プロローグ
──それは、放課後の坂道で
「……っ、真奈。これは……お前、まさか……っ」
突然レオンが顔を赤くして、私に詰め寄った。
「ち、ちが、ちがいます! それ、回復薬のつもりでっ!」
「どう見てもこれは“普通”じゃない。身体が……熱い。お前の声が、やけに綺麗に響いて……」
「わ、わたし、わざとじゃ……ないんですっ……!」
「っ……距離を取らせてくれ。これは……不本意だ……」
あのとき私は、ただ“役に立ちたい”と思って薬を作っただけだった。
なのに――できてしまったのは、“媚薬”。
(どうして、こんなことに……)
――世界が、歪んだのは、ほんの数日前。
さかのぼれば、すべての始まりは――
ひとつの魔法陣だった。
◇ ◇ ◇
下校時刻のチャイムが鳴って、
生徒たちがぞろぞろと校舎を出ていく。
真奈は、その最後尾をゆっくりと歩いていた。
肩にかけた鞄は軽いけれど、心は少しだけ重たかった。
(……今日は、ちゃんと話せなかったな)
友達と話していても、どこか自分だけずれているような感覚。
空気を読んで、流されて、合わせて……それでうまくいってるはずなのに、
ときどき、心がぽつんと取り残されてしまうような。
「……ま、明日また頑張ればいいよね」
独り言をこぼしながら、いつもの坂道を下る。
西陽が斜めに差し込んで、アスファルトに長い影をつくっていた。
ふと、どこか懐かしい風の匂いが、記憶をよみがえらせる。
――潮風だった。
「……紘太くん……」
胸の奥が、そっと痛む。
その名を、もう声に出すこともなくなって久しい。
彼は、真奈の幼馴染だった。
近所に住んでいて、よく家を行き来して、夏は虫捕り、冬は雪合戦。
同じランドセルを背負って、校門まで一緒に歩いた日々。
口喧嘩をしても、すぐ仲直りして、
「真奈は泣き虫だけど、強いんだから」って、真っ直ぐな目で笑ってくれた。
――あの日も、彼は笑っていた。
家族ぐるみで出かけた、夏の海。
紘太と、彼の姉の綾さんと、そして真奈。
「おーい真奈! こっちまで来てみろよ、すっげー冷たいぞ!」
「ちょっと紘太くん、そこ波強いってばー!」
笑い声が絶えない、青くてきらきらした時間。
けれど、楽しかったその時間は、突然崩れた。
強くなった潮の流れ。
思ったよりも沖に出ていた二人が、波にさらわれた。
「真奈、戻ってて! 紘太が……!」
綾さんが叫んで、海へ飛び込んだ。
その後ろ姿を、真奈は動けずに見ていた。
――どれだけ時間が経っただろう。
砂浜に残されたのは、叫びと泣き声と、潮騒だけ。
紘太も、綾さんも、
どちらも、帰ってこなかった。
「うそ……やだ……いやだよ……っ、返して……!」
泣き叫ぶ真奈の声も、海は何も答えなかった。
(――きっと、あのとき私がもっと早く気づいていれば)
(――私が代わりに……)
後悔だけが、焼きついた。
時間が経つほどに、思い出は美しいまま閉じ込められて、
余計に心を締めつける。
だから、真奈はその記憶をそっと心の奥に沈め、
その名前を、もう口にすることもなくなった。
けれど今日の空と風は、何もかもを思い出させた。
きっと、ずっと忘れられなかったんだ。
あのやさしい声も、いたずらな笑顔も、手のひらのぬくもりも。
「……紘太くん」
かすれるように名前を呼んだそのときだった。
風がふわりと吹いて、制服のスカートが揺れる。
そして、次の瞬間。
――ぴたり、と風が止んだ。
「……え?」
まるで、世界の音がすべて消えたような感覚。
ざわつく車の音も、鳥のさえずりも、人の足音も。
空気が、ぴんと張りつめたように重くなる。
(なに……?)
立ち止まった足元に、淡く光る紋様が浮かびあがっていた。
幾何学的な円の中に、複雑な文字と図形が組み込まれた――まるで、どこかのファンタジーゲームで見たような、魔法陣。
「えっ、なにこれ……? 落書き……?」
触れる間もなく、その光が急激に強まる。
眩しさに目を閉じたその瞬間――
世界が、反転した。
重力がぐらりと傾き、足元の感覚がなくなる。
「えっ……ちょ、まって――きゃっ!!」
落ちるような、浮かぶような、不思議な感覚。
目の前には色とりどりの光が舞い、耳には自分の心臓の音しか聞こえない。
そして次に目を開けたときには――
そこはもう、彼女の知っている現実ではなかった。