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縁起外伝~宵待ちの螢~  作者: 熊掛鷹
第三章:追光の山路
9/25

「焦がれた月を追い、螢は山路を駆けた。されど、その先に待っていたものは、あの光のように優しいものではなかった――誰も、その灯が命を焼くほど激しく脆いことなど、知るはずもなかったのです」

 巫の篠の声が、奥山の夜に淡く溶けていた。白衣(びゃくえ)の裾が欠けた月影をくぐり、風にそよいでいる。

 掌を胸に添え、そっと目を伏せるその仕草は、魂へ語りかける祈りのようだった。

 傍らの山伏は錫杖(しゃくじょう)を携え、目を閉じて耳を澄ます。

 環の鳴る音が夜風に乗り、静かに闇の奥へと遠ざかった。


 ――語られる命語(いのちがた)りは、まるで忘れられた祈りに声を還すために紡がれているかのようだった。


* * *


 良宵が高野山へ旅立ってから、三たびの季節が過ぎた。

 良宵の背を見送った秋、紅葉は風に舞い、空に散った。雲母坂を白く閉ざした冬は、祈りの声さえ雪に溶かしていった。

 そして今――春の桜が、風に乗って咲き、風に乗って消えてゆく。

 四季はめぐれど、叢雲寺の堂に満ちる風は、あの日のまま。ただ、良宵の不在が冷たい風のように吹き抜けていた。香炉の灰が畳にこぼれ、仏具の金箔さえ、どこか色褪せて見えた。

 蠟燭の炎が、弥勒如来の御影を壁に映す。揺らぐたびに光と闇が交錯し、その影は――未来を待つ静寂のように沈黙していた。

 俺は、光ではなく、その影を見つめていた。

 闇に宿る淡い揺らぎの中に、何かを探すように、ふと口を開いた。

「迷いを抱く心――これすなわち、空を映す器。祈りに形はなく、ゆえに痛みに寄り添う。光は咲き、影は消える。咲いては消えるものに、果たして実体はあるか。空に揺らぐ灯は、誰のために咲くのか……ただ咲いて、ただ消える――それでよいのか」

 応える声はどこにもなかった。

 蠟燭の微かな音だけが、堂内の静寂を撫でていた。

 良宵なら、どのように答えただろう……返らぬ言葉は、灯の揺らぎの奥に、そっと沈んでいった。


 僧童のひとり、宵岸はこの春、初めて比叡へ修行に上ることとなった。教学に励めるよう、信楽様がご配慮くださったのだ。俺は延暦寺まで宵岸を送り届ける役目を仰せつかった。

 登山の最中、宵岸は初めての登山に緊張を滲ませていた。俺はその凍てた顔をほぐそうと、他愛もない話で笑わせた。比叡の山路を踏みしめながら、宵岸の笑みが少しずつ戻るのを見て、胸の奥に小さな安堵が灯った。

 延暦寺に着くと、顔馴染みの僧らが快く迎えてくださり、ようやく肩の力が抜けた。

 帰り道、暮色の空を仰ぐ。山の端が紫に沈み、空気が一瞬、凍る。

 鳥の声が消え、風が止み、音が奪われたような静寂が訪れる。その刹那、ふと――童鬼の眼差しが脳裏を掠めた。

(今ここで童鬼が出たら……俺には何が出来るのだろう)

 胸の奥でざわめく不安が、夕焼けの薄闇に溶けていく。だが、何も起こらなかった。ただ、遠く延暦寺の鐘が、風に乗って微かに響いた。

「……良宵。お前は今、紀伊の高野でこの空を見ているのだろうか」

 良宵の清らかな瞳、日輪に似た微笑みが、胸の奥で淡く揺れた。俺は目を伏せ、山路を下り続けた。

 叢雲寺の門前に着いたとき、山霧が濃く立ち込めていた。門の向こうで、蠟燭の灯が遠くに揺れている。冷たい霧が法衣を濡らし、足元の石畳に影を落とす。堂の方から、僧侶たちのざわめきが風に乗って届いた。

「良宵なら、死霊を祓えたのに……」

「天満月の光が、恋しいものだ……」

 その呟きは、まるで霧そのもののように、俺の胸に重く沈んだ。良宵の不在は、灯を失った夜のようだ。宵岸の笑顔も比叡に残してきた。

 寺に満ちるこの虚無は、俺の心の影を映しているようだった。

 堂に足を踏み入れると、蠟燭の灯が再び弥勒如来の御影を壁に映す。その光に呼応するように、堂の壁がゆらぎ、影が生まれた。

 光の欠片が形を失い、闇と融け合ったような存在――まるで俺の胸に宿る「虚無」が、姿を持って現れたかのようだった。

 京の鬼門に位置する叢雲寺では、夜が来るたび、魑魅魍魎(ちみもうりょう)がどこからともなく湧き出づる。壁に伸びる影は、死霊の囁きを帯び、冷たい手で灯を掴もうと這う。

 信楽様が数珠を握り、鋭く目を向けると、影が一瞬凍りつき、静まる。だが、視線を外すと、影は再びゆっくりと蠢き始める。僧らは妖の気配に怯え、震える手で数珠を握り、目を伏せた。俺もまた、死霊の影に背を縮め、俯いた。


 堂の外では、雨が幾度も山を濡らし、青葉が濃く茂っては、また散った。夏の雷鳴が谷を震わせ、蝉の声が一日を焼いた。

 やがて風が変わり、彼岸花が崖に灯をともす頃――山の夜は再び静まり返っていった。

 季節はめぐれど、堂に宿る闇の深さは変わらなかった。俺の胸のうちもまた、光と影の境を見失ったままだ。


 良宵が叢雲寺を出てから、一年が過ぎようとしていた。

 この頃の俺は、加持祈祷(かじきとう)の役を仰せつかっていた。

 村人の病床に立ち、札を掲げ、経を唱え、香炉の煙にそっと祈りを託す。その日々は、苦に寄り添い、言葉に耳を傾けながら、まるで――良宵が残した灯の痕を、指先で確かめるようなものだった。

 だが、感謝の言葉を受けようと、手を合わせられようと、俺自身の中には「届いた」という実感がない。祈りは声となって流れていく。けれど、それが誰かを救えたか、確信はなかった。


 あの光――良宵が纏っていた魂に触れる光には、まだ遠すぎる。いくら経を重ねても、母を救えなかった穢れた俺には、届かない。

 焦りが胸を灼く時は、いつだって五歳のあの日の絶望が、鮮やかに蘇った。祈りでは救えなかった命。あの時、手を伸ばしても温もりは遠かった。

 時が裂け、声が消えた――掴めなかった命の形が、今も俺の掌を冷たくしている。


 ふと、心に光が過った。

 良宵なら――どうしただろう。

 迷いが生じるたび、俺の胸に灯るのは、いつだって「龍華良宵」という光だった。その光は、優しくて、遠くて、眩しかった。


 良宵ならば、どうしただろう。

 良宵ならば……その問いが、俺を焦らせた。


 ――その夜。加持祈祷の法務を終えた俺は、額に汗を滲ませ、堂の奥へと足早に向かった。

 秋の夜気が僧坊に染み入り、法衣の裾がかすかに揺れている。叢雲寺の講堂には、宵の一門の弟子たちが静かに坐していた。皆、蠟燭の灯だけを頼りに、信楽様の説法に耳を傾け、息を潜めて己の業に沈む静けさに浸っていた。


 蠟燭の炎が低く灯り、木の柱には弥勒如来像と歴代の高僧の影が淡く落ちている。

 信楽様は座布の上に膝を折り、静かに数珠を握っておられた。その背は僧形の中でもひときわ揺るがず、堂の闇に溶け込む威厳を湛えている。

 俺は、その場の気配に一瞬だけ躊躇した。だが、心の焦りがそれを押し流す。弟子たちの間を縫うように進み、灯の揺れの中心へ歩を進める。

 信楽様の前に進み出た瞬間、蠟燭の火が風もないのにふと揺れ、俺の影を長く伸ばした。俺は深く額を下げる。

「信楽様……どうか、この螢雪にも、良宵様のような修行の機会をお与えください!」

 声が震える。息が、熱に変わる。その熱が、掌を焦がした。肩がわずかに震え、堂の闇に揺れる蠟燭の灯が、俺の願いを掬うように揺らめく。

 一瞬、堂の空気が凍った。俺の言葉が、沈黙を切り裂く刃のように、信楽様の説法の余韻を断ち切ったのだ。蠟燭の光が一瞬揺らぎ、仏像の影が壁に揺れる。

 一門の弟子たちが、驚きと戸惑いに顔を上げる。ざわりと衣擦れの音が重なり、誰かが小さく息を呑み、誰かが袈裟の裾を握り直した。感嘆とも不安ともつかぬ視線が、堂の前方に集まる。

 信楽様は、しばし沈黙した。その視線が、炎越しに俺の魂を透かすように向けられ、堂の静寂を重くする。数珠が、僅かに鳴った。カチリ―― 硬質な音が、冷えた空気を震わせ、静寂に響き合う。

「その願い、なぜ今、堂の闇で声にされたのか。ご自身の言葉で語っていただけますか?」

 声音は変わらない。静かで、凪いでいる。だが信楽様の一言は、俺の内に積もっていたものを堰を切るように解き放った。

 俺は、喉の奥に残っていた焦りを、震える声と握り潰した拳に変えて吐き出した。心を覆っていた苛立ちも、疑念も、五歳の夜に母と別離したあの日から遠ざからない絶望も、全てを言葉にはできず、ただ祈りのようにこぼれていった。

「母が惨殺された夜を祓えなかった俺には、神仏も死霊も見えません。このような俺が加持祈祷を行ったところで、意味はあるのでしょうか? 俺は凡人です。良宵のような天賦の才も、信楽様のような慧眼も持たぬ者です。霊験あらたかな地に身を置き、五体を捧げ一身に修行をすれば、見えぬ世界を感じ取れるやもしれません!」

 信楽様は蠟燭の灯を見つめ、静かに言葉を紡いだ。数珠が再びカチリと鳴る。

「我ら人は、皆、凡人なのです。だからこそ――御仏の慈悲は、我らの手に届く。才を得る者ではなく才を求める者にこそ智慧は授けられる。渇きを抱え、なお光を求めて歩む者――その歩みの途こそすでに道標であり、その渇きこそが御仏に最も近い祈りなのです」

 数珠の音が、ひとつ、静かに鳴った。堂の空気が、わずかに震えた。

 蠟燭の灯が風もないのに揺らぎ、弥勒如来像の影が壁に淡く伸びる。その静けさの中で、俺の胸に渇きが疼いた。

 理では癒えぬ痛みが、言葉にならぬまま喉の奥で熱を帯びる。俺は拳を震わせ、言葉を返す。

「それは……論のひとつにすぎません! 俺が求めているのは、正しさではありません……俺は……俺はっ!」

「……貴兄は、良宵さんの光に心を奪われているようですが、あの光が射す先に、どれほどの業が重なっているか――まだ、ご存じではないようですね」

 数珠の玉が、再びひとつ、静かに鳴った。蠟燭の炎がかすかに揺れ、信楽様の影が壁を撫でる。まるで、言葉では語れない重さが空間を満たし、俺の心が、無言の圧に晒されるようだった。

 沈黙の中で、その声が続いた。

「良宵さんは、衆生のために灯を掲げる者。その光は、誰にも見えぬ孤路を照らし、己を捨ててなお衆生を導くものでしょう。ですが、灯を掲げる者もまた、闇に触れています。闇を知らぬ光は、人を導くことはできません。希望を担う者も、手を差し伸べられるべき存在なのです。貴兄も、ここに集う一門の者も――そして、この私も。いずれも、救いに向かう旅の途上にあることを……どうか、忘れぬように」

 喉の奥はひりつくほどに乾いていた。絞り出した声は擦れ、言葉よりも熱が先に立つ。噛んだ唇に滲む血の味が、過去の痛みを呼び覚まし、拳を握る手に汗が滲む。それでも俺の目は涙を許さず、炎の奥―― 堂の闇にたたずむ信楽様を、真正面から見据えた。

 信楽様の言葉が胸に刺さり、俺は自分が焦がれていることを知った。心は震えてなどいない。ただ、燃えている。良宵の光に、ただ触れたいと、願っていた。それが業であろうと、届かぬ希望であろうと、この願いは、決して引き返すことを知らない。

「俺は、良宵の光を追いたい。あの夜、母の手が闇に沈んでいった瞬間――届かなかった灯を、今度こそ、自らの手でともしたいのです!」

 堂の空気に言葉が染み渡るのを、信楽様は静かに待たれていた。やがて、数珠に添えていた指先をふと緩めると、炎の揺れへと視線を落とされた。

 その目は、灯を見るのではなく――灯に語りかけるように、俺の願いと向き合っているようだった。木霊のような沈黙のあと、信楽様は顔をほんのわずかに上げ、俺に向けてゆるやかに言葉を紡ぐ。

「今の貴兄は、焦りに心を奪われ、己の足元さえ照らすことができていない。そのまま進めば、やがて迷い人となり、闇に呑まれてしまうでしょう。それを承知でなお、願いを受け入れることは―― 残念ながら、今の私にはできません」

 堂の蠟燭が一瞬揺れ、俺の影を長く伸ばす。良宵は認められ、龍華の名を授かった。俺は、認められなかった。

 この一年、俺は何を得たのか? 何も変われていない。祈っても届かない。見えない世界に触れられない。このまま時が過ぎるのは耐えられない。

 堂内には、沈黙だけが満ちていた。蠟燭の灯が、ひとつ、またひとつとゆらぎ――その炎が、何かを告げようとしているようにも見えた。息を整えるたび、胸に残る熱が静かに形を変えていく。足元に伸びた影が、俺に囁いてくる―― それでも、進めと。

 信楽様の言葉が胸に刺さり、なお俺を突き動かす。

 願いが拒まれた瞬間、胸の奥で何かが崩れた。だが、それ以上に――何かが、静かに立ち上がった。

 他者の言葉に寄りかかっていた心が、堂の闇を踏みしめ、己の輪郭を見つけたのだ。


 もう、頼るだけでは足りない。光を追うだけでも、足りない。俺は、灯を持つ者になりたい。その灯が震えていたとしても、揺れていたとしても、俺自身のものであるなら――それは、歩む力になる。

 この一歩が、闇を照らす灯であるように。そう祈るようにして、俺は静かに歩き出した。

 堂の闇を背に、ゆっくりと足を踏み出す。

 石畳に響いた足音が、誰もいない空気の中で静かに反響する。叢雲寺の門を越えた瞬間、秋の夜風が頬を撫で、月影が石畳に落ちた。竹林が風にざわめき、その音はまるで、発心(ほっしん)の鐘の余韻のようだった。

 法衣を握り締めた掌に、信楽様の言葉が微かに残っていた。それでも、振り返らなかった。

 蠟燭の灯が、まだ背中を照らしている気がした。その灯が、長く伸びた影を闇へと落としながら――まるで、俺という灯の輪郭を描き出しているようだった。


 良宵の笑顔が、胸の奥で揺れた。

 あの十年、良宵と並んで歩いた記憶が、今の歩みに重なってゆく。

 だが――俺は今、一人だ。誰の後ろでもない。誰の隣でもない。

 それでも、この一歩が俺の灯となるよう――俺は、信じて、歩んでゆこうと誓った。

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