第6話 触れたくなる距離、香る想い
リオネール王国・騎士団詰所の中庭。
朝露の名残がまだ石畳に残る時間、レオンはいつもと変わらぬ所作で馬具の手入れをしていた。だが、その手元に込める力はいつもより微妙に強く、布を何度も同じ場所で擦っては、また最初からやり直している。
(今日は……素材の買い出し、か)
日課のように繰り返されてきた訓練や任務とは、少しだけ違う一日。
真奈とふたりで街へ出る、というだけの外出なのに、内心は落ち着かない。
(“真実の雫”……あの一件が、尾を引いてる)
あの夜、思わず踏み割ってしまった瓶に詰まっていたのは、「本音を顕在化させる高純度の媚薬」。
それを踏んだことで口から滑り出たのは、自分が今まで言葉にしたことのない、“正直な気持ち”だった。
──「可愛い」「努力している姿が好ましい」
あの言葉は、決して嘘ではない。
だが、そんな気持ちを本人に伝える予定などなかった。
そもそも、そんな感情が“ある”ことすら、自分では気づかないふりをしていた。
(……どうして、俺がこんなことで焦ってるんだ)
あれ以来、真奈に妙に意識してしまう。
特に、ここ数日――
「錬金術師さん、あの薬、また試させてもらえませんか?」
「今日の花飾り、あなたが選んだんですか? 似合ってますよ」
団の若手騎士たちが、妙に真奈に話しかけることが増えた。
それも、単なる礼儀以上の、どこか浮ついた空気を含んだ視線を向けてくる。
そのたびに、胸の奥がざらつく。
(……なんであんなに誰にでも笑って……いや、悪いことじゃないが)
優しい。明るい。努力家で、しかも健気。
その性格は、騎士団の中でもすでに好印象を得ていた。
けれど、それが“誰かのものになるかもしれない”と想像するだけで、胸が重くなる。
そんな思考を振り払おうと、レオンは馬具をもう一度締め直した。
そのときだった。
「……お待たせしましたっ!」
小さな声が風に乗って届いた。
レオンは何気なく顔を上げ――そして、手を止めた。
真奈が、いた。
いつもは機能性重視の錬金術師服を身にまとっている彼女が、今日はまるで違う。
淡い桃色のワンピース。
袖口にあしらわれた繊細なレース、胸元には柔らかなリボンの装飾。
髪は緩く巻かれていて、薄い花飾りがそっと編み込まれている。
足元は軽やかなベージュの編み上げブーツ。
普段より少しだけ薄く色づいた頬が、緊張と照れに染まっていた。
(……な、なんだ……その格好は……)
レオンは視線を逸らすことも、正面から見ることもできず、一瞬の間、息を飲んだまま固まった。
「えっと……変じゃないですか? その、カタリナさんがコーディネートしてくれて……ルシア様も“こういうのも似合うはず”って……」
真奈は小さな声で笑いながら、そっとスカートの裾を握りしめた。
レオンはようやく、声を絞り出す。
「……別に。問題はない」
「……本当に……?」
「……目立ちすぎて、護衛としては神経使うな。街中で視線を集めそうだ」
「……そっか……じゃあ、やっぱり地味な服の方がよかったかな……」
少し寂しそうにうつむいた真奈の表情に、レオンはしまったと思った。
言い方が悪かった。否定したかったわけじゃない。むしろ……。
(似合ってる。可愛いと思った。……けど、言えない)
彼はわずかに肩をすくめて、気まずそうに口を閉ざしたまま馬車の手綱を手に取った。
「……乗れ。時間が惜しい」
「……はい!」
荷台に揺られながら、レオンは前を向いたまま、こっそり視線だけを横に向けた。
真奈は、揺れる馬車の中でカゴを大事そうに抱え、窓の外を見ていた。
風に揺れる髪、ほのかに香る花の匂い、柔らかい表情。
(誰かの目に触れたくないって、思ってる……?)
彼女が“誰かに取られてしまいそう”という焦りは、今や完全に現実味を帯びてきていた。
(……もう、目を逸らせないかもしれない)
騎士としての任務。護衛という役割。
それだけでは、もう彼女の隣に立つ理由にはならないのだ――
ーー真奈視点より
王都の風は、どこか華やかで、いつもより少し甘い匂いがした。
石畳を踏みしめるたび、スカートの裾がふわりと揺れる。
足取りは軽いはずなのに、心のどこかがむずがゆい。
(結局……何も言ってくれなかったな、レオンさん)
“似合ってる”とか、“かわいい”とか。
少しくらい期待してしまったのがいけなかったのかもしれないけど、
あれだけおめかしして、髪も巻いて、花飾りもつけたのに――
「……目立ちすぎて護衛としては神経使うな」なんて。
(褒める気ゼロじゃん……)
だけど――
(でも、“見てくれてた”のは、わかった)
言葉にはしなかったけれど、一瞬固まった顔も、目をそらした仕草も。
普段のレオンさんの顔じゃなかった。
(……ちょっとだけ、動揺してた。気のせい、じゃないよね)
、王都の中心部は、今日も人の波で溢れていた。
真奈は買い出しリストを片手に、露店を眺めながらあちこち目を向ける。
薬草店、魔石の露店、錬金術素材の小瓶が並ぶ棚――
どれも興味深いものばかりで、自然と歩みが弾む。
「これ、星灯草の精油? こっちのは微細加工された銀砂……!」
きらきらした目で店を覗き込む真奈を、レオンは一歩後ろから静かに見守っていた。
その姿勢は変わらないけれど――
(さっきから……ちょっとだけ、近い)
歩いていると、肩と肩が時々ふれる。
曲がり角では、そっと背中を押してくれる。
それがやけに自然で、でも今までにはなかった距離感だった。
「……ん、ちょっと待て。前、混んでる」
レオンが立ち止まると、狭い通りの先から大勢の人が流れてくるのが見えた。
観光の団体らしい。
「こっちへ」
レオンは自然に、真奈の手を取った。
「……っ」
その瞬間、心臓が跳ねた。
冷たい指先。だけど、優しく力強い。
ぎゅっと握られたまま、真奈はほとんど反射的に歩を合わせる。
人混みに飲まれそうになる中、レオンの背中がすぐ前にある安心感があった。
「危ない、屈め」
「えっ、わっ……!」
かすかに足元に落ちた木箱を避けるとき、レオンが真奈の肩に手を回し、ひょいと引き寄せた。
一瞬、ふたりの距離がぴたりとゼロになる。
(ち、ちか……っ!)
顔が熱くなるのがわかった。
でも、レオンはいつもと同じ無表情で、ただ淡々と道を確保してくれているだけ。
(……だけど)
繋いだ手は、まだ離れていなかった。
「……もう少し、こうしててもいいですか?」
そう呟いたのは、たぶん真奈のほうだった。
小さな声だったから、届いていないかもしれない。
でも、レオンは何も言わず、手を強く握り直しただけだった。
(あれ……なんだろ。緊張するのに、安心する……)
ぎこちない。でも、どこか嬉しい。
そんな気持ちを胸に、真奈はもう一度レオンの背中を見つめ直した。
王都の大通りから少し離れた路地に、ひっそりと佇む素材店「星の蒸留工房」は、木造のあたたかみある看板と、軒先を彩るドライハーブのリースが印象的なお店だった。
「こんにちはー……」
扉を開けた瞬間、足元にふわっと何かがぶつかってきた。
「にゃっ」
「わっ!? な、なに……!? あ、猫……!」
もふっとした毛玉――白と黒のぶち模様の猫が、真奈のスカートに顔を突っ込むようにして頭突きをしてきた。
「ああ、それはミルっていう看板猫さ。素材選びに妙に厳しくてね。気に入った人にはすり寄るんだ」
カウンターの奥から現れた店主は、白髭の優しい目をした中年の男性だった。
「今日は素材を見に来たのかい? ……ああ、貴女、錬金術師だね。前に使った“癒しの雫”、あれ、かなり評判だったよ」
「えっ、本当ですか?」
「おかげで似た系統の素材の注文も増えてね。よければここで試作、していかないかい? 素材費はいらない。新しいレシピが見られるなら、こっちの得だ」
「……それなら、お言葉に甘えて……!」
◆ ◆ ◆
奥の調合スペースに通された真奈は、持参していた錬金ツールを広げ、店主から提供された素材を前に集中を高めた。
風精の羽粉、月草の蜜、夜咲き艶花の花弁、魔蜂蜜――
(いける……癒しと再生、ふたつのラインからいける気がする)
魔力を込めると、ウィンドウが淡く光り始めた。
《スキル:錬金術:癒し 中位構成開始》
《生成成功:癒しの雫(中)》
《副生成物:妖精の息吹/魔性の花蜜》
「……できた!」
癒しの雫は、以前の“小”よりも淡く輝き、瓶の中で細かく気泡が踊っていた。
だが問題は副生成物だった。
「これは……!」
ひとつは、淡緑色の微光を放つ“妖精の息吹”。
ほんのりとしたハーブの香りが鼻をくすぐる。
(肉体と心の緊張をほぐす、再生型の気配り系……よかった、これなら使える)
だが、もうひとつの瓶を見た瞬間、真奈の手が止まった。
「……ま、魔性の……花蜜……!?」
妖艶な香りが、瓶越しにも漂ってくる。
夜咲きの艶花の濃厚な色素と魔蜂蜜の粘度が混ざったその液体は、明らかに“危ない”種類のものだった。
(さすがに、これは持ち歩けない……!)
「……にゃうっ!」
ミルの声がした、と思った瞬間だった。
「わっ!?」
足に柔らかな衝撃。看板猫のミルが勢いよくぶつかってきて、私は体勢を崩した。
「あっ……!?」
手から滑り落ちる瓶。それが何の薬か、落ちた瞬間に思い出した。
(ま、魔性の花蜜――!?)
「お、おい、危な――」
レオンさんの声と同時に、パリン、と高い音が響いた。
空気が、変わる。
ふわりと鼻先をくすぐる、甘く濃厚な花の香り。胸がどくんと跳ねて、体が熱を帯びる。
(うそ……また、これ……!?)
「真奈っ……!」
気づけば、レオンさんの腕の中にいた。
がっしりと、でもどこか優しく包み込まれるように、私の背にまわされた腕。
そのぬくもりに触れた途端、心臓の音がさらに大きく跳ね上がった。
「レ、レオンさん……?」
顔を上げると、目が合った。
すごく近くて、びっくりするほど近くて。
頬が赤くなってるのは、たぶん私だけじゃなかった。
レオンさんの目も、どこか熱っぽく潤んでいた。
(へ、変……!?)
それだけじゃない。彼の手が、私の背中を撫でるように動いている。
そして、指先が――腰に触れた。
「……服、今日の。すごく、似合ってる」
「へっ……?」
思わず間の抜けた声が出てしまった。
だって、それはさっき、言ってほしかった言葉で――でも、今言われると、なんだか……すごく照れくさい。
「……最初から言いたかったけど、言えなくて……でも、今は……思ってることが、止まらない……」
彼の手が、私の髪をそっとなぞる。
頬に触れた指が、やさしく撫でるように動いた。
(ま、待って……やだ、なんか、ドキドキしすぎて……)
視線が近くて、息が触れて、まるで今にも――
「っ……レオンさん……なんか……へん……」
声が震える。自分でも、顔がすごく熱いのが分かる。
でも、レオンさんはさらに私の腰を引き寄せて――
「俺も……わかってる……でも、止められない……」
(うそ……)
まるで時間が止まったみたいだった。
頭がぼうっとして、体の芯が熱くなって、どこに触れられても、ビクッと反応してしまいそうで。
だけど、その瞬間――
──ガチャン。
突然、冷たい風が吹き込んできた。
「……なるほど。噂には聞いていたけど、実際に見ると……想像以上に“破壊力”があるね」
ぱっと視界が明るくなった。
光の魔法陣が窓辺に浮かび、男の声が響いた。
「香気、拡散解除――《払え、香の残滓》」
風が部屋を駆け抜け、あの甘い香りを一気に吹き飛ばしていく。
「っ……う、ぁ……!」
我に返った。
私はレオンさんにしっかりと抱きしめられていて、腰に彼の手があるのをようやく自覚した。
彼も、はっとしたように手を放す。
「ま、まって! これは……違うっ……!」
視線の先、開け放たれた窓辺に、ひとりの青年が立っていた。
(……誰!?)
銀青の髪。金の瞳。上品で、どこか完璧すぎる顔立ち。
漆黒のマントに身を包み、手には魔導書を持っている。
「やあ、初めまして。君が“異世界の錬金術師”の真奈、だね?」
「えっ、あの……は、はい……えっと……?」
頭が混乱して、まともに言葉が出ない。
「アレクシス・ヴェル・リオネール。リオネール公爵家の跡取りで、魔術師。それから……ルシアの婚約者でもある」
(えっ!? 婚約者!? ルシア様の!?)
情報量が多すぎて、思考が追いつかない。
でも、彼の笑みは優雅で、余裕があって、どこか見透かされているような気さえした。
「初対面がこの状況なのは、少し予想外だったけど……まぁ、忘れられない“出会い方”ではあるね。よろしく、真奈さん」
私は顔を真っ赤にして、両手で目元を覆った。
後ろではレオンさんが、全身で「やっちまった……」とでも言いたげなオーラを出している。
真奈は、自分の頬がまだ熱を持っていることに気づきながら、肩まで覆っていた手のひらを、そっと下ろした。
アレクシスが風を操り、室内の空気を一掃したことで、媚薬の効果はすっかり引いたはずなのに、心臓の鼓動だけは、なぜかまだ高鳴ったままだった。
そして――
(……私の人生、こんな方向でスキル発動しなくてもよかったのに)
(異世界って、もっとこう、キラキラしてると思ってたのに……キラキラどころかハラハラだよー。)
服の裾をぎゅっと握りしめたまま、真奈は天井を見上げた。
(……このままだと心がもたない……!)
何度目かの“危機”を乗り越えた少女は、心の中でそっと嘆きながら、次のハプニングを予感していた――。