第5話 淡香る午後、少女たちは笑う
神殿の陽だまりの中庭――
優雅な午後のひととき、真奈はルシア、カタリナとともに、白い布のかけられたテーブルを囲んでいた。淡い桃色の花びらが舞い散る中、温かなハーブティーの香りと焼きたてのスコーンの匂いが風に乗って運ばれてくる。
「うふふ、こうして誰かとゆっくりお茶を飲むのって、本当に久しぶりだわ」
ルシアが微笑みながら、カップを傾けた。
「真奈が来てから、ルシア様もちょっと柔らかくなったよね~」
カタリナは紅茶をくるくるかき混ぜながら、いたずらっぽく笑う。
「そ、そんな……私はいつも通りよ?」
ルシアはやや困ったように笑ったが、真奈の視線からは、その頬がほんのり紅く染まっているのが見えた。
(なんだか……本当に、普通の女の子みたい)
“聖女”と呼ばれる彼女に、こんなに近い距離で笑いかけてもらえるなんて。ほんの数日前までの自分には想像もつかない光景だ。
「それにしても、“翠命の雫”の効果は想像以上だったわ。おかげで祈りの儀は月に二度で済むようになったの。これまで毎週だったのが嘘みたい」
「本当に……それだけでも、身体への負担が全然違うよな」
そう言いながら、カタリナはふっと表情を引き締めた。
「でも、根本の問題が解決したわけじゃない。神獣ファル=ティナが、どうしてここまで弱ってるのか。そろそろちゃんと話しておいた方がいいかもね」
「……そうね」
ルシアは、カップを置いて小さく息をついた。
「本来、神獣は聖域に満ちた自然魔力を吸収し、循環させることで健やかに保たれる存在なの。でもここ数十年、その自然魔力の流れが、少しずつ淀んできているのよ」
「それって……環境のせい、ですか?」
「ええ。魔力鉱の乱開発や、大地の精霊との契約減少が影響していると言われているわ。祈りで魔力の循環を代替してるけれど、それには“聖女の祝福”が必要なの。でも……」
そこでルシアは少し視線を落とした。
「以前は、聖女が複数いたの。私の母もそうだったし、ほかにも、三人の聖女がそれぞれの神域を守っていた。けれど、今代はなぜか“私ひとり”しか、祝福を受けていないの」
「そんな……! それって、負担が全部ルシア様に……」
真奈は絶句した。そんな重いものを、ずっと一人で背負っていたなんて。
「……平気よ。慣れているもの」
ルシアはそう言って笑ったが、その笑顔の奥にある疲れを、真奈はもう見逃さなかった。
「真奈の“翠命の雫”があって、本当に助かってる。ありがとう」
ルシアの目はまっすぐで、あたたかかった。
「そ、そんな……私、まだ何も……」
照れながら言いかけた真奈だったが――次の瞬間、カタリナが肘でこつんとつついてきた。
「そうそう。柔らかくなったといえば、最近のレオンもちょっとだけ柔らかくなったもんねー。もしかして、これはアレかな?」
「はっ!?」
真奈はお茶を噴き出しかけた。
「えっ、えええ!? な、なんでレオンさんの話になるんですか!?」
「だって、最近レオンが真奈のこと気にしてるの、見え見えなんだもん。ね、ルシア様?」
「ふふ、私は何も言ってないわ?」
ルシアは静かに微笑んだままだが、どこか楽しげな雰囲気が漂っている。
「べ、べつにそういうのじゃないですっ! レオンさんはその、騎士さんで、頼りになるというか、カッコいいなとは思いますけど、でも……!」
「でも?」
「だからっ、そういうんじゃないですぅぅぅっ!!」
もはや何の否定なのか自分でもわからなくなってきた真奈の頬が真っ赤になる。
「へぇ~? そう言ってるくせに、今日おめかししてるのはなんでかな~?」
「そ、それは……その……」
カタリナの鋭いツッコミに、真奈はぐっと詰まった。
ルシアが優雅に紅茶を口にしながら、そっと視線を向けてくる。
「今日、素材の買い出しに行くのよね?」
「えっ……ま、まぁ……でも、それはっ」
真奈の声が小さくなる。
「……レオンさんが“必要なものがあるなら、一緒に城下に出よう”って言ってくれて……。護衛も兼ねてって、きっとそういう意味で……」
「はい、きましたー!」
カタリナがテーブルをばんっと叩く。
「それ、完全に“気にしてる”やつだよー。あの堅物レオンが、自分からお出かけに誘うなんて、もう奇跡レベルだってば!」
「だ、だから違うんですってばー!」
必死に否定する真奈だったが、二人のニヤニヤした笑顔は止まらない。
「ふふ。いいじゃない、少しぐらい浮かれても」
ルシアが穏やかに言った。
「恋に落ちるのは、心が癒される証だもの」
「そ、そそそそんな話になってませんーーーっ!!」
お茶会の空気は一気にわたわたと騒がしくなり、真奈は顔を真っ赤にして、湯気が出そうな勢いで頭を抱えた。
真奈が盛大に否定したところで、カタリナがぴたりと立ち上がった。
「よし、じゃあ決まりっ!」
「えっ……な、なにがですか!?」
「おめかしタイム~! レオンと出かけるなら、もっと可愛くしたっていいじゃない?」
「えぇぇぇ!? や、やだっ、これ以上はもう十分ですってば!」
「甘いっ、真奈ちゃん。素材調達だって、戦場よ。勝負服が必要なんだから!」
そう言いながら、エリシアはどこからかリボンと軽やかなラベンダーカラーの上着を取り出してきた。
「これとかどう? いつもの錬金ローブよりちょっと軽やかで、春らしくて可愛いでしょ?」
「わ、私、普段着で……いいです……」
「なに言ってんの、可愛いは正義よ? はい、腕出して~!」
「わわわ、待って、ちょっと、えええええええ!?」
ルシアはその様子をくすくすと笑いながら見守っている。
「ふふ、真奈さん、頑張ってね」
「ルシア様ぁぁぁ!!」
こうして真奈は、否応なく“やや本気モード”のおめかしを施されることになったのだった――。
◆ ◆ ◆
「……というわけで、こっちの椅子に座って!」
「わっ、カタリナさん、ちょ、強引……!」
ルシアの私室の鏡台の前に引っ張られ、真奈はおろおろと腰を下ろす。
気づけばエリシアはすでに、櫛やリボン、薄く色づいた香油の瓶を用意していた。
「さて、まずは髪。今日はいつもの三つ編みじゃなくて、ゆる巻きにしてみよっか。軽く編み込んで、後ろでまとめて……」
「えっ、えっ、巻くんですか!? この世界って巻き髪あるんですか!?」
「あるわよ~魔導熱梳って言って、熱で髪を形作れる魔道具。はい、じっとして~」
手際よく真奈の髪を巻いていくエリシア。香油の甘い香りがふわりと漂う。
「この香り……ルシア様のと似てる?」
「ふふ、同じ花から取った精油なの。“ティナフローラ”っていうのよ。聖花って呼ばれてて、神獣も癒されるんだって」
「へぇぇ……」
髪を整え終えたあと、カタリナがクローゼットから選び出したのは、桜色をベースにしたショートローブワンピース。
「これ、私の予備だけど、サイズぴったりだと思う! 襟に銀糸の刺繍が入ってて、正装すぎず、でも清楚感もあるの。あと、裾がちょっとひらっとして可愛いでしょ?」
「う、うわ……本当に、なんか、お姫様っぽい……!」
「そこにこの細めのベルト巻いて、スカートのシルエット整えて……。足元はこの白のブーツでキュッと引き締めて――はい、完成!」
鏡の中に映った自分を見て、真奈は目を丸くした。
「……誰、これ……私?」
ゆるく波打った茶髪に、淡い桜色のローブワンピ。
魔法素材を刺繍したリボンベルトに、キラキラと光る透明の飾り石のイヤリング。
「うわ……なんか……」
「ね? 可愛いでしょ!」
カタリナがどや顔で言うと、ルシアも頷いた。
「とても似合ってるわ、真奈さん。……今日、きっと素敵な日になるわよ」
「ふええぇぇ……なんだかもう、買い出しどころじゃない気がしてきました……!」
「レオンの反応、見ものだねぇ♪」
「や、やめてくださいぃぃぃ!」
ルシアカタリナに揶揄われて顔が真っ赤になる真奈だった。
◆ ◆ ◆
「……本当に、可愛かったわね。今日の真奈ちゃん」
午後の柔らかな光が差し込む中庭のテラス。
ルシアは白磁のカップを手に、静かに微笑んだ。
「うん、あれは完全に“私プロデュース”の勝利ね」
カタリナは紅茶を一口飲んでから、少し得意げに笑う。
「桃色のワンピースに、淡い花飾り。髪も軽く巻いてあげたら……ね、ほら、やっぱり映えるでしょ。真奈ちゃんって、ふんわり柔らかい雰囲気があるから」
「ええ。小柄で、少しだけ幼さの残る顔立ち。栗色の髪に、大きな瞳……あの子の笑顔には、人の心をほどく力があるわ」
「……癒しって、ああいうことなのかもね」
ルシアは静かに頷いた。
「彼女は異世界から来て、突然この国に巻き込まれて……それでも前を向いてくれている。私は、それだけで感謝してるの」
「……うん」
「私にできることがあるとしたら、彼女の負担を少しでも減らすこと。でも……」
そこでふと、ルシアは視線を空へと向けた。
「もし彼女が“この世界で何かを見つけてしまったら”、きっと元の世界への気持ちが揺らぐわ。……それは、少し、切ないわね」
カタリナはその言葉にしばし黙って、カップを口元へ運んだ。
風がテラスの花を揺らし、リネンのクロスがふわりとめくれる。
「……ま、恋のひとつくらいしてくれなきゃ、異世界ライフ損だもんね?」
カタリナの軽口に、ルシアはふっと笑った。
「ふふ……そうかもしれないわね」
「それにしてもさ、最近ほんと騎士団の若い子たち、真奈ちゃんの話ばっかりだよ。『可愛い』『癒される』『頑張ってて応援したくなる』……」
「彼女の頑張りが、ちゃんと届いているのね」
「うん。でも……うちの騎士たちって、単純だからね。笑いかけられただけで好感度マックスになってる気がする」
「それは……少し、心配かしら」
「嫉妬?」
「いいえ、真奈ちゃんの穏やかな日常を願うだけよ」
ルシアの目元に浮かぶ笑みは、慈しみと、ほんの少しの寂しさを含んでいた。
「……それにしても、あの子、ああ見えて芯が強いよね。おどおどしてるのに、ちゃんと“自分のやること”を見てる感じがする」
「ええ。きっと、それは“帰る場所”があるから」
「……家族?」
「そう。あの子は、大切な人たちがいる世界から来たのよ」
「……うん。なのに、この世界でも誰かを癒そうとしてる」
ルシアはゆっくりと目を伏せ、ひと息つくように言葉をつないだ。
「たとえば……“想い”に揺れる真奈ちゃんを、真正面から受け止めてくれそうな、そんな人に出会えれば……」
「……そっかぁ。真奈ちゃん、この世界での安心できる“居場所”かぁ……」
真奈の元の世界への気持ちと、揺れ始めた恋心。
それを丸ごと受け止めてくれるような存在が、もしレオンなら――
カタリナはそんな想いを口に出しかけて、ルシアの横顔を見て、そっと飲み込んだ。
そのとき、ふと空を仰いでいたルシアの視線がふと緩む。
「……そういえば、アレクシスが、今日戻ってきたわね」
「おっ、珍しいじゃん。名前出してきたってことは……嬉しい?」
「……別に」
「はいはい、“別に”って言うときのルシアは、だいたい顔がほころんでるのよ」
からかうようにカタリナが微笑むと、ルシアは肩をすくめて視線をそらす。
「彼は国のために動いてるだけ。外交のために隣国に行っていたのも、正式な聖女候補の枠組みを広げるためだと聞いているわ」
「“聖女の役割分散”ね。……正直、遅すぎるくらいだと思うけど?」
カタリナの声に、ルシアは小さく息を吐いた。
「本来、“聖女”は複数いてもおかしくないの。過去には、祝福を受けた“共鳴者”たちが、祈りの儀式や癒しの任を分担していたと聞いたことがあるわ」
「なのに、今はルシア一人……か」
「ええ。理由は、“適性のある者が見つからないから”……ということになってるけど、私は少し、疑っているの」
「……というと?」
ルシアは一度カップを置き、視線を落としたまま囁く。
「聖女の力を“集中させておきたい”と考える者たちがいる。祈りと癒しという“清きもの”を、一種の“政治的象徴”として利用したい人たちが──」
「……王家の外に聖女が現れれば、“均衡”が崩れるから?」
「それもあるでしょうし、“都合のいい存在”として私一人であることが、いちばん扱いやすいから、かもしれないわね」
一瞬、テラスに静寂が落ちた。
吹き抜ける風が、ルシアの金髪をふわりと揺らす。
「……そっか。だから、アレクシスが動いてるんだ。聖女の負担を分け合える体制をつくるために」
「彼は、そういう男よ。冷静で、理性的で……時々、人をからかって遊ぶことがあるけど。」
「そのかわり、見えない圧力とか、そういう“空気”を察するのは得意だよね」
ルシアはゆっくりと頷いた。
「だからこそ、彼が真奈の存在に注目しているのが分かるの。癒しの資質を持ち、王家の外から来た、政治に縛られない存在。……それは、“光”でもあり、“脅威”にもなりうる」
「でも、もし誰かがその手を伸ばしたら……」
カタリナの言葉に、ルシアはそっとカップを持ち上げた。
「私は、守るわ。彼女を」
ティーカップに落ちる影は淡く、そして、ひどく静かだった。