その1
もしかしたら、空人というのはこの世には存在してはいけないのかもしれない――。
遠い遠い距離。
翼を持たずに地上に足をつけて生きる人間は、飛行機やヘリコプター、科学の力を持って空へと渡ってくるようになったけれど、あなたたちは決して私たちの元には留まれない。
また逆に、私たちもあなたたちの元へは留まれない。
それが種としての最大にして唯一の垣根。
でも、それでも私たちはあなたたち人間が空へとやってきて特別な時間を過ごすように、私たち空人も、地上に降りて特別な時間を限られた中で過ごすことを夢としている。
私たち空人には毎日楽しみにしていることがある。
それは雲の下の地上に住む、翼を持たない人間たちの営みを眺めることだ。
雲の上に住む私たちは、地上にあるほとんどの物を持たず、雲だけを持って生活をし、背中に生えた大きな翼を大切にして生きている。
地上は憧れの地であるが、そう簡単に近づいていいものではないと教えられている。
空人と人間は大きく違うのだから、私たちが向こうの生活圏の中に混じるのに知識がなければ混乱を招きかけないから。
「クラミニカさん、今日で何回目か思い出せましたか?」
両手と両足の指を全部数えれば二十本。二枚の翼を足せば二十二。
「はい、アンネロッテ先生。およそ二十二回です」
私に地上の知識を教えてくれるアンネロッテ先生はいつも優しい笑顔を浮かべているけれど、今日は不意に目元から涙を零した。
「いいえ、違いますよ」
泣きながら笑っている。
「堂々と鯖を読まないでくださいね。正確には四千三百六十五回目です。やっと……本当にやっと、今までの苦労が報われましたね」
アンネロッテ先生は泣きながら、震える手で私の手を力強く掴んだ。
「おめでとう、仮免合格です」
「本当ですか? もう私、ほとんど記憶と過去を抹消して生きていく所存だったんですけれど、やっとですか!」
「あとは卒業試験の実技を受けて合格すれば、あなたも他のみんなと同じ一人前、大人の空人になれますよ。本当にここまでよく諦めずに来ました」
一日に二回から三回、多いと五回もの仮免試験に挑戦して、その度に不合格の烙印を捺されていた私だけれど、ついに苦手な筆記試験に合格できた。
「もういっそ、これまでの成果から見て飛び級で免許皆伝で一子相伝の必殺技とか、特別な人間だけを見極められる目をください」
「仮免しかあげません」
私、他の人の四千三百六十五倍がんばったんだけどなぁ。
「明日、先日仮免を合格したマリーナさんと、三番クラウドにて最終試験を行います」
「はい!」
「返事だけは立派なのに、どうして頭と要領が悪いのでしょうかね」
アンネロッテ先生は不思議そうな顔をしているけれど、私自身、筆記は苦手だって意識はちゃんとある。
「その代わりと言ってはなんですけど、私は実技で実力を発揮するタイプです」
学校始まって以来、一番の問題児と言われている私だけれど、実技には自信があるし、勝算もある。机に向かって勉強やテストなんて私のタイプじゃないんだ。そうに決まっている。
「その根拠は?」
「きっと上手くやります!」
「そうですよね。先生心配になりました。あなたは、さも当たり前のようにルールを犯して実践経験をしたかのように言っていましたが、本当に初めてですよね?」
「当然です! 見たことしかありませんが、あれなら問題ありません!」
「まあ、やる気なのはいいことです」
翌日の朝、私は珍しく一人で起きた。
「お母さん、おはよう!」
「……今日は槍が降るわね。鉄の傘を用意しなきゃ」
「お母さんったら朝から面白いんだからー。ここは雲の上なんだから雨なんて降るわけないじゃん」
「そういうことを言っているのではないのだけれど……クラミニカにはちょっと難しい例えだったわね。ルールに縛られないのがあなたのいいところだけれどね」
「ルールなんて破るためにあるものだって、マリーナちゃんが言ってたよ」
「あの子はそう言っても、あなたと違って仮免は一発合格したじゃない」
はあ、とお母さんはアンネロッテ先生みたいに泣くわけじゃなく、ため息を吐いた。
「クラミニカ、あなたは他の子にはない優しさを持ったすごくいい子よ。でもね、それが仇となることもあるの。わかる?」
「頭ではわかってるけど、心ではわからないよ。でも、ちゃんと理解はした」
「本当に心配ね。でも、あなたは昔の私に似てすごく可愛い。見た目だけなら、空人としての仕事をする上では最適」
お母さんは昔は可愛かったと言うけれど、今もそんなに私と見た目が変わらない。若作りが上手なのではなく、私たち空人は、地上で生きる人間たちと同じ時間で生きていても、寿命や成長速度が全然違う。
翼を持たずに地上で生きる人間たちの寿命はおよそ六十年から八十年だけれど、私たちはその十倍を生きる。つまり地上の人間の十分の一の成長速度であり、ここで十歳の私は、地上では百歳。でも、まだ子供。
地上の人間との成長速度の差は食べ物や気候の違いかもしれませんね、なんてアンネロッテ先生は言っていたけれど、私は背中に生えた翼も関係しているんじゃないかって思っている。これがないとここでの生活はまず成り立たない。どこに行くにも飛ばなきゃならないし、翼があるせいか人間と同じ姿をしていても動物と自由に話すことが出来る反面、ここでの生活は悪いこともある。
お母さんが朝食の用意をしてくれる背中を見ていると、突如窓が震えた。
「ちゃんと踏ん張りなさいね」
私も百年生きていれば、こんな日常茶飯事のことなどで驚きはせず、素早くテーブルの下に隠れる。
ゴゴゴゴゴゴ、と嵐のような音をさせて、突風を巻き起こして通り過ぎる飛行機だ。
私たちの住む雲は基本的に風に委ねて空をたゆたっているため、飛行機の通らないところで固定なんていうのは出来ないし、聞くところによると地上に生きる人間が空を自由に行き来する飛行機やヘリコプターというものを発明して、私たちの住む世界を侵犯し始めた頃から語られ教えられていることだけれど翼のない人間に、私たちは見えない。
逆に、翼を持つ私たちが地上に降りて翼を消せば向こうからは見えるのだ。そんな怖い実験をした空人が過去にいて、その功績を称えてなのか、仮免後の最終試験は、地上に降りて翼を消して地上の人間に混じって、あることをする。それに合格すれば私もみんなと同じ一人前、大人の空人になれる。
飛行機が通り過ぎると、いつもの日常が戻ってきて、私は甘いピンク色の雲をかけた、青い雲を食べる。もふもふして、ふわふわして、口の中で溶けると水分が多分に含まれた雲はお腹を満たすだけでなく喉をも潤してくれる。地上には雲がない。私たちは雲以外の物を食べてはいけないという決まりがあり、それを一口でも口にしてしまえば、永遠に空を舞うことができなくなると言われている。
「ごちそうさまでした。お母さん、私、地上に行くね」
「試験内容の詳しいことはアンネロッテ先生に教えられることになるだろうけど、クラミニカだけでなく、私やあなたの先輩たちもみんな受けて、全員が合格したものよ。だから大丈夫。どれだけ時間がかかっても――私が生きてる間に合格してくれれば」
「うん! 大丈夫! 一回で受かるよ!」
「その自信はどこから出て来るんだか……」
お母さんはため息を吐いてから笑った。
「いってらっしゃい」
「いってきます!」
お母さんの元をこれから少しの間、離れて暮らさなければならないけれど、生まれてから百年は一緒に暮らしているのだから、今日の日の一人立ちに涙なんていらない。
この最終試験が終わった頃には、私は大きく成長して、やっと一人前の大人の空人になっているのだから。
三番クラウドは今日も白かった。
たまに雲に不純物が混じると黒く淀み、地上に雨粒や季節によっては雪を降らす。雲の上にいる私たちには直接の関係がないのだけれど、雨が降ると湿度が高くなって翼が動かし難いのだ。
「よく来れたものね、クラミニカ!」
「マリーナちゃん、おはよう」
「あ、おはようじゃなくて、よく来ましたね、クラミニカ!」
マリーナちゃんは腰に手を当てて翼を目一杯広げて威嚇するかのようなポーズ。
マリーナちゃんの翼はマリーナちゃんのお母さんと一緒で内側の翼に薄いピンクが混じっていて可愛い。私のような真っ白とは違うから、ちょっとした憧れ。
「だってアンネロッテ先生の筆記試験クリアしたから、今日から実技だもん。これを合格すれば大人の空人の仲間入りだよ」
「あなたに空人として仕事なんて勤まるのかしらね!」
「ええ、できるよー」
「だからあなたのその自信と根拠はどこから出てきますの?」
マリーナちゃんの背後では今日も朝から先輩たちが仕事をしている姿が見える。
「わあ、みんなすごーい」
「人の話を最後まで聞きなってちょっと置いていかないでよー」
三番クラウドは広くて、人がたくさん集まり、雲の層も厚いことから、ここは仕事場ということになっていて、私が散々受けていた筆記試験を合格した後、これから私とマリーナちゃんが挑む実技試験を合格した人だけが、ここで仕事を許される特別な場所。
でも、私もマリーナちゃんも幼い頃からここに入り浸って、こっそり飛行機を間近で見たり、地上に首を伸ばして覗き込んだりして、地上に住む人間たちを眺めていた。
「私たちの先輩だね」
みんなで揃って雲の切れ間に足を投げ出して地上を眺めている。その手には弓とハートの矢があるけれど、今はまだ下見中。
「おいおいおい、イケメンがブスとくっつくなよ。はい、あんたたちは破局決定」
「リア充は死ねばいい」
「あー、私の担当の男は気が多くて困る。どれを本命にしよう」
「あ、私の担当の男の子、交通事故で死んだ。どうしよう」
みんな思い思い、地上の人間を眺めながら楽しそうに話している。
「地上の人間の恋愛適齢期って短すぎるのよね。それなのにオヤジ趣味の女とかいるから私たちの仕事が減らないんだけどさ」
「ああー、そうそう。そういうのわかり難いのよね」
「私のターゲットの男、恋に落ちたから、矢を刺してくるね」
「ミスるなよー」
げらげら、と少女たちは下品に笑って、弓とハートの矢を手にした少女が雲の下に落ちていくのを見送る。落ちた少女は翼を大きく広げて一度大空を優雅に舞ってから地上に直滑降してすぐに見えなくなる。
「クラミニカさん、マリーナさん、おはようございます。今日も雲の上も下もいい天気で試験日和ですね」
私たちの背後からアンネロッテ先生が、新品の二組の弓矢を手にして現れた。
「ねえ、クラミニカ、あれ私たちのだよ」
マリーナちゃんは変な顔をして笑っているけれど、私も気が逸ってしまう。お母さんや、今目の前で仕事をしている先輩たちが持つように年季の入ったものではなく、まだ綺麗な新品。これを自分の手に馴染むように使いこなしてこそ一人前。
「おはようございます、アンネロッテ先生」
私が挨拶をすると、マリーナちゃんも慌てて頭を下げた。
「はい。二人も先輩やお母さんから聞いて知っているかもしれませんが、仮免を与えられたあなたたちは一人前になるための最終試験を受けてもらいます。マリーナさんは事前にたくさん勉強をしていましたね」
「はい。どっかのクラミニカが全然合格しないので、ずっと最終試験を待ってました」
「私を待たないでマリーナちゃん、先に試験受けて合格しちゃえばよかったのに」
「そ、それは……」
マリーナちゃんが唇を尖らせた。
「仲が良いのはいいことです」
「マリーナちゃんと私は仲良しだもんね」
手を伸ばして繋げば、ふん、って鼻を鳴らしてそっぽを向くけれど、マリーナちゃんから解くことは絶対にしない。
「さて、これからの最終試験は一人で行うことになります。内容はわかっていると思いますが、マリーナさん、説明できますか?」
「はい。私たちが大人の空人となる最終試験は、地上に降りて、地上に住む翼を持たない人間たちの生活に溶け込み、恋に奥手の男性の恋愛を助け、それを見事成就させる――です」
「そうですね。よく勉強していますね。クラミニカさん、他には?」
「は、はい。えっと……間違えちゃいけないです!」
「そうですね。このハートの矢とそれを放つ弓には、特別な力がありますから、感情が定まらない、曖昧な気持ちを持つ相手に対して、気持ちを試すようなことなどをして、決して悪用しないようにしてください。取り返しがつかないことになります」
「はい」
恋をしていない男の人、恋に奥手の男の人、恋に悩んでいる男の人の背中を押すのが私たちの役目。
両思いの人じゃダメで、片思いをしているか、恋すらしていない人を見つけて、両思いとなった女の人とくっつけて恋人にするまでが、私たち、翼を持つ空人の役目。
なんで、って聞かれるとわからないけれど、大昔からそれがあって、私たちよりも大きく劣る人間を仕方ないからサポートするのが翼を持つ空人の役目にして遊戯。
でも、他にもあるみたいなんだけど……そこはアンネロッテ先生も教えてくれなかった。
マリーナちゃんと地上の人間の恋愛を見て知っているのだけれど、私たち翼を持つ空人には地上の人間で言うところの男が一人もいない。もしかしたら他の雲にいるのかもしれないけれど私は会ったことがない。雲の上から地上を見下ろしてしか男の人を見たことがない。それはマリーナちゃんも同じ。
「では、説明はもう不要ですね。アドバイスとして、あなたたちにとって一人前の空人になれるかの試験です。失敗もあるかもしれませんが、これは試験であると同時に、慣れることと見極めることが大事です。片思い中の男を見つけて、どんな方法ででもくっつけて、戻ってくれば合格です。例え、交際一日で別れたとしても、両思いになれば合格です」
慣れることと、見極めること。
私たちはずっと地上に憧れを抱いていた。
大人たちはみんな、地上を歩く人間が私たち、翼を持つ空人に比べれば遥かに劣ると言うけれど、それでも地上には空にはない楽しいことはたくさんある。
「いってらっしゃい。なにも試験が終わるまで帰ってきてはいけないということはありませんから、お腹が空いたら帰ってきなさい。決して、地上の食べ物を口にしてはいけませんよ。空を飛ぶことができなくなってしまいますからね。あ、あと、地上では翼を出せば人の目には映りませんから、それから他には……」
アンネロッテ先生はいざ出発って時になって、慌しく早口で捲くし立てている。
それを先輩たちが笑って見ている。
「アンネロッテ先生、すごく心配してくれてるね。私たちそんなに子供じゃないのに」
マリーナちゃんが耳打ちしてくる。
「ああ、マリーナさんは大丈夫だと思うけれど、クラミニカさんは本当に心配だわ」
私の筆記試験は今までの歴史にないぐらいの酷さで、大人の空人にはなれないんじゃないかって言われていたけれど、そんなことないって証明してやる。
「大丈夫です、いってきます!」
私はアンネロッテ先生から弓矢一式を受け取って元気に走って、雲の下へとジャンプした。
「あ、こら抜け駆けは卑怯よ! じゃあ、アンネロッテ先生、いってきます」
マリーナちゃんも弓矢を持って強風を顔面で浴びながら必死の形相で追いかけてくる。
「地上だー。あんなに近くにある!」
雲の上にいては感じられない空気の濃さに固い地面の感触に、当たり前のように地べたを歩き回る翼を持たない人間や草木の匂いが眼前に迫る。
「楽しみ!」