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「これは泥水ですね」と切り捨てた交易監査官が、翌朝こっそり二杯目を買いに来ました~コーヒーのない異世界で、最初の一杯を売るまで~

作者: 他力本願寺
掲載日:2026/08/07

「これは、泥水ですね」


 銀縁の眼鏡の奥で、氷のように冷たい青い瞳が私を射抜いていた。


 端正な顔立ちに一切の感情を乗せず、交易院の監査官であるレオナール・ヴァレリーは、私が差し出した小ぶりのカップを盆にコトリと戻した。


(泥水……泥水って言った、今!?)


 私は八歳の時に前世の記憶を取り戻してから、この異世界には存在しない至高の飲み物を、十五年間も探し続けてきた。毎朝の目覚めを彩り、湯気とともに立ち上る香ばしい苦味で心を満たしてくれたあの黒い液体。コーヒー。


 ようやく見つけた希望の欠片を、この男はあろうことか「泥水」と切り捨てたのだ。


 時間を少しだけ戻す。事の発端は、数分前にさかのぼる。


 王都と南方をつなぐこの交易都市ルヴェールは、常に様々な物資が行き交っている。紅茶や薬草茶、香辛料が並ぶ私の実家、薬種商『アルノー商店』もまた、南方の商隊から荷下ろしを行っていた。


 乾いた草とスパイスの香りが入り混じる中、私は『火鳥の実』と呼ばれる赤い果実の袋を検品していた。ふと、その袋の底に、見慣れない薄緑色の種がごっそりと固まっているのを見つけたのだ。


(これ、まさか……!)


 一目見た瞬間、心臓が大きく跳ねた。前世の私は、毎朝コーヒーを飲むごく普通の会社員だった。豆の種類や適切な焙煎温度、抽出の化学的なメカニズムといった専門知識はない。手網で生豆をシャカシャカと焙煎してみた経験も、面白半分で数回やった程度だ。


 だが、この形、この色。そして何より、私の直感が告げていた。間違いない、これはコーヒー豆(に相当する種)だ。


 興奮のあまり、私は店の裏手にある厨房へ駆け込んだ。


 コーヒーは種を乾燥させ、焙煎して、挽いた粉に湯を通す。牛乳や砂糖と合わせることもある。知識としてはそれだけだ。乾燥はすでにされているようだったから、あとは火を通せばいい。


 私は手近にあった浅い鉄鍋に種を放り込み、強火で勢いよく炒り始めた。


「いける、いけるわ……! これで十五年越しの夢が叶う!」


 しかし、素人の浅知恵はすぐに悲劇を呼んだ。


 パチパチと種が弾ける音がしたかと思うと、表面が急激に黒ずみ、瞬く間に猛烈な煙が上がり始めたのだ。


「げっほ、ごほっ! け、煙っ!」


 焦げ臭い白煙が厨房を満たし、窓から外へと噴き出していく。


「火事か!?」


 裏口から真っ先に飛び込んできたのは、大手紅茶商会『金葉商会』の番頭、バスティアンだった。恰幅の良い彼は、ハンカチで口元を押さえながら煙の中で目を細めた。


「なんだミレイユ嬢、お前さんか! 一体何を燃やしているんだ!」


「も、燃やしてません! ちょっとあぶっているだけで……っ!」


「あぶる!? これのどこがだ!」


 バスティアンの視線が、鍋の中で黒焦げになった種に向けられる。


「……やはりな。先ほどの共同荷下ろしの際、荷札を確認して気になっていたんだ。アルノー商店の積み荷の中に、未登録の種子が大量に紛れ込んでいるとな」


 彼は悪人ではない。ただ、商人として極めて真っ当で、競争相手の動向に抜け目がないだけだ。


 彼が誰かに指示を出した数分後、騒ぎを聞きつけた交易院の監査官が足早に姿を現した。それが、レオナールだった。


「状況を説明していただけますか、ミレイユ・アルノーさん」


 黒い外套を羽織ったレオナールは、煙たがる素振りすら見せずに手元の帳面を開いた。


「未登録輸入品の不正加工、あるいは危険物の取り扱いという通報を受けましたが」


「違います! これは、その……飲料の原料なんです!」


 私は焦って言い訳を口走った。


「飲み物になるんです。だから、今からお見せします!」


 私は鍋から真っ黒に焦げた種をすり鉢に移し、力任せにゴリゴリと砕いた。焦げ臭さが鼻を突く。粉の粗さなんて気にする余裕もない。砕いた粉をカップに入れ、そこへ熱湯を注ぎ、スプーンで直接かき混ぜた。


 透明だった湯が、どす黒く染まっていく。粉が表面に不気味に浮き、底にはヘドロのように沈殿する。


「どうぞ、監査官様。これが新しい飲み物です!」


 やけくそ気味に差し出したそれを、レオナールは表情一つ変えずに受け取った。


 そして、一口。


 ザラリとした粉っぽさと、ただ焦げただけの強烈な苦味が彼の舌を直撃したはずだ。


「これは、泥水ですね」


 こうして、十五年越しの希望は一口で切り捨てられた。


「未登録の種子を無断で加工し、さらには私に泥水を飲ませた。……アルノー商店は、交易院を軽んじていると判断してよろしいですね?」


「ち、違います! これは本来、もっとこう、すっきりと香ばしい飲み物で!」


「事実として、私の口の中には現在、不快な焦げ味と砂のような異物感が残っています」


 レオナールは懐から白いハンカチを取り出し、口元を拭った。苦いものが苦手らしい彼の眉間には、微かに皺が寄っている。


「三日後。星灯り祭の終了とともに、南方商隊はこの都市を発ちます」


 彼が帳面にペンを走らせる音が、やけに冷たく響いた。


「それまでに、この種子の正確な出所、現地での用途、飲用時の安全性、適切な提供量、そして何より――対価を支払ってこれを飲む客が存在すること。それらを証明してください」


「三日で、ですか……?」


「証明できなければ、未登録種子は全量廃棄。管理責任を問い、アルノー商店の南方からの輸入許可を一ヶ月間停止とします」


 一ヶ月の輸入停止。それは、多様な薬草や香辛料を扱ううちの店にとって、致命傷になりかねない処分だった。


「……なぜ、猶予をいただけるのですか? 今すぐ廃棄を命じることもできたはずです」


 私の問いに、レオナールは帳面をパタンと閉じた。


「私自身の査定も懸かっているからです。未知の交易品が新たな利益を生む可能性を、単なる火事騒ぎとして切り捨てるのは監査官の怠慢です。私は私の権限で、三日間の検証を許可します。販売の可否と条件は、その結果を見て判断します。正確な証明を期待していますよ」


 それだけ言い残し、彼は裏口から去っていった。バスティアンもまた、「手伝いはできんが、せいぜい頑張るんだな」と肩をすくめて店へ戻っていった。


 厨房に残されたのは、私と、焦げた匂いと、無惨な泥水だけ。


「ミレイユ」


 背後から、低い声が降ってきた。振り返ると、腕を組んだ父が立っていた。


 父は怒鳴ることも、勘当を言い渡すこともしなかった。ただ、実務を担う商人としての厳しい目で私を見た。


「お前一人の懐かしさのために、店員の暮らしまで賭けるな」


 その一言が、私の胸に深く突き刺さった。


 図星だった。


 私はただ、自分が前世のコーヒーを飲みたかっただけだ。十五年分の渇望を満たすためだけに、店の荷物に勝手に手を出し、騒ぎを起こし、監査官の心証を悪くした。


 私が欲しかったのは、私の記憶の中にある味だ。でも、それでは駄目なのだ。


(私が飲みたいものを作るんじゃない)


 泥水と評された真っ黒な液体を見つめる。


 父の店を守るため。そして、この種をただの廃棄物にしないため。


(誰かが代金を払う『商品』にしなければならない)


 私は固く拳を握りしめ、焦げた種が入った鍋を力強く睨みつけた。残された時間は、あと三日しかない。


 二日目の朝。私は交易院の監査官であるレオナールと共に、都市の南門外に広がる商隊の野営地を訪れていた。


 なぜ交易院の人間が同行しているのかと尋ねたところ、「証明までの過程を監視し、記録するためです。不正な契約を結ばれては困りますので」と、彼は手元の帳面を開いたまま淡々と答えた。


 昨日見つけた荷札の記録を頼りに天幕を訪ね歩き、私たちは目的の人物を見つけ出した。


「『火鳥の実』なら、うちの隊が扱っているよ」


 そう言って応じてくれたのは、日に焼けた肌を持つ南方の少女、サーラだった。彼女の足元には、昨日私が見つけたのと同じ、薄緑色の種が詰まった麻袋がいくつか置かれている。


「あの赤い実はね、とても甘いの。だから生のままおやつにしたり、砂糖で煮詰めたり、発酵させて強いお酒を造ったりするんだ」


 彼女の説明に、レオナールが静かにペンを走らせる。現地での用途、という項目の証明だ。


 私は麻袋の中身を指差して、身を乗り出した。


「果肉が重宝されているのはわかったわ。じゃあ、こっちの種はやっぱり『捨てる部分』なのね? 不要な廃棄物なら、うちの店で買い取らせてほしいのだけど」


 私がそう言うと、サーラは少しだけ不思議そうな顔をして、ゆっくりと首を横に振った。


「捨ててなんていないよ」


 彼女の静かな声が、朝の風に溶ける。


「この種はね、よく乾燥させてから薪に混ぜるの。そうすると火持ちがすごく良くなって、長く、暖かく燃え続けてくれるから。南方の冬を越すための、大切な燃料なんだよ」


 その言葉を聞いた瞬間、私は頭を思い切り殴られたような衝撃を受けた。


(私……なんという思い上がりを)


 私は心のどこかで、コーヒーという素晴らしい飲み物を知っている自分は、この世界の人間より進んでいるのだと思い込んでいた。彼らが本来の用途を知らず、無価値なゴミとして扱っているのだと勝手に決めつけていた。


 でも、現実は違った。彼らは彼らの生活の中で、あの実を余すところなく使い切り、命を繋ぐための知恵として大切にしていたのだ。自分の無知と傲慢さに気づき、顔が火のように熱くなる。


「……ごめんなさい、サーラさん。私が間違っていました。用途を知らない私が、勝手に無価値だと判断していました」


 深く頭を下げた私を、サーラは「気にしないで」と柔らかく笑って許してくれた。


 気を取り直し、私は商人としての交渉に入った。


「その大切な燃料を、少しだけ私に譲ってもらえませんか? 私はこれを、新しい飲み物にしたいんです。……燃料としてなら、銅貨数枚でこの一袋を」


 飲料としての価値がまだ証明されていない以上、燃料としての安価な相場で買い取れる。そう計算した私の言葉を、横からスッと差し出された手袋越しの手が遮った。


「お待ちを、ミレイユさん」


 レオナールだった。彼は眼鏡の位置を直し、私とサーラを交互に見た。


「現在、燃料としての適正価格で買い取るのは妥当です。しかし、あなたがこれに『飲料』としての新たな付加価値を見出そうとしている以上、その可能性を伏せたまま安値で買い叩くような契約は、交易院として認められません」


「買い叩くって……でも、まだ売れるかどうかも分からないのに」


「ええ。ですから、条件を付けます。今回の試作と試験販売に使う分は現在の相場で買い取り、三日後の試験販売で有償需要が確認された場合には、商隊へ杯数に応じた追加金を支払う。……これでいかがですか?」


 サーラは目を丸くした後、嬉しそうに頷いた。


 荷馬車にはまだ種の在庫があった。しかし、サーラによれば、星灯り祭の終了後に彼らは出発してしまう。


 在庫自体は十分でも、私一人が三日間で手作業により状態のよい種を選別し、薄皮を剥き、焙煎して粉にできる量は、せいぜい数十杯分が限界だろう。焦っている暇はない。


 帰り道、前を歩くレオナールの広い背中を見つめた。


 彼が先ほど提示した条件。あれは単に私を厳しく取り締まったのではない。産地との間に遺恨を残さず、アルノー商店が今後も安定してあの種を仕入れられるよう、継続的な取引の道筋を作ってくれたのだ。


 冷徹な監査官だと思っていた。だが彼は、私の無謀な挑戦をただ潰そうとしているのではない。これを、誰もが納得する『真っ当な商売』に整えようとしてくれている。


 その実直さに、私は少しだけ彼を見る目を改めざるを得なかった。


 店に戻ると、私は早速試作に取り掛かった。


 厨房のテーブルには、サーラから買い取った種――生豆が置かれている。向かいの席では、レオナールが羽ペンを持ち、真新しい帳面を開いて待機していた。


 第一の試作。昨日の火事騒ぎの反省から、私は極端に火を弱くした。


 薄緑色の豆がうっすらと黄色づいたところで火から下ろし、すり鉢で挽く。それを鍋で煮出してみたのだが……立ち上る湯気はひどく青臭かった。


 無言でカップを受け取ったレオナールは、一口飲んで静かにカップを置いた。


【第一回試飲記録】


 外観:薄茶色の泥水。


 香り:雨の日の雑草。


 味覚:強烈な酸味と生臭さが鼻に抜け、飲料として不適格。


 評価:完全なる廃棄対象。


 短く、冷静で、容赦のない客観評価だった。


「……次! 次いきます!」


 私はすりこぎを握り直し、第二の試作に挑んだ。


 加熱が足りないなら、もっと強くすればいい。私は鉄鍋を強火にかけ、勢いよく豆をあぶった。


「今度こそいけます! 今度こそ絶対に美味しいですから!」


 そう叫んだ直後だった。


 パァンッ! と弾ける甲高い音とともに、加熱されすぎた豆が鍋から勢いよく飛び出した。


「ひゃあっ!?」


 弾け飛んだ豆が厨房の壁に当たり、次々と白煙が上がり始める。


「今度こそ、とはどの口が言うのですか」


 煙の中でむせる私を尻目に、レオナールはハンカチで口元を押さえながら呆れたような声を上げた。


 どうにか火から下ろし、黒焦げ一歩手前の豆を挽いて煮出す。味は推して知るべしだった。


【第二回試飲記録】


 外観:黒い泥水。


 提供者の「今度こそ」という発言回数:四回。


 味覚:舌を刺す焦げ味。嚥下までに要した時間、約十二秒。


 評価:罪人への罰則用としてなら検討の余地あり。


「罰則って……そこまで言わなくても!」


「事実を記録したまでです。飲み込むのに並の毒薬以上の覚悟が必要でした」


 冷たい声で返され、私はぐっと唇を噛んだ。


(落ち着け、私。適当にやってできるわけがないんだ)


 深呼吸をして、第三の試作に向かう。今度は最も慎重に。


 火加減を中火に保ち、鍋を絶え間なく振り続ける。豆の色が薄緑から黄色へ、そして美しい茶褐色へと変わっていく。パチ、パチ、と心地よい音が鳴り、豆の表面に微かな油分が浮き出て艶を帯びた。青臭さは消え、香ばしく甘い香りが厨房を満たし始める。


(いい匂い……!)


 手応えを感じながら、粗熱を取った豆をすり鉢で丁寧に挽く。


 しかし、粉をそのまま湯で煮出してみると、やはり底に粉が溜まってドロドロとした舌触りになってしまった。


(分かっていたはずなのに、焦って煮出してしまった。必要なのは、粉を飲ませずに湯だけを通す道具だ)


 私は戸棚から、薬草の成分を抽出する際に使う漏斗と、きめの細かい清潔な細布を取り出した。カップに漏斗を乗せ、細布を敷いてから、挽きたての粉を入れる。


 そこへ、少しずつ熱湯を注いだ。


 粉がふんわりとドーム状に膨らみ、細布を透過した液体が、澄んだ琥珀色の滴となってカップへ落ちていく。泥水ではない。これこそが、私の知る『コーヒー』の姿だった。


 仕上げに、甘党の彼でも飲めるよう、温めた牛乳とたっぷりの蜂蜜を加えてかき混ぜる。


「……お待たせしました。これが、今の私の全力です」


 差し出されたカップを、レオナールは少しだけ警戒するように見つめ、やがて口へ運んだ。


 喉が動く。今度は十二秒もかからなかった。


【第三回試飲記録】


 外観:濁りのない茶褐色。


 香り:香ばしく、特異な誘引力がある。


 味覚:乳と蜂蜜により苦味が抑えられ、喉越しも滑らか。


 評価:飲料としての成立を確認。継続試験の余地あり。


「……やりました!」


 思わずガッツポーズをした私を見て、レオナールは小さく息を吐き、「試験の第一段階を突破したに過ぎませんよ」と呟いた。


 ――そして、三日目の朝。


 早朝の店先に現れたレオナールを見て、私は思わず目を見開いた。


 交易院の制服は塵一つなく整えられ、髪も隙なく撫でつけられている。だが、眼鏡の奥の青い瞳の下には、はっきりと濃い隈が刻まれていた。顔色も青白い。


「監査官様……? もしかして、具合が悪いんですか?」


「……一睡も、できませんでした」


 抑揚のない声で、彼は言った。


「昨夜、あなたとの試作を終えて宿に戻った後、全く眠気が訪れませんでした。疲労はしているのに、頭の中だけが異常なほど冴え渡り、朝まで無駄に書類整理をして過ごす羽目になりました」


「ええっ!?」


「かつて私の同僚が、過労による睡眠不足で数値を一桁誤り、有害な薬草を市場に流す事故を起こしました。正確な判断には、十分な休息が不可欠です」


 彼は厳しい目で私を見た。


「あの飲み物は、睡眠を重視する私の信条を根底から破壊しました。これは単なる嗜好品として扱うべきではなく、明確な作用を持つ飲料です」


 怒られる、と身構えた私に対し、彼は手元の帳面を広げた。


「ゆえに、私の失敗データに基づき、本日の試験販売における厳格な安全規則を設定します」


 ペン先でトントンと紙面を叩きながら、彼は淀みなく告げる。


「一つ、販売対象は成人の夜間作業者のみ。


 二つ、提供量は原則一人一杯まで。


 三つ、無料試飲であっても『一杯』と数え、二度目の提供は不可。


 四つ、体調異常が見られる者には提供しない。


 五つ、万能な眠気覚ましであると効果を誇張しないこと。……以上です」


 それは、私の商品を罰するものではなく、安全に世に出すための明確な『枠組み』だった。


「この条件を守れるなら、本日の『星灯り祭』における一晩限定の試験販売を許可します」


「はい……! 必ず守ります!」


 私は力強く頷いた。


 都市の結界を更新する星灯り祭。夜通し働く人々のための特別な夜が、今始まろうとしていた。


 星灯り祭の夜。ルヴェールの街は、無数のランタンが放つ暖かな光と、行き交う人々の熱気で昼間よりも明るく騒がしかった。都市全体を覆う結界を更新するという極めて重要な行事の裏では、警備兵や記録官、そして結界術師たちが徹夜の作業に追われている。


 私は大通りから少し外れた広場の一角に小さな屋台を構え、レオナールから言い渡された安全規則を記した立て看板を前面に掲げていた。


『成人の夜間作業者向け。原則一人一杯まで。無料試飲も一杯に数えます』


 決して万能な眠気覚ましだと誇張してはいけない。体調不良の者にも提供してはいけない。これらはすべて、過労による事故の恐ろしさを知るあの冷徹な監査官が、自らの身をもって得たデータから定めた、絶対に守るべき約束だった。


 私は最初、この素晴らしい飲み物を一人でも多くの人に知ってもらいたいと考え、通りを行き交う成人の夜間作業者を見つけるたび、職種も用途も考えずに声を張り上げていた。


「温かい飲み物はいかがですか! 新しい嗜好品、コーヒーです!」


 しかし、客の反応は冷ややかだった。屋台の前で足を止めて、興味本位で鍋の中を覗き込む人はいても、誰も買おうとはしない。


「なんだこの真っ黒な汁は。どう見ても苦そうじゃないか」


「何に使うものなのかも分からないのに、いつもの紅茶より高い値段設定だなんて」


「得体の知れないものに、貴重な銅貨は払えないよ」


 次々と通り過ぎていく人々を見送りながら、私は自分の愚かさに気がつき始めていた。


(……当然よね)


 彼らは、前世の私ではないのだ。私が十五年間も渇望し続けた記憶の中の味など、彼らにとっては知る由もない。見ず知らずの他人が、私の個人的な思い入れや懐かしさを初対面で共有してくれるはずがないのだ。私はまたしても、「自分が知っているのだから相手も分かるはずだ」という傲慢な思い込みを、無意識のうちに押し付けていた。


「やっと目が覚めたようだな、お嬢ちゃん」


 不意に横から声をかけられ、私はビクッと肩を跳ねさせた。見ると、大きな木箱を抱えた金葉商会の番頭、バスティアンが立っていた。


「バスティアンさん? どうしてここに」


「街道の崩落で到着が遅れていた『夜醒草』を、結界術師の休憩所へ納品しに行くところだ。例年通り、夜通し働く連中の眠気覚ましにな」


 彼は私の屋台を一瞥し、鼻で笑った。


「見た目も用途も分からん真っ黒な汁を、高い金を出して買う物好きは一般人にはいない。自分が客の立場ならどう思うか、少し考えれば分かることだ」


 私がたった今自覚したばかりの失敗の原因を、彼は容赦なく外側から突きつけてくる。


「別に、今夜お前さんがその屋台で数杯の奇妙な汁を売ること自体は構わんのだ。私が危惧しているのは、あくまで『前例』が作られることだからな」


「前例……ですか?」


「今は燃料や飼料として取引されている種が、正式な飲料の原料として認可されてみろ。将来、うちが扱っている夜醒草の緊急納入価格や、夜勤者向けの飲料市場の相場が大きく揺らぐ可能性がある。商人として、そんな不確定要素は見過ごせない。誰も金を払わないという結果に終わってくれるのが、一番丸く収まるんだよ」



「一般客への販売が不調なのは、需要と供給の対象が一致していないからです」


 冷たく澄んだ声が割り込んできた。いつの間にか屋台の傍らに立っていたレオナールだった。彼は手元の帳面を開き、羽ペンを走らせている。


「この飲料の最大の特性は、強力な覚醒作用にあります。ならば、それを今夜最も必要としている層へ対象を絞るべきです」


「最も必要としている層……徹夜で働く人たちですね」


「ええ。バスティアン氏が納品に向かう結界術師の休憩所に、あなたの屋台も移動させましょう。彼らなら、新しい眠気覚ましの価値を正しく判断できるはずです」


「おいおい、監査官殿。それではうちの商売と真っ向からぶつかるじゃないか」と呆れるバスティアンをよそに、レオナールはスラスラと試験販売の許可証を書き換え、販売場所の変更を正式に認可してくれた。


 私たちは広場の喧騒から少し離れた、結界術師たちの休憩所へと屋台を移した。


 すでに夜醒草を煮出した大鍋が青臭い湯気を立てており、疲労の色を濃くした術師たちが交代で休憩に訪れている。


 場所の移動を見届けたことで、レオナールの監査官としての立会義務は終了したはずだ。だが、彼は帰ろうとせず、少し離れた壁際に寄りかかったまま、静かに帳面を開き続けていた。


(……まだいる)


 私は一度だけ彼の姿を意識したが、今は目の前のことに集中しなければならない。


「新しい飲み物って、それのこと?」


 声をかけてきたのは、休憩にやってきた女性の結界術師だった。濃紺のローブを纏った彼女は、私の立て看板を見て興味深そうに目を細めている。


「はい。コーヒーという、夜間作業にぴったりの飲み物です。まずは無料試飲で一杯、いかがですか? ただし、無料試飲も規定の『一杯』に数えますので、今夜はもう提供できなくなりますが」


「へえ、厳しい規則があるのね。じゃあ、試しに一つもらおうかな。エマよ」


 エマと名乗った彼女に、私は慎重にコーヒーを淹れ始めた。


 薬草用の細布を漏斗に敷き、中煎りにした粉を入れる。熱湯を少しずつ注ぐと、粉がふんわりと膨らみ、香ばしい香りがふわりと立ち上る。細布を透過した琥珀色の液体がカップに落ちていく。


 エマはカップを受け取ると、黒い液体を一口含み、すぐに眉をひそめた。


「うわっ、苦い。ごめんなさい、私、こういう苦いだけのものはそのままじゃ飲めないわ」


「あ、でしたらこちらを!」


 私は慌てて、用意していた温かい牛乳と蜂蜜を差し出した。エマは躊躇なくそれらをたっぷりとカップに注ぎ込み、コーヒーの色が白っぽく変わるまでかき混ぜた。


 再度口をつけた彼女は、今度は小さく頷いた。


「うん、これなら飲めるわ。……特別美味しいってわけじゃないけど、夜醒草みたいに泥臭くないし、苦いけどお腹が温まる感じ。後味が重くないのもいいわね」


 彼女は絶賛したわけではなかった。あくまで実用的な感想を述べただけで、カップを空にすると「それじゃ、仕事に戻るわ」と足早に結界の維持へと戻っていった。


 残された私は、空になったカップを見つめて小さくため息をついた。


(やっぱり、駄目だったのかな……)


 エマは牛乳と蜂蜜の甘さで無理やり苦味をごまかして飲んだだけだ。彼女にとって、これはただの『少し変わった眠気覚まし』に過ぎない。


 私はまた、前世の思い出という名の独りよがりな幻想を、見知らぬ他人に押し付けてしまっただけなのかもしれない。誰も、この一杯に価値を見出して対価を払おうとはしない。バスティアンの言う通り、このまま誰も銅貨を出さずに夜が明けるのだ。


 薄暗い休憩所の隅で、私は自分の無力さに打ちひしがれていた。


 それから一定の時間が過ぎた頃だった。


 周囲の術師たちが次々と交代していく中、見覚えのある濃紺のローブが再び屋台の前に現れた。


「エマさん……?」


 彼女だった。仕事に戻ったはずの彼女が、少し急ぎ足で戻ってきたのだ。


 エマは無言のまま、屋台の板の上にカチャリと硬いものを置いた。


 それは、一枚の銅貨だった。


 縁の一部が三日月形に欠けており、術式に使う青いインクがべったりと付着している。使い込まれた、正真正銘の対価。


 私はその銅貨を見つめたまま、驚きで手を伸ばすこともできない。触れてはいけない気がして、板の上に置かれたそれにただ視線を釘付けにしていた。


「……仕事に戻った後、いつもより集中が途切れにくいことに気がついたの。頭の奥がすっきりと冴えて、術式の構築が格段に早くなったわ」


 エマは少し早口でそう言うと、私の目を見てはっきりと告げた。


「もう一杯、買わせてもらえるかしら。……今度は、牛乳と蜂蜜を少し減らして。あの苦味を、もう一度味わいたいから」


 板の上に置かれた青いインクの付いた銅貨が、ランタンの光を反射して微かに光っていた。


 カチャリという硬い音が、頭の中に焼き付いている。喉から手が出るほど欲しかった。私の十五年間が、初めて商品として認められた証だ。今すぐその銅貨を受け取って、彼女が望む最高の二杯目を淹れたい。


 けれど、私はぐっと拳を握りしめ、首を横に振った。


「……ごめんなさい、エマさん。お売りすることはできません」


「えっ?」


「看板にある通り、この試験販売では原則一人一杯までと決まっています。無料試飲もその『一杯』に数える規則になっているんです。だから、あなたに二杯目を出すことはできないんです」


 自分の心を削るような言葉だった。折角の売り上げを逃すのは商人として痛手だ。それでも、私はこの安全規則を遵守するとレオナールに誓ったのだ。自分自身の願望のために、彼が私のために作ってくれた枠組みを壊すことは絶対にできない。


 エマが残念そうに目を伏せ、板の上の銅貨に手を伸ばしかけた、その時だった。


「待ちなさい」


 壁際から進み出てきたレオナールが、開いたままの帳面を片手に屋台の前へ立った。


「監査官様……」


 彼は私を制し、エマへと向き直る。


「いくつか確認します。一杯目の試飲から現在までの経過時間は?」


「ええと、およそ二時間くらいかしら」


「一杯目の摂取量は? あなたの体格を見るに平均的な成人女性ですが、原液の割合はどの程度でしたか」


「牛乳と蜂蜜をたっぷり入れたから、黒い飲み物自体はカップの半分以下だったわ」


 レオナールは羽ペンを素早く動かしながら、さらに問いを重ねる。


「現在、動悸、めまい、吐き気などの生理的異常はありますか? また、結界術の仕事中の体調はどうでしたか」


「どれもないわ。むしろ頭の奥がすっきりして、いつもより集中できたし、体調はすごく良いのだけど」


 そこまで聞き終えると、レオナールは帳面に鋭く線を引いた。


「経過時間、一杯目の希釈具合、身体的異常の不在、および労働時の好影響を確認しました。……以上の条件から、通常の半量での提供に限り、二杯目の販売を特例として認可します」


「本当ですか!?」


「ただし」と、彼は私に厳しい視線を向けた。


「エマへの提供は、今夜これを最後とする。よろしいですね、ミレイユさん」


「はいっ! ありがとうございます!」


 私は深く頭を下げ、そして、板の上へ視線を落とした。


 縁が欠け、青いインクが付着した銅貨が、そこにある。


 先ほどの置かれた音とは別の拍を打つように、私はそっと手を伸ばし、指先でその冷たい金属に触れた。ゆっくりと、確かに、拾い上げる。


 手の中に銅貨の確かな重みを感じた瞬間、不意に視界が滲んだ。ポロポロと、大粒の涙が頬を伝って落ちていく。


「あ、あれ……? 私、なんで……」


 泣くつもりなんてなかったのに、涙が溢れて止まらなかった。


 私が泣いているのは、前世の記憶にあるコーヒーの味を異世界で完璧に再現できたからではない。


 この世界に生きる一人の客が、未知の飲み物を自分の口で味わい、考え、「もう少し苦味を残して飲みたい」と、自身の明確な好みを示してくれたからだ。


 私の過去の思い出が、目の前の誰かの『選べる日常』に変わった。私が本当に作りたかったのは、私の記憶を押し付けるものではなく、彼らが自分の意思で選んでくれる一杯だったのだ。


「ごめんなさい、すぐ淹れますね」


 私は袖で乱暴に涙を拭い、満面の笑みでコーヒーの準備に取り掛かった。


 エマの要望通り、牛乳と蜂蜜を先ほどより減らし、香ばしい苦味が引き立つように調整して半量のカップを差し出す。彼女はそれを受け取ると、ふうと息をついて口に運び、「うん、これよ。美味しいわ」と満足げに微笑んでくれた。


 そのやり取りを見ていたエマの同僚たちが、休憩所の奥から次々と屋台へやってきた。


「エマが自腹を切るなんて珍しいな。俺にも一杯くれ。金は払うから」


 彼らは無料試飲を求めることなく、最初から銀貨や銅貨を板の上へ置いていった。


 客の好みは様々だった。


「俺は牛乳を多めで頼む。甘いのは好きじゃないから蜂蜜はなしだ」と細かく注文する大柄な男性がいれば、そのままブラックで飲んでみて「苦っ! こりゃ俺の口には合わんな」と顔をしかめ、残りを牛乳で薄める若い術師もいた。あるいは、一口飲んでじっと考え込み、「不思議な味だが、悪くない」と静かに頷く年配の女性もいた。


 全員が絶賛するような魔法の薬ではない。万人に受ける味でもない。けれど、彼らは確実に、対価を払ってこの飲み物を自分なりに評価してくれていた。


 その後も、休憩に訪れた夜間作業者たちがぽつりぽつりと屋台を訪れ、そのたびに私は一人一人の要望に合わせた一杯を淹れ続けた。


 やがて、小さな手鍋の底が見えた。


「あ……」


 南方商隊から買い取った火鳥の種の在庫がすべて尽きたわけではない。ただ、私が今日の夜までに、限られた時間の中で手作業で選別し、焙煎して粉に挽いておいた分が、空になったのだ。


「申し訳ありません。焙煎済みの分が尽きてしまったので、本日の販売はここまでとなります」


 私がそう告げると、並びかけていた最後の術師は「なんだ、売り切れか。じゃあ明日もやってくれよ」とだけ言い残し、仕事へと戻っていった。


 私は空になった鍋を見つめ、それから、何枚もの硬貨が入ってずっしりと重くなった木箱に触れた。


『誰も金を払わない』。


 数時間前にバスティアンが下したその断言は、小さな屋台の中で、確かな重みとともに覆されていた。


 祭りが終わった翌朝。都市の空が薄紫色から白へと変わり始めた頃、私は冷たい朝の風が吹き抜ける屋台の裏で、小さな木箱の中身を数えていた。


 一晩かけて売り上げた銅貨や銀貨の束。しかし、試作で何度も黒焦げにした豆の代金、新調した漏斗や細布、それにたっぷり使った牛乳や蜂蜜の費用などを差し引けば、利益が出ているとは到底言えなかった。金額だけを見れば完全な赤字である。


 それでも、私の胸は今まで感じたことがないほどの熱い達成感で満たされていた。


 私は木箱の中から、縁が三日月形に欠け、青いインクがこびりついた一枚の銅貨だけをそっと取り出した。これは他の売上には混ぜない。私の十五年間の渇望が、初めて誰かに商品として認められた証だ。私はそれを小さな革袋へ分け、大切にしまうことにした。


 夜明けとともに都市を出発する南方商隊の野営地へ走り、私は荷車に乗り込もうとしていたサーラへ、約束していた追加の利益還元金を手渡した。


「ありがとう! こんなに早く追加がもらえるなんて思わなかった!」


 銀貨を受け取り、サーラは日に焼けた顔をほころばせた。


「次はね、燃料用にするものとは別に、状態のよい形のいい種だけを丁寧に選り分けて、特別に乾燥させておくね。また飲み物にするんでしょう?」


 彼女がコーヒーの種を「飲み物の原料」として扱ってくれる。その事実が、何よりも確かな前進だった。


 朝一番。私と父は、冷たい石造りの交易院の審査室に立っていた。


 長机の向こうには上級審査官が気難しそうな顔で座り、その傍らには制服姿のレオナールが、昨夜の試飲記録と販売実績、客の体調変化をまとめた分厚い書類を携えて立っている。


 張り詰めた沈黙の後、審査官の口が開かれた。


「報告書と実地データを確認した。……未登録種子『火鳥の実の種』の毒物指定は見送る。それに伴い、アルノー商店への南方輸入許可一ヶ月停止の処分も見送る」


 重々しい宣言に、私は深く安堵の息を吐いた。


「また、今後の少量の試験販売も許可する。ただし、販売対象は成人に限定し、一杯あたりの提供量を明確に表示すること。誇大な効能宣伝は固く禁じ、必ず原産地を表示すること」


 それはまさに、レオナールが昨夜の屋台で私に課した安全規則そのものだった。


 審査室の出口で、私たちを待っていたのはバスティアンだった。


「認可の前例ができた以上、うちも夜勤者向け飲料の相場変動に対応する準備をせねばならんな」


 彼は忌々しげに舌打ちをするでもなく、私を咎めるでもなく、ただ商人として新たな事実を受け入れて足早に去っていった。


 審査を終え、私と父は店へと戻った。


 本日のアルノー商店は、祭りの片づけと棚卸しのため臨時休業としている。


 父は帳場にどっかと座ると、私が提出した昨夜の販売帳簿にざっと目を通した。


「……経費や器具代を含めれば、見事な赤字だな」


「はい。ごめんなさい」


「だが、未知の商材で公的な販売許可と前例をもぎ取った。その結果がこれなら、安い投資だ」


 それだけ言うと、父は帳簿をパタンと閉じ、「あとは一人で片づけておけ」と実務的な一言だけを残して奥の倉庫へ向かった。


 昼前。休業の札を下げた薄暗い店内で、私は一人、背を向けて陳列棚の埃を払っていた。


 カチャリ。


 不意に、背後のカウンターで硬い金属が置かれる音がした。


(え? 今日は休みのはずじゃ……鍵、開いてたかな)


 振り返った私は、驚きのあまり手に持っていた布を落としそうになった。


 そこに立っていたのは、交易院の黒い外套でも制服でもなく、仕立ての良い落ち着いた紺色の私服に身を包んだ、レオナールだった。いつもの職務用帳面も持っておらず、部下の姿もない。


「監査官様……? どうしてここに」


「……少し、喉が渇きまして」


 平坦な声で言いながら、彼はカウンターの上に置かれた一枚の銅貨を指先でトントンと叩いた。


「もしかして、こっそり来たんですか?」


 私が呆れたように言うと、彼は微かに視線を逸らし、小さく咳払いをした。


 臨時休業中で客の来ないこの時間を選んだのは、単に目立ちたくないからだけではないだろう。伯爵家の次男である監査官が、一介の薬種商の娘の店へ私的に出入りしていると噂になれば、私には無用の負担や詮索が及ぶ。客のいない時間を選んだのは、その負担を避けるためでもあるのだろう。


(監査官様らしい、不器用な気遣い……)


「前日の試飲は、あくまで職務としての検査でした。しかし今日は、一人の客としての注文です」


 彼は真っ直ぐに私を見て、静かに告げた。


「……牛乳と蜂蜜を入れたものを、一杯。私の金で注文します」


 自腹を切って銅貨を差し出す彼に、私は思わず頬を緩ませた。あんなに厳格に規則を敷いた張本人が、自ら職務を離れてもう一杯を求めに来るなんて。


「今後の仕入れ経路の確立や、さらなる安全性の試験にも、監査官として立ち会う意向です。ですから」


 彼はカウンター越しに、ほんの少しだけ口角を上げた。


「昨日よりも改善した一杯を、期待していますよ」


「……はいっ!」


 胸の奥が、じんわりと温かくなる。


 商売が繋がったからだけではない。また彼に会えることが、一緒にコーヒーという飲み物を育てていけることが、私は仕事以上に嬉しいのだとはっきりと自覚していた。


 私はカウンターの奥へ戻り、サーラから買い取った豆を石臼の中へ落とした。


 レオナールはもう帳面を取り出すこともなく、腕を組み、ただ一人の客として静かにその場に佇んで待っている。


 ゴリ、ゴリ、ゴリ……。


 静寂に包まれた店内に、香ばしい豆を挽く音だけが響く。これから始まる新しい日々への期待を乗せたその音が、心地よいリズムを刻んでいつまでも響き渡っていた。


【未登録種子「火鳥の実の種」試験販売・最終報告】


 ■初期試作の評価


 加熱処理および抽出方法に重大な難あり。外観、香り、味覚のすべてにおいて極めて不快。評価は「泥水」。飲料として不適格とした初回の判定は事実に基づくものであり、ここに訂正しないものとする。


 ■最終試験の評価


 星灯り祭における結界術師休憩所での試験販売にて、夜間作業者からの有償需要を明確に確認した。対象者の自発的な意思により、適切な対価が支払われる商品価値が証明されたと言える。また、覚醒作用を示す報告があり、労働時の影響については継続検証を要する。


 よって、本件対象物の毒物指定を見送り、定められた安全規則を厳格に維持した上での、限定的な継続試験の実施を強く推奨する。


* * *


【私記】


 彼女が南方の荷からあの種を最初に見つけ出した時の、まるで世界中の希望をすくい上げたかのような顔。


 そして昨夜、縁の欠けた最初の銅貨を震える手で拾い上げ、ポロポロと涙をこぼしたあの不器用な姿については、当然ながら公文書のどこにも記載していない。


 彼女がこれから工夫を重ねて淹れるであろう次の一杯は、交易院の監査官としての立会業務ではなく、私個人の目で確かめたいと思っている。


 初回の評価は決して覆らない。


 だが、私が次に記す評価には、もう「泥水」とは書かないつもりだ。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、「誰も知らない飲み物に、初めて値段がつくまで」を一話完結の短編として描きました。この物語は、ここでひとまず完結です。


長編版では、豆の原産地探索、精製方法や焙煎器具の開発、紅茶商会との競争、女性も安心して利用できる喫茶店づくり、そしてミレイユとレオナールの関係の続きまで描けます。


続きを読みたいと思っていただけましたら、評価、ブックマーク、感想で教えていただけると、長編化を決める大きな判断材料になります。


感想では、


「豆の原産地探索」「喫茶店の開業」「ミレイユとレオナールの恋愛」


のうち、特に読みたいものを一つだけでも教えていただけると嬉しいです。

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