その2
私とマリーナちゃんは初めて地上に降りたけれど、雲の上から毎日見ていたので、どこになにがあるのかはほとんど把握しているし、翼を持たない人間の生活習慣なんかも、もちろん勉強して教えられている。
その勉強が大変で、合格をもらうにはテストを受けて満点を取らなければいけないのだけれど、私はそれが苦手だった。
例えば「あなたは電車でターゲットの男の隣に座れました。しかしそこにお年寄りが乗車してきましたが、座席はどこも空いていません。あなたはどうしますか?」という問題に、私はいつも「お年寄りに席を譲る」と書いてしまってバツをもらう。
この場合の正解は「ターゲットから離れない」じゃないとダメ。いつ如何なる時にターゲットの男が思いを寄せる女と出会うかわからないのだから、離れるなんて愚の骨頂。さらに一番推奨されているのは、仲良くなってしまうことだ。
見た目年齢が同じぐらいなら友達として接触して、恋の相談を受けるのが最短での合格方法の手順の一つとして挙げられるが、それは私たちよりも百年ばかし歳を重ねた人たちのやり方だ。人間たちから見れば私やマリーナちゃんは十歳なので子供。しかし恋を成就させる人間の男のターゲットの適齢年齢は二十歳前後。どうしても私たちは幼く見られてしまう。
「クラミニカ、あなたはどんな作戦を立ててますの?」
私たちはまだ背中に翼を生やしているので、地上の人たちには姿が見えないが、一応周りの目を気にして、広い公園の人気のない場所を選んでいる。
「実はもう決めてるんだ」
「へえ、どんな人? 私はねー、やっぱ仲良くなるならイケメンがいいなー」
仲良くなっても、私たちが出来るのは他の人間との恋を応援することを忘れちゃいけないんだよって言いたいけれど、マリーナちゃんは私なんかに言われなくてもわかっているはずだ。第三クラウドにいた先輩たちも、みんなイケメンが好きで、その男の人が綺麗な人と付き合うのは許せるのだけれど、自分たちの気に食わないブスとくっつくるのは許せないって、ハートの矢を刺してあげない。でも、そんなのっておかしいと思うんだ。相手が誰であろうと、その男の人が好きな相手ならどんな相手でもハートの矢を刺してあげたい。
「私は電車の中で席を譲らないような人よりも、譲る人がいい」
「はあ……なにそれ」
試験を一発で合格してしまった普通のマリーナちゃんにとっては、私がずっとバツをもらっていた問題を覚えていたりはしないんだね。
「私は人目のないところで翼を隠して、地上の人間に混じってターゲットを見つける」
「うん。がんばろう!」
例え、すぐに終わらなくても、三日ぐらいしたら帰らないといけない。私たちは二、三日程度ならなにも食べなくても水さえ飲んでいれば活動できるけれど、三日も雲を口にしないとお腹は空くし飛行能力を失ってしまう。
そうなったら一人では帰れないから、雲の上から監督してくれているであろうアンネロッテ先生の助けを待たなければいけない。
「じゃ、機会があったら会いましょう。まあ、二人揃って雲の上で合格して会えるのが一番だけれどね」
マリーナちゃんがふわふわと綺麗な翼を揺らして、地上から飛び上がっていく。
「二人揃って合格しようね! 絶対に!」
「ま、まあ私がクラミニカに負けるなんてことはないから精々がんばりなさい」
「うん!」
マリーナちゃんは地上から見上げたら大きく空を浮かんで、目の前の大きな木や電柱よりも高い空を飛んでいった。
「さて、私も行こう」
翼を持たない人間と接触することは緊張しないと言ったら嘘になるけれど、それ以上に私はとある男に会いたくて、その彼がどこにいるのかをずっと観察していた。
翼を広げ、いつもよりも地上に近い空を障害物を注意しながら飛んで、公園のような芝生が生えた大学ということにやってきた。
ちゃんとアンネロッテ先生に人間の世界、特に日本の教育システムなどは教えられているので、大学生が私たちの年齢で二歳程度の子供であることも知っている。
「いた」
大学の建物の屋根に着地して、翼を出したまま彼が今日はどこに行くのかを黙って見届ける。
「小野、今日合コンあるんだけど来ない?」
「僕はそういうのはいいよ。ごめんね。きっと場の空気を悪くするだけだから」
小野哲司――メガネをかけた細身の男。
空で先輩たちがイケメンと称する男の人のような派手さもキラキラと輝くようなイメージも一切ないし、元気に声を張り上げるようなこともない。
友達の誘いを断った小野は、申し訳なさそうな顔をして会釈してから立ち去ると、誘った方の男はつまらなそうにしていた。
私は翼を羽ばたかせて小野を追いかける。
私たち空人は集中すれば視力だけでなく聴力も遠くまで及ぶので、特定の声や音だけを聞き分けることなど容易だ。
つまり、ある程度の情報を雲にいながらに収集することができ、私は何度も落ち続けた筆記試験の合間に、彼のことをずっと探して、追いかけていた。
当時はまだ小学生だったけれど、今はもう大学生。
本当に私たちの感じる時間と人間の感じる時間は全然違う。わかっていたことだけれど、本当に人間の命というのは短い。
小野は人ごみを避けるように大学を出て、私とマリーナちゃんが最初に降りた緑の多い公園へと足を踏み込んだ。そして木々が木陰を作るベンチへと腰を下ろして鞄からボロボロの本を取り出して読書を始めた。
人間の一生なんて限りなく短いのに、小野は先輩たちが見ていて喜ぶような男たちのように遊び歩かずに、暇を見つけてはここに来て勉強をしている。
周りでは小さな子供たちがゴムボールを蹴っ飛ばして遊んだり、ベビーカーを押した若いお母さんがビニールシートを広げて小さな子と遊んでいる。
私は手にした弓矢を翼の内側に括り付け、私自身を包み隠せるほどに大きく翼を広げてから、アンネロッテ先生の授業を思い出す。
「翼で自分自身をゆっくり包み込む――注意として、周りに人目がないことをちゃんと確かめることと、地に足をつけていること」
こういうルールはちゃんと覚えているのだけれど、人間たちのルールの教えが覚えられないのだ。
自分の翼に包まれ、完全に真っ暗になるも、すぐに視界が光で満たされ、自分自身の足でしっかりと土の地面を踏みしめる。
今までは汚れることを知らなかった純白の靴で地面を蹴っ飛ばすと、芝生が捲れて黒い土で爪先が汚れる。
「わあ」
ぎゅっぎゅっ、と踏みつけると、靴越しだけれど足の裏に感じたことのない感触が感じられて面白い。土の上に生えた雑草は踏んで曲がっても少しずつ元に戻って真っ直ぐに立つ。
「面白い、面白い!」
ぴょん、と跳ね回っていると、不意に足の裏が摩擦を失い、天と地がひっくり返った。
空で生きる空人の私たちには上下なんてほとんど関係のないものだけれど、つるんと滑った私はひっくり返って尻餅をついた。
「いったーい」
ううっ、はしゃぎ回った罰だってことぐらいわかっているけれど、この楽しさは空にいては決して味わえない。頭でわかっていても、いざ地上に降りると我を忘れてはしゃいでしまった。お尻を強打してやっと現実を思い出した。
「でも、反省はしないもーん」
ぐーっ、と両方の拳を雲の上にいるアンネロッテ先生に向かって突き上げる。
きっとアンネロッテ先生は、私を見てあたふたしているだろうけれど、私は平気です。それにちゃんとターゲットとなる男の人に近づいて――不意にアンネロッテ先生と私との間を遮るように顔に影が落ちた。
「大丈夫? 立てる?」
逆光になって顔はよく見えないけれど、この声といつも同じような地味な服装の主は誰だかわかっている。
私が近づく前に、相手から近づいてきた。
小野哲司、その人だ。
「ふぇ? だ、大丈夫です!」
あたふたとしている間に、小野は私の手を――取ることはなく脇の下に手を突っ込んで抱き上げられて立ち上がらされた。
こんな立ち上がらせ方は子供みたいで不満だけれど、小野の目には私は十歳の少女でしかない。
「ありがとうございました」
私のターゲットは最初からこの人。
予期せぬ接触の仕方とはいえ、結果オーライ。今日は挨拶を交わす程度で終えて、明日また偶然を装った形で再会をして、徐々に小野に近づいていこう。そうしよう!
「こっちに来て」
「へ?」
私の頭の回転が及ぶよりも早く、小野は私の手を引いて、先ほどまで小野がいたベンチに鞄を取りに戻って、私は半ば引きずられるように、どこかへと連れて行かれた。
「あ、あの、どこへ?」
公園を出て住宅街を歩く。
「せっかくの可愛い洋服が汚れちゃったからね。綺麗にしなきゃ」
「そんなことしていただかなくても……」
住宅街を抜けて、歓楽街へと踏み込む。時間がまだ夕方前なのでネオンが灯っていることはないが、人の流れが多く目を回しそうだ。
「そういうわけにはいかないよ」
確かに服も靴も土や踏み潰した草の汁で汚れてしまったけれど、雲にはないこれらを決して嫌だとは思わない。
なにしろ空から地上の様子を窺えても、大火事や火山の噴火でもない限り、地上の匂いが雲の上まで届くことはない。
「ここは……」
「ごめんね、ここ近道なんだ」
歓楽街から一本横道に入ったら、そこは人がすれ違うのに苦労しそうな狭い飲食店の裏口が並ぶ細道。そこかしこにポリバケツやらゴミ箱が置いてあって狭い道はさらに狭くなっている。無論、それだけではない。鼻が曲がりそうなぐらいに臭い!
そこを抜けると、コンクリートで造られた人工の川があり、少し深いところで鯉が泳いでいた。空にいた時に見た魚は風で泳ぐこいのぼりだけだったけれど、本物をこんなに間近に見られるなんて感激。
「もう少しだからね」
私の足が鈍くなったのを感じ取ったのか、手を繋いで前を行く小野が振り返った。
そう言って連れて来られたのは、児童養護施設『あすなろ園』――ここも私は当然知っているけれど、それは空から見たからであり、地上を歩いていると方向感覚はまったくわからなかった。
「ここはね『あすなろ園』って言って、親がいなかったり、家庭に事情があって親と一緒に生活できない子供たちが一緒に暮らしている施設なんだよ」
知っている。ここに小野の好きな人がいることも。
重たい門を押し開くと、そこは幼稚園や保育園の園庭のような広場があり、小さいながらも遊具がある。
「君と同じぐらいの子たちがいるんだけれど、ここはね、僕が昔お世話になっていて、アルバイトが休みの日とかは来て、お手伝いさせてもらってるんだ」
私が小野を見つけた時からずっと小野はここでなにもかも似ていない子供や大人たちの中で血が繋がらない、名前も違う家族として生活していた。
「哲司にーちゃんだ!」
小野を慕う子供たちが駆け寄ってくる。
みんな見た目では私と同年代かそれ以下だ。
「遊ぶのはちょっと待ってな。お客さんがいるから」
「お客さんって哲司にーちゃんの彼女か?」
子供たちがゲラゲラ笑っているが、これは人間も空人もほとんど変わらないようだ。
「違うよ。転んで汚れちゃったんだ。未柚さんいるー?」
「はい、なあに? あら、哲司くん、おかえり」
糸が解れ、色あせたエプロンを身に纏った、大学生の小野よりも一回り以上年上のちょっとふくよかな女。安藤未柚。
小さな頃からこの施設で世話になっていた小野だが、いつの間にかここを卒園した安藤もここに戻ってきて住み込みで働くようになっていた。
小野は高校を卒業した後は、奨学金をもらって大学受験をし、今はアルバイトをしながら必死になにかの資格を取ろうとがんばっているが、私はそこまでは調べていない。
「ただいま。実はこの子、いつもの公園で会ったんだけど、転んで泥だらけなんだ。どうにかならないかな?」
「わかった。いらっしゃい」
安藤が私のことを手招きしてくれるが、私は人間の目には十歳に見えるかもしれないけれど、人間年齢では百歳で、遥かに優れた知識を有している。
建物の中はどこもボロボロだったけれど、どこか温もりを感じられた。
「ここお風呂だけど、一人で平気?」
この世界、特に日本での十歳といえば芸能活動で仕事をしていてもおかしくない年齢で、風呂なども一人で入るものであることぐらい知っている。
「はい」
人間の世界のシャワーは使ったことはないけれど、仕組みは知っている。翼が濡れると乾くまで重たくなって飛べないけれど、今は翼は出していないから問題ない。
シャワーの仕組みは空と変わらないが、水圧や水量は、雲から水分を絞って汲み上げて使うのと違って肌に当たる感覚がくすぐったい。でも、一番の驚きはシャンプーとボディソープの甘い香りだろうか。
泡立ててしまえば、まるで私たちが日頃から口にしている雲にも似ている。
体に纏った泡の塊を両手で集めて、じっと見つめれば口に含みたくなる衝動に駆られる。
「湯加減大丈夫?」
「はい」
外から安藤に声をかけられて我に返る。
それにしても初めての地上は甘美な誘惑でいっぱいだ。
大人の空人になればほとんど自由に地上にやってくることができるけれど、今の状態でここにいる――わざわざ実体を取って、恋人未満の相手をくっつける作業を最終試験に指定されているのは、先輩たちがそうであるようにある程度人間同士でくっついている人の背中を押すことしかしていないからだ。
しかし私たちのハートの矢には指定した男と女をくっつける能力があることは事実。
「着替え、ここに置いておくわね。あなたのは洗濯して乾燥機かければすぐに着られるようになるから」
「ありがとうございます」
ドア一枚を隔てて交わされる会話の相手は、私のターゲットである小野とくっつけるべき相手の安藤。
もういっそこのまま矢を刺してしまえば、二人は両思いになれるという確信は、二人を見ていればある。
「あの、変なこと聞きますけど、安藤さんは小野さんのこと好きですか?」
「あら、どうして?」
「そんな気がしたからです」
嘘。本当はずっと昔から二人を見ていて知っていたから。
二人は一時は家族のように一緒に暮らしていたけれど、二人の間にはそれ以上の思いがあるのを人間の時間で十年近くずっと観察していれば嫌でもわかる。
「そうね。好きか嫌いかなら好きよ。でも、小野くんにはそんな気ないんじゃないかしら。二十歳の小野くんにとって一回り以上年上の私なんてもう口うるさいおばさんよね」
ふふ、と安藤は優しく笑った。
「そんなことないと思います」
私なんて地上の人間の年齢で数えれば百歳を超えているのに、空人の中では子供扱い。
「お世辞なんていいのよ。小野くんには小野くんの人生を生きてほしいし、ちゃんとした人と結婚してほしい」
「好きなのにですか?」
「好きな人には苦労してほしくないと思うのも大人の考えなのよ。って、なにあなたのような今日会ったばかりの子供に話しちゃってるんだろうね。ごめんね、変なこと話して」
「いえ、勉強になりました」
好きな人には苦労してほしくない、か。
もしかして私たち空人は、ただ目先にある「好き」という思いだけしか見ていないのではないだろうか。現に、私は小野と安藤の二人の心を確認したらハートの矢を刺してしまおうと考えていたし、実際問題最終試験はそれで合格できるのだ。
片思いの男を探し出して両思いにすること――だが、思いを伝えられない小野は立派な片思いだし、安藤もその思いを隠している。これでちゃんと成立しているので、ここで二人にハートの矢を刺せば、もしかしたらマリーナちゃんよりも早くに最終試験に合格できるかもしれない。
でも、それは本当に幸せなことなのだろうか。
風呂から上がり、用意されたよれよれの服に着替えると、小野と安藤、他にもおばあさんと学生服を着た背の高い女が台所に立って料理をしていた。
「サイズ、平気だった? ごめんね、そんなのしかなくて。あなたが着ていたような可愛い服はあまりないのよ」
「いえ、大丈夫です」
「一緒にご飯食べていく?」
野菜と包丁を手にした小野が微笑みかけてくれる。
「遠慮しておきます」
学生服を着て一緒に台所に立っているのがこの世界の高校生ぐらいで、あとは隣の部屋で八人の小中学生が夕飯の支度ができるまで、学校の宿題をしたり読書したりしている。
「確かに貧乏で騒がしいかもしれないけれど、子供が遠慮するもんじゃないんだよ」
白髪の髪を後ろで束ねて結った、ここの園長のおばあさんは目尻の皺を深くして笑いかけてくれたが、私は地上の食べ物を口にしたら空を飛ぶ翼を失ってしまい、二度と空へと帰れなくなってしまう。
「今日は帰らせてもらいます」
「じゃあ、ちょっと待ってね、まだ服は乾いてないけど、持って帰ってもらうから」
安藤は調理を他の人に任せて、床板がギシギシと音を立てる古い板の張られた廊下を走って、私の服を袋に入れてくれた。
「その服、いらなかったら捨てていいから」
「ありがとうございます。今日は帰ります。皆さんも、ありがとうございました」
自分が着ていた服を手にして、私は『あすなろ園』を後にして、人目がないのを確認してから背中の翼を広げた。
着ていた服の背中が、ビリッと音をさせて破けてしまった。
私たちが着ている服は、雲を素材に作っているため変形させることが可能であるが、人間の糸で編まれた服は大きく破けてしまった。咄嗟のことで、普段の調子で翼を広げてしまった。これではもう着ることはできない。
せっかくもらった服を破いてしまった罪悪感を感じる暇もなく、私は翼を広げて夕日が沈もうとしている空へと飛び立った。