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縁起外伝~宵待ちの螢~  作者: 熊掛鷹
第二章:鏡に映る、名も無き灯
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 秋が深まり、雲母坂(きららざか)の紅葉が、燃ゆる灯のように染まる。その背後に悠然と佇む比叡(ひえい)霊峰(れいほう)が、朝日に淡く輝き、まるで良宵の門出を静かに祝福しているかのようだった。


 秋の霜が石畳にきらめき、陽の光を受けてほのかに溶ける。竹林の梢が暁の淡い月に揺れ、早朝の清浄な空気をそっと抱いていた。

 叢雲寺の門前では、(よい)一門(いちもん)の僧らが列をなし、良宵との別れに心を寄せていた。

 叢海様と信楽様の姿がないことに、俺はふと気づく。だが、お二方らしいと思った。導師と首座が居れば、弟子らはかえって身を固くするだろう。俺たちに良宵を見送る静かな機会を――そっと与えて下さったのかもしれない。

 僧らは数珠をそっと握り、静かな合掌とともに読経を唱え、旅の無事と修行の成就を祈った。その声は、朝の風に溶けていった。

 遠く、季節外れの風鈴が小さく鳴っていた。それは、先達の祈りを継ぐ縁の音のようにも、無常を囁く調べのようにも聞こえた。


 良宵は黒衣(こくい)の旅装束を風にそよがせ、袈裟の裾を軽く整えながら、朝の光に身を包んで佇んでいた。

 その清らかな姿は、弥勒(みろく)の慈悲を映し、高野山へ向かう静かな覚悟を湛えていた。穏やかな瞳で一門を見やり、かすかに微笑むその姿は、門前の僧らの心に深く刻まれた。

 揺れる彼らの瞳に宿るのは、言葉にできぬ別れの悲しみか、それとも良宵の誓願を尊ぶ敬慕の想いか。俺には、僧たちの内にある想いを推し量ることはできなかったが、その両方が静かに交錯しているように思えた。

 良宵の瞳が、集まりの後方に佇む俺にそっと留まった。その瞬間、朝日の柔らかな光が穏やかに良宵を照らし、清らかな微笑みが浮かぶ。深い慈悲に満ちたその眼差しは、俺の胸に静かな波を立てた。

 なぜか、この別れが、戻れぬ何かの始まりであるように思えた。


 良宵はゆっくりと俺に向かって歩み寄ってくる。

 柔らかな光が袈裟の裾をそよがせ、俺と良宵のあいだを白い蝶が横切った。光に透ける翅が、一瞬、祈りのかたちを描いて、消えた。その儚さが、なぜか胸の奥に静かに残った。

 消えた蝶のあとを追うように、静かな風が石畳を撫でていく――その中で響く良宵の足音は、まるで祈りの調べのように静謐で、門前の灯籠の薄明かりにその身がそっと揺れた。

 十年分の(えにし)を胸に秘め、高野山への道を踏み出す覚悟が、その一歩一歩に静かに宿っているように思えた。

 俺はただ立ち尽くす。良宵の光に触れる資格があるのか――この瞬間でさえも、迷いの中にいた。

 良宵は俺の前でひそやかに立ち止まった。

 優しさに満ちた瞳で俺を見つめ、口元にわずかな微笑みを浮かべて言った。

「螢雪――お前は私の朋友(ほうゆう)だ。この十年を耐えられたのは、お前の灯が傍にあったからだ」

 良宵の言葉は、秋の朝風のように穏やかだった。俺の名を呼ぶ声は、祈りの調べのように響き、仏の慈悲を宿していた。だが、その慈悲が、母を救えなかった過去に縛られた俺の影を、なおさら濃くする。

 祈りを捧げる資格のない俺を、良宵は『朋友』と呼んだ。その声が、俺の影すらも肯定した。それは、温もりに満ちていながら、逃げ場のない慈悲の炎に焼かれるようでもあった。

 その信頼は、胸の奥に痛みを残しながらも、今はただ受け入れるしかなかった――旅立つ者に、弱さを見せるわけにはいかなかったからだ。だが――

「良宵……俺は……」

 声が震え、言葉が喉の奥で崩れた。良宵の姿は、触れられぬ月のようで、その輝きに晒されるたび、俺の影は激しく揺らぐ。良宵の法衣が朝風にそよぐたび、その姿が、遠ざかる光のように思えた。

 良宵がいなくなれば、俺は過去の闇に沈むだろう――その予感が胸を締めつけた。拳を握っても、そこに祈りは生まれず、ただ祈れぬ影だけが響いた。

 それでも俺は、光の側に立つ者の(かお)を装い、言葉を絞り出すように告げた。

「お前の道を、我が心にて祈念する。兄弟子として」

 あまりにも脆く、浅く、痛々しい響きのように思えた。

 良宵へ返した微笑みには、崩れかけた闇と、祈れぬ影が、鏡のように映っていた。兄弟子としての誇りにすがるその貌は、ただの虚飾にすぎなかった。

「ありがとう、螢雪。必ず修行を完遂して戻る。しばしの別れだ」

 良宵が俺を通り過ぎる。その歩みは、風さえ踏まぬほど静かだった。

 竹林が秋の風に揺れ、風鈴がひとつ、ちりんと鳴った。

 俺は振り返り、良宵に手を伸ばしかけた。だが、その手を胸元に引き、祈れぬ影をそっと握りしめた。旅立つ朋友を気遣う心だけは――せめて、偽りなく。


 良宵は叢雲寺の門をくぐり、霧深い参道をゆっくりと降りてゆく。

 石畳に朝露が淡く光り、黒衣の裾をひそかに濡らす。遠くで梟が鳴き、朝の静寂が良宵を慈悲深く包み込んでいく。

 良宵の後ろ姿を見つめながら、俺は八つの時の光景を思い出していた。

 ――良宵が横川に向かうと決まったあの日……最初に修行の道が分かれたあの時も、同じような秋の早朝だった。


 洛北から比叡山の麓まで、俺たちは幾度となく山道を踏みしめた。だが、良宵はかつて、俺の背を見送るように微笑み、こう言った。

『螢雪――これから、しばらく別の道を歩もう』


 あの言葉の意味を、当時の俺は深く考えなかった。良宵が横川の荒寺に籠り、山中で孤独な修行に入ったと聞いても、俺は己の修行に没頭していた。ある夜、信楽様の机に置かれた紙の端に、良宵が横川で記したと思われる祓法(はらいのほう)の走り書きを見た。

『死霊、穢れ、執念、魑魅魍魎――九字(くじ)を刻み、祈念(きねん)を灯し、命の芯に届かせる。』

 良宵は人づての術ではなく、闇と向き合い、祓法(はらいのほう)を独学で修得していた。横川の静寂を選び、夜ごと岩窟に籠り、彷徨う霊魂に耳を傾けたという。

 祈りを得られぬまま漂う霊に寄り添い、呪力でその苦しみを導いた。

 経典なき祈りを、闇の奥でそっと咲かせた。

 良宵は名を求めなかった。ただ「祈られぬ者」に灯を届けたのだ。

 闇に沈む霊魂に、弥勒の慈悲を宿す加持の灯を捧げた。祓いではなく導き、封印ではなく受容。それが良宵の修行だった。

 そして、今日という朝――叢雲寺の門を発つ良宵の背には、十年の祈りが静かに宿っていた。俺は門前に立ち尽くし、良宵の背を見つめていた。輝きが遠ざかるたび、血の記憶が胸に疼いた。

 良宵の歩みは霧に溶け、音も色も次第に薄れていった。

 その姿は、朝霧にかすむ若葉のように、静かに遠ざかっていった。

 涙が零れた。

 石畳に落ちかけた雫を、俺は手のひらでそっと受け止め、指先に閉じ込めた。 この弱さを、良宵に見られずに済んだことが、せめてもの救いだった。

「螢雪さま……大丈夫ですか?」

 宵岸が俺を見上げて言った。俺は「あぁ」と頷き、手で顔を覆った。

 足元に、秋の螢が一瞬光った。枯れ葉の隙間を漂うその儚い光は、まるで俺の僧名を宿す願いのようだった。

 闇に咲く灯は、名を持たぬ者の祈りを、ひそやかに照らしていた。

「螢雪さま、明日はいかなる語りをお聞かせくださいますか?」

  宵岸が俺の衣の裾を、不安げに掴んだ。揺れる瞳は、幼き日の良宵の眼差しと、静かに重なり映った。

 ――俺は、良宵の喪失の闇を、この手で照らしたいと願った。それは、父母より授かった名を捨て、「螢雪」の僧名を戴いてから、初めて胸に灯った願いだったのだ。

 宵岸の瞳を見て思い出すことができた。あの夜、幼き良宵に差し出した掌の温もりを。祈ることはできずとも、願うことならば――それで十分だった。

 俺は涙を拭い、宵岸に微笑みかけた。

「宵岸はどのような語りが聞きたい?」

「良宵さまと、比叡に登られてどのような修行をされたのかを語っていただきたいです。この宵の一門で、良宵さまと共に修行をされたのは、螢雪さまだけですから」

 その言葉に、胸の奥が静かに揺れた。

 俺は……良宵と共に修行できる日を、ずっと願っていたのだ。

 その願いは、離れたくないという叫びとなり、言葉にならぬ涙となって、こうして流れ落ちた。

 誰にも見えぬはずの俺の願を、宵岸はひそやかに見つけてくれたのかもしれない。

 俺は膝を折り、宵岸と視線を合わせてから、そっと頭を撫でた。その瞳に映る自分が、少しだけ祈れる者に見えた気がした。


 願いは灯火のように儚い。けれど、秋の風に揺れながらも、消えずに残る。

 眩しさに目を伏せることもできる。だが、俺はこの闇の中でも顔を上げようと思った。それが、いつか光に向かう道になると信じて。

 今は良宵の背に届かなくても、いつか肩を並べて語り合える日が来る。

 その憧れが届かぬ夢でも――良宵と共に修行できる日を願い、己を磨く――その願いこそが、闇に在る俺の灯だった。



* * *


「焦がれた月を追いかけようと心に決めた彼を、誰が責められるのでしょう。いえ、責められることはありません。決して――」

 篠の鏡が、夜の底で静かに光った。揺れる光は、秋の夜に瞬く螢のようだった。篠は微笑む。

「彼の灯はまだ名を持ちません。名を持たぬ灯は、まだ誰にも祈られていない――それだけのことなのです」

 山伏は、篠の瞳に宿る欠けた月を見つめ、目を細めた。

「巫よ、彼の灯は本当に咲くのだろうか」

「さぁ、どうでしょうね。けれど、篠は咲くと信じているのです」

 彼女は鏡を見つめた。その面には、風にほどけた光が一筋、記憶のように流れていた。

 山伏は思う。巫の言葉は、闇を映す。


 螢雪の旅は、光か、業か。

 それでも――灯は咲いた。

 虚空の狭間で、ひとつの意識が揺れていた。

 篠の命語りに、山伏は静かに思いを馳せた。

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