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桃太郎 四

掲載日:2011/02/02

 荒れ果てた町がある。どうどうと降りしきる泥臭い雨が虐げられた人の苦しみ悲しみを体現しているようだ。屋根屋根には、梁が突き出していたり、何か強い力で圧迫された跡がある。一つの空き家の前で、飢えた野良犬が臭い雨に撃たれていた。この荒涼とした町に何の疑問も与えずそぐう彼は、犬としては真に稀有なことに、人の言葉を話すことができた。それは、彼がかつて人の形をしていたからに他ならない。なぜ彼は人から畜生へ変わってしまったか。それは、鬼のせいである。


 鬼ヶ島へ奴隷として連れて行かれた彼は、まず朱色をした液体の充満した入れ物に入れられた。そして、次に気がついたのは、犬としての生を受けた後であった。本当に唐突なことである。彼はオシマイだ、と最初に思った。とはいえ元来一般人間より少なからず劣った暮らしを送っていた彼ではあった。しかし、畜生の身となるとなっては今までの扱いとは天と地ほどわけが違った。人間の形をしていればまだ少なくとも人から弔いや死後を祈ってくれる望みがある。しかし、畜生の身となってしまえばいつ不条理な事態に陥り、川へ自らの淡い望みごと突き落とされるか知れない。これを思うと、精神を安定させることも困難である。彼は犬に変化させられて以降、与えられたというより放りこまれた檻の中で夜通し泣きわめいた。唾液を四方に吐き散らしながら格子に噛み付き、不快音を鬼ヶ島第二研究棟中に轟かせた。彼は全てに絶望した。犬の体は人間の持つ喜怒哀楽を表現することが容易ではない。日毎に人としての自我が消え行く心持ちがした。彼の他にも人の尊厳を奪われた同士はいた。彼らは鷲であったり、狐であったりした。絶望の果てにやけになった彼は同士と対話を試みようとしたが、帰ってくる返事は、ああ、とか、お終いだ、といった消極的な返事だった。皆次第に自我を失っていく過程で生きることに絶望していた。それを見た彼は、何故か、いや、彼の本質でもあったのかもしれない、俄然生きる希望が湧いてきたのである。彼は他のものが絶望している状況を見ると俄然やる気を出す一種の天邪鬼のような気質の持ち主であった。また、他のものの絶望を見ると心が休まった。生きねば、と思い、そして他のものも生きなければならないを思った彼は絶望一色に支配されていた暗くよどんだ空間の中で、激を飛ばした。

「お前ら、俺達はこんななりでも人間だ。人として生きなければならない。そのためには此処を抜けださねばならない。さあどうする。ここで絶望のまま死ぬか、否か。俺は断じて否だ。必ず人の世界に戻る。そして、人の姿を取り戻す」

 彼は腹の中から渾身の力をもってそう宣言した。宣言するとますます彼の中で生への欲求が高められた。しかし、他のものは彼の言葉を聞いてはいたものの、聞かぬふりをして不貞寝をした。人間性を既に失ってしまったものが雄叫びを上げるたびに、人としての生還への希望が薄れていったのである。しかし、彼だけはめげなかった。ひたすら、人として生き続けるためにそのために叫び続けた。


「おい、そこの犬」 

ある夜、至近で声がした。その声の主は隣の檻にいる虎であった。

「なんだ」

彼は、嘲笑されると思った。彼の必至の叫びはよく嘲笑されていた。

「いつもご苦労なことだ。無駄なことだと分かっていながらよく抗えていられるものだ」

「無駄なこととは考えていない。俺は人として生きたく思ったから、俺を見失いたくないから叫び続けているんだ」

「おうおう、お前も俺と同じ奴隷のくせしてえらく達観したような口の聞き方だことだ…。しかし、俺も感謝しなくてはいけないな。お前の声を聞いていると本当に帰られる心持ちになる。だから俺は今まで人間性を保っていられたのかも知れない。ありがとう」

「礼を言われるほど大したことはしていない」

「しかし、夜に叫ばれると寝られやしない、ここは眠ろうや」

「ああ」 犬の彼は、そっけない返事をしつつも内心嬉しかった。彼の叫びは役立っていると実感できたのである。畜生の体となって初めて心の平穏を取り戻した気になった。

 

 ある時、事件は起こった。けたたましいサイレンが響き渡ったかと思うと、瞬く間に研究員たちが、彼のいた暗い倉庫に流入して、彼らの檻を外へ運びだしたのだ。起こったのは火事であった。研究棟は紅に燃え盛っていた。それは炎が地獄から吹き出したかのように凄まじかった。建物からそれほど離れていないため、火の粉が鼻にかかって熱い。そこへ人の悲鳴が響いた。

 左腕を檻に引きずり込まれている研究者があげた悲鳴であった。左腕の所在は虎の檻の中だった。虎は一心不乱に左腕を噛みちぎろうとしている。犬の彼は、とうとう彼も自分を見失ってしまったのかと思った。これで自分は動物に変化した者のうちで一人、人間性を保っているのだと思うと、とたんに無気力になった。彼の気質のためである。再び叫び声があった。その声の主は虎であった。

「俺をこの檻から出さないと、お前の腕を食いちぎるぞ」 虎は吠えるように叫んだ。

「わかった、わかったから離してくれ」 研究者は泣きわめいた。あまりの痛さに失禁していた。研究者はポケットから鍵を慌てた手つきで抜き出し、檻を開いた。

まんまと脱出することに成功した虎は嗅覚で隣人の犬を探した。あまり離れていないところに犬の姿はあった。虎は犬の自分のより一回り小さな檻の格子をくわえると、潮の匂いがする方へ走りだした。




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