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叢雲寺の拝殿は、木造の梁が静かに軋む。蝋燭の灯が香煙に揺れ、仏像の影を霞ませている。秋の月光が堂の窓から差し込み、畳に淡い輪郭を描いた。外では秋の霜が竹林に降り、梢が月下で囁くよう。
遠く、季節を越えた夏の風鈴がチリンと鳴り、祈りを運ぶように響いていた。
本堂から漂う空気は、いっそう清らかで、静謐な気配が満ちていた。堂内の灯が揺れ、香煙が漂い、最奥に安置された本尊・弥勒如来像が、静かにこの場を見守っているようだった。
良宵は若草色の袈裟をまとい、弥勒如来像を仰ぐように静かに座していた。その正面に座す叢海様と信楽様は、二人とも良宵の覚悟を見据えていた。
三者の視線が交差するその場に、蝋燭の灯が揺れ、祈りの気配が満ちていた。俺は、一門の僧たちと共に脇に控え、息を潜めてそのやりとりを見守っていた。
叢海様は、香炉から立ち上る煙を指先でそっと撫で、微笑を含み、慈しみ深く語りかけた。
「良宵、そなたはこれより紀伊の高野山へ参る。
力ある者がその力に呑まれぬためには、導きが要る。
金剛峯寺の別当殿より、ぜひにとご指名を賜った。
教学阿闍梨・覚明様のもとで術の理を学び、心を修行の灯にて磨きなさい」
「斯くも尊き機会を賜り、光栄に存じます」
良宵が深く頭を下げた。信楽様の手に握られた数珠がカチリと鳴り、その音が堂内の空気を清め、試練の気配を呼び込む。信楽様は、まるで良宵の覚悟を試す刃のように、言葉を紡いだ。
「高野の聖地は、弘法大師空海上人が開きし密教の根本道場。
天地の理を解し、衆生を救わんとする試練の地。
一子相伝の秘儀を継ぐ門を潜れば、行を終えるまでは下山も許されません。
修行途上で命尽きた法弟も少なくはないでしょう。
良宵さん――貴兄にその覚悟はありますか?
心身を、いえ、命を修行に捧げる気魄はありますか?」
信楽様の声は穏やかだが、鋭い光を帯びていた。蝋燭の灯が彼の影を長く伸ばし、堂の壁に揺れる。良宵は静かに目を上げ、信楽様と叢海様を見据えた。その瞳は、天満月の輝きを宿し、清浄な覚悟を湛えていた。
「私は修行に命を捧げることはできません」
数珠の音が、再びカチリと鳴る。信楽様は目を細め、良宵の言葉の確かさを探るように見つめていた。
「命を惜しみ……修行を退かれるおつもりでございますか」
「そうではありません」
良宵の声は、清らかな水のように堂内に響いた。
「命を仏のために捨てることは、私の本願ではありません。
仏より賜りし命は、我が身のために費やすものではなく、生きとし生けるものが安らぐためにこそ、用いるべきものだと信じております。
──これが私の願にして、衆生済度こそ我が誓願。
出家の身とはいえ、命を捧げるためではなく、命を灯すために、仏の道を歩む覚悟にございます」
信楽様の瞳は良宵の言葉を静かに受け止め、試すような鋭さをそっと解いた。その瞳には、柔らかな優しさが宿り、ほのかな寂しさが揺れているようだった。
叢海様は目を細め、満足げな笑みを浮かべる。蝋燭の灯がその顔を照らし、香煙が穏やかに揺れる中、弥勒如来像の慈悲深い視線と響き合う。
まるで良宵の言葉が宵の一門の祈りの灯を、新たな光で満たしたことを確信したかのように。
「草木は揺れど、根を忘れず。
命は風に散るとも、願いは土に残る。
そなたの父、良治先生の志こそが、今日まで小さき灯を守り育てた根である。
龍丸――その名を越えて、よくぞここまで育たれた」
叢海様は、静かに息を吐きながら良宵を見つめていた。その眼差しには、時を越えて積み重ねられた祈りと、深い感慨が滲んでいる。指先が膝の上でわずかに動き、言葉にならぬ思いが、場の静けさに溶けていく。香炉から立ち上る煙が、宵の一門の祈りと重なりながら、ゆるやかに漂っていた。
「……その深き志こそ、不惜身命の修行を重ねし今のそなたを成した根源にほかならぬ。良治先生の志を胸に抱き、弘法大師の御前にて行に励むがよい。宵の一門より旅立つそなたに──『龍華良宵』の名を授けよう」
良宵が両手をついて、深く頭を下げたその刹那……堂内の空気が一変し、脇に控える僧たちの息遣いが止まる。まるで、仏の御前に新たな光が生まれたかのようだった。
「御教誡、胸に刻みました。
『龍華良宵』の名を灯として、父母より繋がれし命を徒らに落とすことなく、衆生済度の願をもって修行に尽くしてまいります」
堂の奥に、秋の月光がそっと触れ、祈りの気配が、沈黙の中で脈打っていた。
――俺は黙してその光景を見つめていた。
兄弟子や僧童たちは、良宵の旅立ちを祝福し、祈りの灯を捧げるように喜んでいた。
俺は良宵の誓願を耳にした刹那、頭を鈍い拳で殴られたかのように、心を打ち砕かれた。言葉が身体の奥深くまで響き、呼吸すら忘れた。
――衆生済度。世と人のための命。
良宵は、自分を救うために修行をしていたのではなかった。その命を、“他者を救う器”として扱おうとしている。俺は、そんな祈りに触れたことすらなかった。
十年を共に並んで歩んできたと思っていた。しかし、その十年は、俺にとって“寄り添う時間”だったが、良宵にとっては“仏に至る時間”だったのだ。それに気づいた瞬間、蝋燭の灯が遠ざかり、俺の心に影を落とした。
十年の中で、離れて修行をした時期もあったが、心はずっと隣にいたつもりだった。だが、俺が隣にいると思っていたその時も、良宵はずっと、遥か彼方を目指していた。
突然、幼き日の惨劇が閃く。
鳥居に飛び散る血、母の悲鳴、幼き俺を抱く腕の震え――
その全てが、一瞬にして胸を裂いた。
このまま俺は、過去の縛りから逃れられないのだろうか。
――龍華良宵。
それはもはや、仏伝や経典に記される光のような名だ。衆生を導く者として讃えられるために記される名であり、ただの僧ではなく、“祈りの器”として語られる存在になってゆく。すでに「天満月の僧」として異名を持つ良宵に、さらに“龍華”の名が与えられた。
月に龍華の花が咲き、法の座を得た――過去に囚われたままの俺に、いったい何が灯せるというのだろう。
堂内の月光が、答えを探すように、俺の影を静かに揺らしていた。




