表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
縁起外伝~宵待ちの螢~  作者: 熊掛鷹
第二章:鏡に映る、名も無き灯
7/29

 叢雲寺の拝殿は、木造の(はり)が静かに軋む。蝋燭の灯が香煙に揺れ、仏像の影を霞ませている。秋の月光が堂の窓から差し込み、畳に淡い輪郭を描いた。外では秋の霜が竹林に降り、梢が月下で囁くよう。

遠く、季節を越えた夏の風鈴がチリンと鳴り、祈りを運ぶように響いていた。

 本堂から漂う空気は、いっそう清らかで、静謐(せいひつ)な気配が満ちていた。堂内の灯が揺れ、香煙が漂い、最奥に安置された本尊・弥勒如来像が、静かにこの場を見守っているようだった。


 良宵は若草色の袈裟をまとい、弥勒如来像を仰ぐように静かに座していた。その正面に座す叢海様と信楽様は、二人とも良宵の覚悟を見据えていた。

 三者の視線が交差するその場に、蝋燭の灯が揺れ、祈りの気配が満ちていた。俺は、一門の僧たちと共に脇に控え、息を潜めてそのやりとりを見守っていた。

 叢海様は、香炉から立ち上る煙を指先でそっと撫で、微笑を含み、慈しみ深く語りかけた。

「良宵、そなたはこれより紀伊の高野山へ参る。

 力ある者がその力に呑まれぬためには、導きが要る。

 金剛峯寺の別当殿より、ぜひにとご指名を賜った。

 教学阿闍梨・覚明様のもとで術の理を学び、心を修行の灯にて磨きなさい」

()くも(とうと)き機会を賜り、光栄に存じます」

 良宵が深く頭を下げた。信楽様の手に握られた数珠がカチリと鳴り、その音が堂内の空気を清め、試練の気配を呼び込む。信楽様は、まるで良宵の覚悟を試す刃のように、言葉を紡いだ。

「高野の聖地は、弘法大師空海上人が開きし密教の根本道場。

 天地の理を解し、衆生を救わんとする試練の地。

 一子相伝の秘儀を継ぐ門を潜れば、行を終えるまでは下山も許されません。

 修行途上で命尽きた法弟も少なくはないでしょう。

 良宵さん――貴兄にその覚悟はありますか?

 心身を、いえ、命を修行に捧げる気魄はありますか?」

 信楽様の声は穏やかだが、鋭い光を帯びていた。蝋燭の灯が彼の影を長く伸ばし、堂の壁に揺れる。良宵は静かに目を上げ、信楽様と叢海様を見据えた。その瞳は、天満月の輝きを宿し、清浄な覚悟を湛えていた。

「私は修行に命を捧げることはできません」

 数珠の音が、再びカチリと鳴る。信楽様は目を細め、良宵の言葉の確かさを探るように見つめていた。

「命を惜しみ……修行を退かれるおつもりでございますか」

「そうではありません」

 良宵の声は、清らかな水のように堂内に響いた。

「命を仏のために捨てることは、私の本願ではありません。

 仏より賜りし命は、我が身のために費やすものではなく、生きとし生けるものが安らぐためにこそ、用いるべきものだと信じております。

 ──これが私の願にして、衆生済度こそ我が誓願。

 出家の身とはいえ、命を捧げるためではなく、命を灯すために、仏の道を歩む覚悟にございます」

 信楽様の瞳は良宵の言葉を静かに受け止め、試すような鋭さをそっと解いた。その瞳には、柔らかな優しさが宿り、ほのかな寂しさが揺れているようだった。

 叢海様は目を細め、満足げな笑みを浮かべる。蝋燭の灯がその顔を照らし、香煙が穏やかに揺れる中、弥勒如来像の慈悲深い視線と響き合う。

 まるで良宵の言葉が宵の一門の祈りの灯を、新たな光で満たしたことを確信したかのように。

「草木は揺れど、根を忘れず。

 命は風に散るとも、願いは土に残る。

 そなたの父、良治先生の志こそが、今日まで小さき灯を守り育てた根である。

 龍丸――その名を越えて、よくぞここまで育たれた」

 叢海様は、静かに息を吐きながら良宵を見つめていた。その眼差しには、時を越えて積み重ねられた祈りと、深い感慨が滲んでいる。指先が膝の上でわずかに動き、言葉にならぬ思いが、場の静けさに溶けていく。香炉から立ち上る煙が、宵の一門の祈りと重なりながら、ゆるやかに漂っていた。

「……その深き志こそ、不惜身命の修行を重ねし今のそなたを成した根源にほかならぬ。良治先生の志を胸に抱き、弘法大師の御前にて行に励むがよい。宵の一門より旅立つそなたに──『龍華良宵』の名を授けよう」

 良宵が両手をついて、深く頭を下げたその刹那……堂内の空気が一変し、脇に控える僧たちの息遣いが止まる。まるで、仏の御前に新たな光が生まれたかのようだった。

「御教誡、胸に刻みました。

 『龍華良宵』の名を灯として、父母より繋がれし命を徒らに落とすことなく、衆生済度の願をもって修行に尽くしてまいります」

 堂の奥に、秋の月光がそっと触れ、祈りの気配が、沈黙の中で脈打っていた。


 ――俺は黙してその光景を見つめていた。

 兄弟子や僧童たちは、良宵の旅立ちを祝福し、祈りの灯を捧げるように喜んでいた。

 俺は良宵の誓願を耳にした刹那、頭を鈍い拳で殴られたかのように、心を打ち砕かれた。言葉が身体の奥深くまで響き、呼吸すら忘れた。


 ――衆生済度。世と人のための命。

 良宵は、自分を救うために修行をしていたのではなかった。その命を、“他者を救う器”として扱おうとしている。俺は、そんな祈りに触れたことすらなかった。

 十年を共に並んで歩んできたと思っていた。しかし、その十年は、俺にとって“寄り添う時間”だったが、良宵にとっては“仏に至る時間”だったのだ。それに気づいた瞬間、蝋燭の灯が遠ざかり、俺の心に影を落とした。

 十年の中で、離れて修行をした時期もあったが、心はずっと隣にいたつもりだった。だが、俺が隣にいると思っていたその時も、良宵はずっと、遥か彼方を目指していた。


 突然、幼き日の惨劇が閃く。

 鳥居に飛び散る血、母の悲鳴、幼き俺を抱く腕の震え――

 その全てが、一瞬にして胸を裂いた。

 このまま俺は、過去の縛りから逃れられないのだろうか。


 ――龍華良宵。

 それはもはや、仏伝や経典に記される光のような名だ。衆生を導く者として讃えられるために記される名であり、ただの僧ではなく、“祈りの器”として語られる存在になってゆく。すでに「天満月の僧」として異名を持つ良宵に、さらに“龍華”の名が与えられた。

 月に龍華の花が咲き、法の座を得た――過去に囚われたままの俺に、いったい何が灯せるというのだろう。

 堂内の月光が、答えを探すように、俺の影を静かに揺らしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ