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「彼は、名もなき者ではありません。ただ、“祈られなかった者”にすぎません。だからこそ、篠は彼の命を語るのです……あなたが確かにここに存在したことを、証するために」
篠の声が、夜の奥山の闇に静かに溶けた。
山伏は黙して耳を傾けている。
篠の手に握られた面丸鏡は、秋の星屑を映し、かすかな光を湛えていた。
鏡の中、名もなき影が淡く揺らぎ、誰かの祈りを受け取るように息づいている。
風が杉を撫で、遠い夜の底でひとつ、灯が生まれた。
その灯はまだ名を持たず、ただ闇の中で、小さく揺れていた。
巫の篠は、静かに命語りを紡ぎはじめた――
* * *
雲母坂の深緑は、初秋の霞にそっと溶け込み始めていた。
涼やかな風が肌を撫でるたび、夏の名残が静かに洗い流されていく。
叢雲寺の園庭、露を帯びた落ち葉が足元に散る。
俺は僧童らとともに竹箒を握り、静かに落ち葉を集めていた。箒の先が乾いた土を撫でると、冷たさを含んだ葉たちがゆっくりと小さな山となっていく。淡い朝の光が、そのひとまとまりを淡く照らし、秋の始まりを告げていた。
「螢雪さま、明日はいかなる語りをお聞かせくださいますか?」
僧童の一人、宵岸が箒を握りながら俺を見上げた。
俺は僧童らの世話を任されることが多く、修行の合間に、比叡山や師から聞き及んだ話を語るのが習いだった。
宵の一門の多くは、叢海様のご配慮と延暦寺の慈悲により、比叡山へ登り教学を学ぶ機会を得ている。
だが、山を登れぬ僧童らは、この叢雲寺で日々を過ごす。
そんな者たちに、己が知りえたことを語れ――それもまた、叢海様から授かった、俺の修行だった。
俺は宵岸の頭に手を置き、微笑んだ。
「宵岸はどのような語りが聞きたい?」
宵岸は少し恥じらうように俯いた。俺より五つ下、今年十になる少年僧だ。
「陰の修行なるものが存在すると、兄様方が語っておられました。どのようなものか、私も知りたいです」
俺は体をかがめ、宵岸の小さな瞳と静かに目を合わせた。
笑みを絶やさぬよう唇を軽く閉じると、胸の奥にひとしずくの寂しさが滲んでいくのを感じた。
「すまぬな、宵岸。その修行は、俺にも許されてはおらぬ。だから、語ってはやれぬのだ」
期待に満ちた宵岸の瞳が、ほんのわずかに揺れた。その揺らぎに触れた瞬間、俺の胸に小さな罪悪感が灯る。
語れぬことが、まるで嘘をついたように思えて、俺は目を細めた。
「……では、良宵さまなら、語ってくれますか……?」
宵岸は、良宵が陰の修行を歩んでいることを、どこかで感じ取っていたのかもしれない。
だが、良宵がその道について決して語ろうとしないことを、俺は知っている。それは、語ることすら許されぬ祈りの形なのだ。
「……さぁ、どうだろうな。良宵は信楽様に修行の道を教えられたが、信楽様も陰の歩みに関しては口を閉ざされているという。容易に語り得ぬゆえ、陰の修行と呼ばれているのかもしれぬな」
「それは、一子相伝と同じような意味でしょうか!」
宵岸が急に声を張り上げ、俺をまっすぐに見つめた。その勢いに少し驚きながらも、俺は笑みを深めた。
「その通りだ。聡い子だな、宵岸は」
宵岸の頭をくしゃくしゃと撫でると、宵岸の甲高い笑い声が園庭に広がり、秋の空気をやわらかく揺らした。
その笑い声につられ、僧童らが俺たちのそばに集まってくる。
「螢雪さま、何を語ってるの?」と、裾を引く小さな手がせわしなく動く。
「何を語ってるって……それは――」俺は箒を高く振り上げ、身を乗り出して言った。「恐ろしき物語だ!」
僧童らの驚きの声が地を踏み鳴らし、わらわらと園庭を駆け抜ける。俺は笑みをこぼしながら、その足音の先を追いかけた。
楽しげな笑い声は秋の空へと溶け込み、舞い上がる落ち葉は色鮮やかに風を纏って揺れる。
その紅の葉のひとひらが、遠き日の伏見稲荷で散った、母の姿を呼び覚ます。鮮やかな赤は、血の記憶となって胸奥を静かに抉り、言葉なき痛みがじわりと広がっていく。
俺は速まる鼓動を抑えるように手を胸に当てた。子らに過去の傷を悟られぬよう、深く息を吸い込んだ。
僧童らの笑い声が空に弾けるなか、俺の心はどこか重く、露の冷たさが指先に染みていく。過去の惨劇の記憶を振り払うように、俺は子らに向けて、もう一度笑みを浮かべた。
子らと駆け回っていると、済衆行脚から戻った良宵の姿が園庭の端に現れた。湿り気を帯びた落ち葉を踏む足音が、静かに響く。
「お帰り、良宵」
声をかけると、良宵はこちらを向き、秋の風に若草色の袈裟を揺らしながら微笑んだ。優しい笑みではあるが、どこか人を寄せ付けぬ孤高さを漂わせているように思えた。
良宵の姿に気づいた僧童らが、俺の後ろに隠れるように集まり、こっそりとその背を見つめる。
――夏の夜、良宵が鬼若と対峙した噂は、叢雲寺を瞬く間に駆け巡った。熟練の老僧さえ怯える古の厄災を前に、揺るがず立ち向かった良宵は、今や寺の誉れだ。
俺は最も間近でそれを見ていた。だから、良宵の気高さを、誰よりも知っている。
だが、僧らの強い焦がれと羨望の眼差しは、良宵を孤高という栫に閉じ込めているようにも思えた。
良宵の背に、薪の束が背負われているのが目に入った。修行の帰りに山で拾ったのだろうか。藁縄で縛られた薪に、秋の風がそっと触れ、かすかに葉擦れの音を立てる。
幼い日、良宵と野山を駆けて薪を集めた記憶が、胸の奥を掠める。
「良宵、こちらへ来てくれ」
手招きすると、良宵は一瞬、思案するように目を細め、笑みを深めた。もう一度手招きを繰り返したが、良宵は袈裟をそっと直し、寺の奥――境内の静寂へ足を向けようとした。
「――良宵!」
俺の張り上げた声が、露に覆われた園庭の静寂を鋭く裂いた。足音が一瞬止まり、良宵の視線が再び俺と絡み合う。風がひらりと葉を揺らし、そっと良宵の袈裟へ触れた。
良宵の視線を繋ぎ止めようと、俺は咄嗟に腹を押さえ、呻き声を上げる。その瞬間、良宵の表情が微かに揺らいだのを、俺は見逃さなかった。傍らの僧童らも、不安げに俺を見遣る。
さらに大袈裟に苦悶の色を深め、俺は腹を抱えながら前のめりに倒れ込んだ。濡れた地面が静かに俺の体を受け止めると、同時に良宵の声が鋭く響いた。
「螢雪? どうした!?」
駆け寄る良宵の足音が露を叩きつけるように高鳴り、焦燥に満ちた鼓動が伝わってくる。その影が俺のすぐ傍らに降り立った瞬間――俺は体を起こし、腕に抱えた落ち葉を良宵めがけて振り投げた。
濡れた葉が全身に降りかかった良宵は、一瞬呆然としたが、俺の小さな芝居にすぐ気づいたようだった。
葉にまみれた良宵を見て、僧童たちは必死に笑いをこらえる。俺は子らに向き直り、涼やかな声で言った。
「さて、良宵はこのように、落ち葉の声を聞く役目を担ってくれた。『語らぬ者にこそ語りかけよ』――京灯百夜抄にでてくる宵の諺だが……さて、この題目を覚えている者はいるか?」
宵岸が手を挙げ、目を輝かせる。
「嵯峨野の地蔵です!」
俺は宵岸の瞳を見返しながら、大きく頷いた。
「正しき解なり。この諺の意味は、語らぬ者がしばしば見過ごされてしまうということだ。例えば、道端に静かに佇む地蔵のように、その存在は時に容易に通り過ぎられる。しかし、真に尊ぶべきは、そうした沈黙の者たちにこそ言葉を届け、語りかけること。語らぬ者に語りかけることこそ、その存在の尊厳を認め、命を吹き込む慈悲の行いなのだ」
「つまり、黙する者に慈悲を向ける……そういう意味でしょうか?」
宵岸の言葉に、俺は大きく頷いた。
「その通りだ。沈黙する者にこそ慈悲の言葉を差し伸べる。我ら宵の一門が堅く守り伝えてきた、叢海様の語りそのものだ。宵岸、お前はやはり聡い子だ!」
宵岸の頭を優しく撫でると、しばらく黙して見守っていた良宵が、落ち葉を一枚ひらりと払いながら、穏やかな声で静かに口を開いた。
「ならば、宵岸。灯を抱く者は、燃えぬ炎を知る。この題目も覚えているか?」
宵岸は目を輝かせて良宵を見上げた。少し緊張した声だが、はっきりと答える。
「比叡の薪でございます!」
「その通りだ。――だが、題目の意味は、言葉だけでは伝えきれぬ」
良宵は薪の束を背からゆっくりと下ろし、露に濡れた地面にそっと置いた。
振り返るように俺を見据え、軽やかな足取りで近づく。その目に微かな遊び心が宿るのを感じて、身構えた瞬間、良宵は片手を俺の肩に置き、軽やかに身を寄せて腰を支えた。
次の瞬間、柔らかながら確かな力で身体が持ち上げられ、ふわりと浮く。続けざまに勢いよく、しかし乱暴さはなく、俺は軽く背負い投げをされて濡れた地面へ倒れ込んだ。
良宵は一瞬、息を詰まらせたようだったが、すぐに呼吸を整え、穏やかな笑みを浮かべた。
「灯を抱く者は、燃え盛らぬ炎の本質を知る。 静かに抱え、時にその炎を纏い、時に誰かのために差し出す。 この背負い投げも、その慈悲の一端だと、私は思っている」
俺は手のひらで頭をさすりながら、「ちょっと待ってくれよ」と息を整えた。
「それは曲解だ、良宵!“比叡の薪”が語るのは力じゃない。怒りも悲しみも外に出さず抱える者の静けさだ。灯は照らすためのもので、焼くためじゃない。そもそも、背負い投げをする必要が、本当にあったのか?」
良宵は膝を折り、姿勢をかがめて目を細めた。その瞳には、静かな慈しみと、わずかな悪戯心が宿っていた。
「ならば問う。灯を掲げる者が己の痛みを抱えたまま歩むとき、灯は風に揺れ、雨に濡れ、やがて消えようとする。如何なるか、灯を守る術とは。言葉か。沈黙か。あるいは、背負い投げか」
紅葉が静かに地に舞い落ち、秋風が園庭を優しく撫でた。
思えば、良宵からの問答はこれが初めてで、俺はわずかな戸惑いを胸に抱きながら、良宵を真っ直ぐ見つめ、口を開いた。
「言葉は風に乗るが、沈黙は地に根を張る。 背負い投げは慈悲を問う者には痛みとなるが、灯を守る者には方便だ。 だが、方便は真理を包む布であって、真理そのものではない。 “比叡の薪”が語るのは燃やすことではなく、燃えぬ炎を知る者の静けさだ。 そして、俺の灯は今、地面に散っている。 ……どうか、拾ってくれ」
良宵は一瞬、目を伏せた。肩がわずかに揺れ、笑いを堪えるように唇の端がほのかに上がる。年頃の少年らしい笑みが、静かな呼吸の合間からそっと漏れた。
「それは、落ち葉の声を聞く者の役目だろう?」
良宵の言葉に、ぽかんと口を開けて宙を見つめた。やがて、その意味が腑に落ちると、良宵の笑みの真意を理解してたまらなく悔しくなった。
「ああ、やられた!」と心の中で叫びつつも、その巧妙さを称賛する光が俺の胸を満たしていった。
「語らぬ者にこそ語りかけよ……ここで嵯峨野の地蔵に回帰するとはな! 祈りが名を越えて縁に還る。まさに宵の一門の……還りの灯、見事だ!」
俺は空を仰ぎ、手を打って大きく笑った。僧童らはひそやかに手を合わせ、静かな讃辞を込めて俺と良宵を見遣った。
秋の風が紅葉を揺らす。濡れた地面に身を預けながら、俺は空を仰ぎ、雲のゆるやかな流れに目を細めた。
振り返れば――宵の一門に入ったのも、十年前の秋の落日だった。紅葉の端に滲む赤が、遠い記憶をそっと呼び戻し、淡く園庭を染めていた。
俺は手を伸ばし、良宵の袈裟に絡んだ葉の一片を、まるで羽根を扱うように摘み取った。指先に残る冷たさと、ひらりと落ちた葉の柔らかな手触りが、十年という歳月の重みを感じさせる。
「良宵――覚えているか。幼き頃、比叡山の帰路にて、師らの所作を模し、我らもまた問答を交わしたこと……」
「覚えているとも」
良宵は穏やかに頷き、寝そべる俺へとそっと手を差し伸べた。 俺は差し伸べられた手から視線を移し、良宵を深く見つめた。良宵は微笑みを湛えながら、静かに手を差し伸べ続ける。俺もその手を掴もうと手を伸ばしたが、指先が重なりかける前に、そっと手を下ろした。
良宵は案じるように首を傾げた。その瞳が微かに揺れるが、その目には変わらぬ優しさが宿っていた。
俺は下ろした手を濡れた地に置き、体を起こそうとした。良宵の手は引かれることなく、慈悲の沈黙のごとく揺るぎなく、俺が立ち上がるまでただ静かに見守っていた。
ゆっくりと起き上がった俺は、小さく溜息を漏らしながら、良宵を再び見返し、弱く微笑んだ。
「俺はいつも、お前に負かされて、泣いているよ」
その言葉に、僧童たちは一斉にざわめき出した。
小さな声が交錯し、目を丸くして囁き合う者、驚きに息を呑む者、好奇心に駆られて身を乗り出す者――ざわめきは園庭の空気を揺らした。
宵岸は堪えきれず、声を震わせて良宵に問いかけた。
「あの、良宵さまは……螢雪さまを泣かせていたんですか……?」
良宵は宵岸の頭にそっと手を置き、優しく撫でながら目を細めた。
微笑みの端に、一瞬だけ瞳の揺らぎが滲んだが、それもすぐに穏やかな笑みに溶けていった。
「その逆だ、宵岸。私は一度も、問答で螢雪にかなったことはないのだ。泣かされていたのは、私の方なんだよ」
良宵の言葉に、園庭は楽しげな笑い声で満たされる。
木々の葉擦れが秋風に揺れ、土の匂いと混ざり合った笑い声は、子らの無邪気さとともに、秋の陽の傾く頃、園庭をやわらかく染め上げた。
葉と泥にまみれた俺と良宵は、互いの顔を見合わせ、幼き日々のように、ただ自然と笑い合った。




