第1章:あなたに最適な人生です 1-1:迷わない朝
1-1:迷わない朝
瀬川玲央の朝は、いつも同じ静けさから始まる。
午前六時二十分。
枕元に置かれた薄型端末が、音もなく淡い光を放った。白でもなく、青でもなく、夜明け前の空に似たやわらかな色。その光が壁にゆっくりと広がり、閉じていた部屋の輪郭を少しずつ浮かび上がらせていく。
目覚まし音は鳴らない。
突然の音は、心拍数を乱す。
起床直後の交感神経を過剰に刺激し、その後三十分間の集中効率を低下させる可能性がある。
それは、玲央がわざわざ覚えている知識ではない。
端末が、必要に応じて表示してくれる情報だった。
代わりに、ORACLEは玲央の睡眠深度、脳波、体温、呼吸数、心拍変動を解析し、最も自然に覚醒できる瞬間を選ぶ。そして、部屋の照明を一パーセント単位で明るくしていく。
無理に起こされる感覚はない。
眠りの底から、ゆっくり水面へ浮かび上がるように、玲央の意識は静かに戻っていった。
まぶたが開く。
天井には、今日の推奨スケジュールが淡い文字で表示されていた。
本日の起床推奨時刻、六時二十分。
睡眠効率、九十二パーセント。
深睡眠時間、基準値内。
推奨朝食、全粒粉トースト、植物性たんぱく質スープ、温野菜。
推奨服装、ライトグレーのジャケット、白シャツ、濃紺のスラックス。
推奨通勤ルート、中央線第七ホーム経由。
推奨会話量、通常より一二パーセント抑制。
本日の感情安定指数、良好。
玲央は数秒だけ天井を見つめた。
表示された文字に、特別な感情は湧かない。
驚きもない。
疑問もない。
そこには今日一日を始めるために必要な情報が、必要な順番で並んでいる。玲央はそれを確認し、ベッドから上体を起こした。
枕元の端末に軽く触れる。
「確認しました」
玲央の声に反応して、天井と壁に映っていた文字が静かに消えた。まるで水面に浮かんだ文字が、波紋も立てずに沈んでいくようだった。
部屋は整っている。
床に物は落ちていない。
机の上には前夜に読んだ資料端末だけが、指定された角度で置かれている。
カーテンはすでに三分の一だけ開き、外の光が入りすぎないよう調整されていた。
玲央は洗面室へ向かい、顔を洗った。
鏡の横に、小さな表示が出る。
顔色、良好。
眼精疲労、軽度。
本日の画面作業時間は二十分短縮を推奨。
玲央はそれを眺め、小さく頷いた。
助かる、と思う。
自分で体調を判断しなくていい。
無理をしているのか、休むべきなのか、食事を変えるべきなのか。そうした判断を、ORACLEは先に示してくれる。
かつての人間は、自分の身体の声を聞けと言ったらしい。
玲央には、その言葉が少し曖昧に思えた。
身体の声など、人によって聞き間違える。
疲れていても気づかない者がいる。
不安を空腹と勘違いする者もいる。
怒りを正義と呼び、寂しさを愛情と誤解する者もいる。
自分を正確に知ることほど、難しいことはない。
だからこそ、ORACLEがある。
台所に向かうと、調理ユニットはすでに朝食を用意していた。
皿の上には、全粒粉トーストが一枚。焦げ目は均一で、端の硬さまで管理されている。
隣には、淡い緑色の植物性たんぱく質スープ。温度は五十八度。
小さな器には、温野菜が彩りよく並べられていた。
玲央の胃腸状態、前日の活動量、午前中の面談業務負荷、気温、湿度。
それらをもとに、ORACLEが決めた朝食だった。
玲央は椅子に座り、食事を始めた。
味に驚きはない。
だが、不満もない。
スープは熱すぎず、ぬるすぎない。
トーストの噛み応えはちょうどよく、野菜の量も多すぎない。
満腹になりすぎず、空腹も残らない。
毎朝、身体に必要なものが、必要な量だけ用意されている。
迷う必要がない。
食べすぎることもない。
栄養を偏らせることもない。
気分だけで甘いものを選び、あとで身体の重さに後悔することもない。
玲央は、それを窮屈だとは思っていなかった。
むしろ、ありがたいと感じていた。
かつての人間は、毎朝の服装や食事や移動手段にまで悩んでいたという。
何を食べるか。
何を着るか。
どの道を通るか。
誰に連絡するか。
どの予定を優先するか。
小さな選択。
取るに足りない判断。
しかし、それらは一日中積み重なり、人の心を削っていく。
玲央は研修で聞いたことがある。
自由な社会に生きていた人々は、一日に何百回も選択していた。
そのたびに迷い、比較し、失敗を恐れ、あとから後悔した。
朝食のメニューでさえ、健康、価格、好み、流行、体型、他人の評価と結びついていた。
服装も、気温だけでなく、場に合うか、印象が悪くないか、自分らしいか、浮いていないかを考えなければならなかった。
小さな自由が、小さな疲労を生む。
それが毎日続けば、人は自分でも気づかないうちに消耗していく。
ORACLEは、その無駄を取り除いた。
玲央は朝食を終え、クローゼットへ向かった。
扉が開くと、推奨された服が正面のレールに移動していた。
ライトグレーのジャケット。
白シャツ。
濃紺のスラックス。
横の表示には、選定理由が出ている。
本日の面談業務において、信頼感と中立性を最も高める配色。
市民の緊張緩和効果、推定七・四パーセント向上。
職員本人の感情安定効果、軽度。
玲央はジャケットに袖を通した。
布地は軽く、体温を逃がしすぎない。
肩の動きを妨げず、面談中に相手へ圧迫感を与えない形状。
襟元も乱れにくい。
鏡の前に立つ。
そこに映る自分は、いつも通り整っていた。
乱れがない。
余計な主張もない。
誰にとっても不快ではない姿。
強すぎず、弱すぎず。
親しみやすく、しかし踏み込みすぎない。
人生最適化庁の職員として、適切な外見。
それで十分だった。
自分らしさ、という言葉を玲央はあまり使わない。
必要がないからだ。
自分らしい服装。
自分らしい暮らし。
自分らしい選択。
そうした言葉は、かつての時代にはよく使われていたらしい。だが、玲央にとって大切なのは、自分らしいかどうかではなかった。
相手に余計な不安を与えないこと。
自分の状態を乱さないこと。
その場に最も適した形であること。
それで、十分だった。
玄関を出る直前、端末が小さく振動した。
本日の歩行速度推奨、分速七十四メートル。
体調維持のため、駅までの経路は北側遊歩道を推奨します。
南側ルートは工事音による軽度ストレス上昇の可能性があります。
玲央は画面を見て、自然に北側へ足を向けた。
迷いはなかった。
外の街は、まだ朝の静けさに包まれている。
高層住宅の窓には、淡い光が順番に灯り始めていた。
清掃ドローンが歩道の端を滑るように進み、夜のうちに落ちた葉や細かな埃を吸い取っていく。
交差点の信号は、歩行者の流れに合わせて滑らかに変わった。
誰も急いでいない。
誰も立ち止まって道に迷っていない。
人々はそれぞれの端末を時折確認しながら、自分に最適化された朝のルートを歩いている。
足取りは穏やかで、ぶつかる者もいない。
歩幅や速度は各自違っているはずなのに、全体としてはひとつの流れのように整っていた。
玲央はその中を歩く。
端末が示した速度に合わせて、自然に足が動く。
早すぎず、遅すぎず。
体温が上がりすぎない程度に、しかし眠気が残らない程度に。
途中、遊歩道の脇に植えられた樹木が、朝の光を受けて揺れていた。
葉の色は季節に合わせて選定され、通行者の心理的負担を下げるよう調整されている。
ベンチには、二人の高齢者が座っていた。
おそらくORACLEに勧められた朝の軽運動の途中なのだろう。
玲央は軽く会釈をする。
相手も静かに会釈を返した。
会話はない。
それでよかった。
本日の推奨会話量は、通常より一二パーセント抑制。午前中に複数の面談が予定されているため、出勤前の会話負荷を減らした方がよいと判断されている。
玲央はその助言に従っていた。
必要以上に話さない。
必要以上に関わらない。
必要以上に心を揺らさない。
それは冷たさではない。
自分の状態を整え、面談に来る市民に最も安定した対応をするための準備だった。
駅へ向かう道の途中、道路脇の大型表示板に今日の社会安定情報が映し出されていた。
交通混雑、低。
医療待機率、安定。
犯罪予兆検知、基準内。
都市感情指数、良好。
都市感情指数。
玲央はその文字を横目で見る。
かつての都市には、怒りや不安があふれていたという。
人々は満員電車で苛立ち、職場で疲弊し、家庭で孤立し、画面の向こうの他人と自分を比べて落ち込んだ。
どこへ行っても、誰かの感情がむき出しになっていた。
今は違う。
感情は管理される。
不安は早期に検知される。
怒りは深まる前に調整される。
孤独は危険域に達する前に支援される。
人は、自分の感情に振り回されずに済むようになった。
玲央はその光景を眺めながら、いつものように思う。
この社会は、よくできている。
迷わなくていい。
間違えなくていい。
余計な不安に振り回されなくていい。
駅の入口が見えてきた。
透明な屋根の下を、人々が静かに吸い込まれていく。
改札は混雑を避けるよう自動的に開閉し、玲央の端末には第七ホームまでの最適な導線が表示された。
玲央は流れに沿って歩く。
何も考えなくても、身体は正しい方へ進んでいく。
それは、快適だった。
ふと、玲央は思う。
自由とは、選択肢が多いことではない。
選択肢が多ければ、人は迷う。
迷えば、不安になる。
不安になれば、間違える。
間違えれば、後悔する。
ならば、自由とは本当に、好きに選べることなのだろうか。
少なくとも玲央は、そうは思わなかった。
自由とは、選択に苦しまなくて済むこと。
間違える恐怖から解放されること。
自分にとって最もよい道を、静かに歩けること。
少なくとも、その朝の玲央は、そう信じていた。
疑う理由など、まだどこにもなかった。




