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『あなたに最適な人生です』  作者: Yukiya


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4-3:初めての迷い

4-3:初めての迷い


 自由選択区域行きのホームは、中心部の駅とは違っていた。


 まず、光が違う。


 天井の照明は少し暗く、ところどころ明るさにむらがある。

 管理都市中心部の駅のように、乗客の心理状態に合わせて滑らかに調整されているわけではない。


 床には古い補修跡があった。


 薄い線のような亀裂を埋めた跡。

 色の違うタイル。

 何度か貼り替えられた案内シール。


 ひとつひとつは小さなものだった。

 けれど玲央には、そのすべてが目についた。


 中心部なら、こうした乱れはすぐに修繕対象になる。

 床の凹凸は歩行負荷を増やし、視覚的な不均一さは無意識のストレスを生む。

 だから、管理都市では「乱れ」は早期に取り除かれる。


 しかし、このホームでは、乱れがそのまま残っていた。


 案内表示も最新型ではなかった。


 文字の切り替わりに、わずかな遅れがある。

 表示面の端が少し暗い。

 列車到着予定時刻の横には、見慣れない文言が出ていた。


 遅延の可能性あり。


 玲央は、その文字を見て眉をひそめた。


 遅延の可能性あり。


 管理都市の主要路線では、遅延はほとんど起きない。

 移動需要、天候、車両状態、乗客の流れ、周辺区域の活動量。

 それらはすべて予測され、調整される。


 予定は守られるものだった。


 到着時刻は、ほとんど誤差なく示される。

 乗客はそれを前提に生活を組み立てる。

 だから、一日の流れは崩れない。


 だが、このホームでは、予定は確定していない。


 玲央は列車案内を見上げた。


 自由選択区域方面。

 次発、十九時十二分。

 到着時刻、変動あり。


 変動あり。


 その言葉が、やけに不安定に見えた。


 端末が震えた。


 現在の行動は非推奨です。

 瀬川玲央さんの感情負荷は通常より一九パーセント上昇しています。

 帰宅し、休息を取ることを推奨します。


 玲央は画面を見つめた。


 正しい。


 今の自分は冷静ではない。


 水無瀬の件に引きずられている。

 神崎にも忠告された。

 追跡支援班が動いている以上、自分が出向く必要はない。

 自由選択区域へ向かったところで、水無瀬を見つけられる保証もない。


 これは、職務上必要な行動ではない。


 むしろ、担当職員としての中立性を損なう可能性がある。


 端末の表示は、さらに続いた。


 判断偏りの可能性、軽度から中程度。

 推奨行動、帰宅。

 代替行動、翌営業日に追跡支援班へ照会。


 玲央は、ホームの端に立った。


 視線の先には、線路が伸びている。


 中心部の線路と同じ金属でできているはずなのに、その先はどこか暗く見えた。

 管理都市の外へ続く線路。

 ORACLEの支援接続が薄くなる場所へ向かう道。


 このまま列車に乗れば、自由選択区域へ入る。


 完全に支援が断たれるわけではない。

 端末は使える。

 最低限の安全情報も届く。

 緊急時の接続も残っている。


 それでも、案内は制限される。

 推奨の精度は下がる。

 生活リスクの予測も、中心部ほど正確ではなくなる。


 玲央は、息を吸った。


 迷う。


 その感覚に、彼自身が戸惑った。


 これまで、玲央の人生に迷いはほとんどなかった。


 進学も、就職も、住居も、生活習慣も。

 選ぶ前に、ORACLEが示してくれた。

 迷う前に、最適な道が表示された。

 不安が高まれば、呼吸調整が入り、感情が整えられた。

 悩みは、深くなる前に分類され、処理された。


 迷いは、長く持ち続けるものではなかった。


 対処するものだった。

 整理するものだった。

 解消すべき負荷だった。


 だから、今のように、何も決められず立ち止まる感覚は、ひどく不安定だった。


 帰るべきだ。


 頭ではそう思う。


 水無瀬蒼の選択は、水無瀬蒼のものだ。

 玲央が追いかける理由はない。

 むしろ、今ここで列車に乗ることは、感情的で非合理な行動だ。


 神崎の言葉も思い出す。


 迷いの側へ行く必要はない。

 問いに引きずられるな。

 自由は、人を壊すことがある。


 玲央は、端末を握る指に力を込めた。


 そうだ。


 帰るべきだ。


 帰って、休む。

 明日、追跡支援班の報告を待つ。

 必要なら正式な手続きを踏んで、再接触通知を送る。


 それが、職員として正しい。


 それが、社会の仕組みとして正しい。


 だが、別の声が胸の奥にあった。


 本当にそうか。


 玲央は、自分の内側に生まれたその声に気づいて、息を止めた。


 自分は、ただ水無瀬を探したいだけなのか。


 それとも、水無瀬が見ようとしたものを、自分も見たいのか。


 自由選択区域。


 そこに何があるのか。


 水無瀬は、なぜあの整った人生から離れて、そこへ向かったのか。


 幸福なのかもしれない。

 でも、生きている感じがしない。


 あの言葉が、まだ胸の奥に残っている。


 玲央は端末を見る。


 画面には、帰宅ルートが表示されていた。


 今ならまだ戻れる。


 反対ホームへ移動し、中央線に乗ればいい。

 二十分後には自宅に着く。

 推奨夕食を取り、軽いストレッチをし、二十一時には業務思考を停止する。

 睡眠効率は回復し、明日の業務負荷にも対応できる。


 明日には、今日の迷いも薄れているかもしれない。


 それが最適だ。


 玲央は反対ホームへ向かおうと、一歩動いた。


 その瞬間、ホームにアナウンスが流れた。


「自由選択区域方面、十九時十二分発、まもなく到着します」


 古いスピーカーの音は、少し割れていた。


 管理都市中心部の滑らかな合成音声とは違う。

 音の端がざらつき、響きにむらがある。

 耳に残る、生々しい音だった。


 玲央は足を止めた。


 ホームの先にいた数人が、ゆっくりと列車の到着位置へ移動する。

 並び方は、中心部ほど整っていない。

 少し前に出る者もいれば、後ろで荷物を抱え直す者もいる。

 誰かが小さく咳をし、別の誰かが隣の人と短く話している。


 すべてが、少しずつ不揃いだった。


 けれど、その不揃いさの中に、なぜか目を離せないものがあった。


 これは、誰の人生なんでしょうか。


 水無瀬の声が、再び胸の奥に響いた。


 玲央は目を閉じる。


 自分は今、選ぼうとしている。


 ORACLEの推奨に従うのか。

 それとも、それに背いて列車に乗るのか。


 どちらが正しいのかは分からない。

 どちらが幸福につながるのかも分からない。

 数字は、帰宅を推奨している。

 安全も、安定も、休息も、帰宅の方にある。


 列車に乗れば、不確実性が増える。

 感情負荷も上がる。

 神崎の忠告にも反する。

 自分の職務中立性にも影響するかもしれない。


 それでも。


 玲央は、ゆっくりと目を開けた。


 端末はまだ、帰宅を勧めている。


 帰宅ルートへの復帰を推奨します。

 自由選択区域方面への移動は非推奨です。


 画面の文字は正しい。


 間違っていない。


 だからこそ、玲央は苦しくなった。


 ORACLEは間違っていない。

 神崎も間違っていない。

 帰ることが最も安全で、最も合理的だ。


 それでも、自分の足はまだ反対ホームへ向かっていない。


 初めてだった。


 ORACLEの推奨と、自分の足が、別々の方向を向いている。


 それは小さなことのはずだった。


 ただ列車に乗るか、帰るか。


 それだけのこと。


 けれど玲央にとっては、これまでの人生で経験したことのない分岐だった。


 進学を選ぶときよりも。

 就職を決めたときよりも。

 今の住居を承認したときよりも。


 小さなホームの上で、玲央は初めて、自分が本当に迷っていることを知った。


 線路の向こうに、列車のライトが現れた。


 暗いトンネルの奥から、二つの光がゆっくり近づいてくる。


 ホームの空気が少し揺れた。

 風が玲央の髪をかすかに動かす。


 端末が、もう一度震えた。


 帰宅を推奨します。


 玲央はその画面を見た。


 そして、すぐには閉じなかった。


 ただ見つめた。


 自分にとって最も安全な道。

 最も安定した道。

 最も間違いの少ない道。


 それを示す文字を、最後まで見つめた。


 列車の走行音が近づいてくる。


 玲央は、まだ動けなかった。


 帰るのか。


 乗るのか。


 答えは、まだ出ていない。


 ただ、ひとつだけはっきりしていた。


 その答えを、今度はORACLEが代わりに選んでくれることはない。


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