち空人の仕事はすごく簡単だし、私たちよりも劣る人間たちを簡単に幸せに出来る。
先輩たちが好むイケメンというのは総じて気が多く、周りに何人もの女の影が見えるので本命を見つけるのが難しいが、やはり目の保養にはなるらしいので、注目を浴びる。
ただし、イケメンと芸能人の恋愛をサポートするのは面倒なので、恋の後押しよりも怠けながらの観察が目的とも言える。
義務ではないのだから、誰にも文句を言われる筋合いはないし、私やマリーナちゃんがこうして最終試験に臨むのは、大人の空人となるため――先代の空人、それがいつの時代なのかはわからないが、人間たちの世界に不要な混乱を招かないため、私たちには与えられた弓矢一式を正しく使えるように受け継がれてきた。とはいえ、人間たちは私たちの力などなくても恋は出来るのだから、私たちのすることなんて本当に些細なことかもしれない。
「僕は未柚さんのことが好きだよ。でも、僕は彼女には告白なんて絶対に出来ない」
「なぜですか?」
好きなら、好きという思いを伝えればいいのに。
私には小野だけでなく安藤の気持ちも知れているからそう考えてしまうのかもしれないけれど、好きという気持ちがあるのなら、一体なにがこの二人を邪魔しているというのだろうか。
「未柚さんはあの『あすなろ園』を切り盛りするのに忙しいからね、遊んでる暇なんてないんだ。そんな暇があったら、子供たちの幸せを考えてる。あの園にいる、みんなのお母さんなんだ」
「それで諦められるんですか?」
「諦めないよ」
小野は缶コーヒーを飲み干して立ち上がる。
「未柚さんを幸せに出来るような一人前の大人になった時、僕は告白をするよ」
「……今じゃダメですか?」
「今じゃ早いよ。じゃあ、僕はちょっと中に戻るけど、まだなにかあるかな?」
「いいえ、すみません。忙しいところ」
「うん、それじゃあね」
小野はそう言って裏口から店内に戻ってしまい、私は一人取り残されてしまった。
私はでも、誓ったのだ。
二人が両思いであるのなら、ハートの矢を刺すと。
だって二人は両思いなんだから、そこになんの問題があると言うのだ。それに安藤の年齢は三十歳を超えていて、初婚年齢には遅いぐらいだし、あの『あすなろ園』からほとんど外に出ない身では出会いがなく、恋愛も結婚も難しい。
「今しかないんだよね」
私たちの人間年齢での三十歳なんてあっという間に過ぎ去ってしまったけれど、八十歳ぐらいで人生の終わりを迎える人間の年齢にしては遅いぐらいだ。
私は周りを確認して人目がないことを確認してから、背中に翼を生やして、人の目から姿を消した。
そして翼の内側に括り付けた弓矢一式を手にして、ファミレスの表側に回って店内に侵入し、休憩室で本を開いている小野の姿を見つけた。
「ごめんなさい」
例え、二人が今そうする気がなかったとしても、私には二人はくっつくべきだと思う。
だから、ごめんなさい。
決して外すことのない至近距離から小野の体にハートの矢を射った。
実体はないのだから小野に刺さってもなにかを感じることはない。
小野は読書の手を止めることも、そこから顔を上げることもなかった。
「さようなら」
空人となった私の声は人間には聞こえない。
私はそのまま『あすなろ園』へと飛んで、安藤にもハートの矢を刺した。
二人が両思いでなければ、その矢は落ちるがちゃんと刺さっている。
「あとは見守るだけ」
ハートの矢を刺されたら直ちに告白をしに飛んでくるなんてことはないが、しっかりと目に見えない心の中で恋を意識する。
男は告白をする覚悟を持ち、女は告白をいつ来るかを待ち、それを迷わずに受け止めて晴れて恋人となって、私の最終試験は終了。
もうここですることはない。
『あすなろ園』の前に、破けてしまったけれど借りていた服を置いて、私は空へと帰った。
「クラミニカさん、よくやりました」
空に浮かぶ雲の上、第三クラウドに戻ると、アンネロッテ先生だけでなく、先輩たちに混じってお母さんとマリーナちゃんが一緒になって迎えてくれた。
「私よりは遅かったけれど、なかなかやるじゃない」
「うん」
「やっぱ実践は得意ってやつ?」
マリーナちゃんがいつも以上の笑顔を向けてくる。
筆記試験だけでなく、実技試験まで劣等生の私に心配されるのは迷惑だったかもしれないけれど、よかった。
マリーナちゃんはちゃんと合格したんだ。
「ほら、ご覧なさい」
アンネロッテ先生に言われて雲の下に視線を落とせば、私がずっと見ていた小野と安藤を見つけられる。
安藤は忙しいのか、小野がいつも一人で訪れている公園ではなく、『あすなろ園』の中庭に二人で揃っていた。
意識を集中させて、聴力を研ぎ澄ませれば聞こえてくる。
「未柚さん、僕と付き合ってください」
「はい、よろこんで」
二人は余所余所しく笑ってから、手を取り合ってキスをした。
私はそれを見て胸に痛みを感じた。
とんでもない罪悪感だ。
「おめでとう」
周りでは拍手が打ち鳴らされ、落ちこぼれの私を祝福してくれる。
「クラミニカ、おめでとう。あなたが好きな甘い雲よ」
甘いピンク色の雲をかけた、青い雲。
私の好物だ。
「お母さん」
「本当に実技は得意だったのね。よかった。これであなたも一人前の、大人の空人よ」
雲の皿にのった甘い雲を雲のスプーンで掬って口に運ぶ。
甘くておいしい。
もふもふして、ふわふわして、沈んだ気持ちまで空に浮かびそうだ。
私とマリーナちゃんの合格祝いという名目のパーティーは日が昇るまで続いた。
「さて、あなたたちも今日から一人前の空人ですね。これからしたいこと、抱負などはありますか?」
「私は思いを伝えられない、いわゆる草食系の男を助けていきたいと思っています」
「素晴らしいですね。では、クラミニカさんはどうですか?」
「私は……まだわかりません」
昨日、あれだけ盛り上がっても、私たち空人は節操なく、人間のように羽目を外しすぎることはない。
人間が何事も楽しめるのは時間が限られているからであり、私たちは何事ものんびりしていて、残された時間も果てしない未来まで約束されている。
「では、質問を変えましょう」
アンネロッテ先生は優しい笑顔のまま私を見つめてきたけれど、私は気まずくなって目を逸らして俯いてしまった。
「私たち空人は人間の数十倍の知識や知恵を有し、人間よりも遥かに進化した種であるのはわかりますね」
私は俯いたまま小さく頷いた。
「そんな私たちがなぜたかだか百年とちょっと前まで空を飛ぶことすら出来なかった弱い人間の恋を応援するかわかりますか?」
「私たちが楽しむため?」
「いいえ、違います。マリーナさんはわかりますか?」
え、とマリーナちゃんは自分に振られると思わなかったのか、油断していたようだ。
「それはアンネロッテ先生が言ったように、自分たちで恋が出来ない、遥かに劣った人間だからです」
「正解、と言いたいのだけれど、それでは半分しか丸はあげられません」
「どうしてですか?」
「人間は恋をすることで進化、進歩してきたのです」
「恋をして……?」
マリーナちゃんは首を傾げたけれど、私にはなんとなくわかった。
昔から私は思考が空人よりも人間寄りだと言われていた。その理由もずっと知っている。
私はずっと地上の人間たちを羨ましいと思っていたからだ。無論、雲での生活が嫌なわけではないし、お母さんもアンネロッテ先生もマリーナちゃんも、他のみんなも大好きだけれど、人間はいつだって泣いて、笑って、怒って、喜ぶのだ。
「恋の先にはなにがあるかわかりますか?」
「愛です」
私が、不意にそう言葉にすると、マリーナちゃんが驚いた顔をした。
「そうです。正解です。恋の先には愛があり、愛が実れば男女の間に子供が生まれます。すると、短い時間しか生きられない人間がどんどん未来に繋がっていくんです」
「愛が歴史を作るってことですか?」
マリーナちゃんが、私に負けるのを気にしてか前のめりになっている。
こんなこと、今までのアンネロッテ先生の授業にはなかったけれど、私がずっと人間を観察していて感じたことだ。
「いい言葉ですね。でも、その通りです」
「それが私たちになんの関係があるんですか?」
「人間が滅んでしまったら私たちも滅びるでしょう」
「なぜですか? 今までだって大した接点を持っていたとは思えませんし、飛行機やヘリコプターで安全な生活を脅かされることがあっても、いいことなんて――ただの遊興なんじゃないですか?」
「今まではそれでよかったかもしれませんが、大人の空人となったあなたたちはその先のことを考えないといけません」
「これが本当の最終試験ですか?」
「いいえ、これは試験でもなんでもありません。これからの長い人生を生きる上で考えてほしいことです」
この先のことを考える――わからないけれど、自由に地上に行ける権限を手に入れて、大人の空人となった私は真っ先に確認したいことがある。
「さあ、これから二人は自由です。これからなにを学ぶか、なにをするか、あなたたち次第です」
そう言うと、もう教える生徒がいなくなってしまったアンネロッテ先生はコーヒー色の翼を広げてバサバサと他の雲へと飛んで行ってしまった。
「……クラミニカ、あなたはこれからどうしますの?」
「私はもう一回、地上に行く」
「あの男を見に?」
「うん。アンネロッテ先生が言いたいことも、なんとなくわかったんだ」
「待って! それ、私は自分で答えを見つけたい!」
「そうだね。私はもう行くよ」
「私は少し観察する」
「じゃあ、行ってくるね」
弓矢一式を持って、私は再び地上へと降りた。