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夜の帳が深く沈み、堂外の虫音すら途絶えた闇に、叢雲寺の拝殿は静寂を湛えていた。
堂内に香の煙が薄く漂い、茶碗から湯気が細く昇り、蝋燭の灯に揺れ、香煙と静かに溶け合った。 灯は三つの影を壁に投げ、ゆらりと揺れていた。
その中心、微かに光を帯びた弥勒如来像が、温かな慈悲の眼差しで闇を見守っているように佇んでいた。 沈黙は深まり、灯の揺らぎが、まるで語られぬ祈りのように壁を撫でていた。
「――この世に生まれ幾千年……」
影のひとつが沈黙を破った。
般若鬼若は、香煙の中へ視線を沈めて、呟く。その声は、夜の底を這うように低く、遠き時代の記憶を呼び覚ますような響きだった。
「聖人とて数多く見てきたが、あの僧は異質よ……戯言すら通じぬ。ふとすれば、殺されるところだった」
「そらなあ、儂が天塩にかけて育てたもの。そうなるのは必然よ」
もうひとつの影、宵叢海様が笑うと、蝋燭の灯がふわりと揺れ、堂内に柔らかな影を広げた。
「虚言を織りなすな」
鬼若は小さく笑みを漏らし、その目に試すような悪戯の輝きが満ちた。
香煙がその顔を一瞬隠し、闇に溶ける。
「天満月の僧はそなたの手にも余る愛らしい光よ。あの生真面目さはそなたとはかけ離れておるではないか、叢海」
最後の影、信楽様が肩をすくめ、微笑を湛えた。
「若さんの言う通りです。叢海様は密法を何ひとつ授けられていないのに……我流であそこまで極めるなんて。恐ろしい子です」
「そなたこそ、一門における法力の達人であろうに、法忍信楽よ。叢海の手に余るなら、一門の首座であるそなたが良宵を導かれんことを具申申す」
鬼若が静かに言う。香の煙がその銀髪を掠め、蝋燭の灯に揺れる。
「九字の結びはまことに精緻。しかし神通力の制御に粗さが残る。それほどの才ゆえに、惜しきことよ。そなたが導けば、いかほどの高みに達することか」
「さてさて……お前さんはどちらの味方なのだろうなぁ、鬼若よ」
叢海様が目を細めて言った。言葉だけを聞けば、鬼の発言とは思えぬ穏やかさだった。
信楽様は鬼若の言葉に、困ったように頬に手を添えて言う。
「良宵さんはすでに光そのものです。小生の手には収まりませんよ」
信楽様が微笑を深めると、蝋燭の灯が再び揺れ、堂内に影がゆらりと広がる。
叢海様は静かに目を細め、良宵の行く末を案じるように香炉の煙を指で払った。
その指先が、まるで未来の因果をなぞるように、煙の中で静かに揺れていた。
「宵の一門に留め置いても、良宵の天性の才を燻らせるだけかもしれぬな。縁を結ぶ我らゆえ、縛るは我らの本意にあらず」
「叢海様、良宵さんを紀伊高野の霊峰にて、修行の一歩を踏ませてはいかがでございますか? 空海様が開かれた霊場にて、良宵さんは厳しい試練に身を置かれるかと存じます。されど、それ乗り越えられ、身心を磨かれし時、霊命力も安定いたしましょう」
鬼若は信楽様の言葉に、首を傾け、目を細めて小さく頷いた。
香煙がその銀髪を掠め、蝋燭の灯に揺れる。
「空海の霊場にて己を磨いたとなれば……なるほど、人の域に収まるなどもはや愚かよ。妖共は息を潜め、麿ら鬼神三兄弟も、《《大高僧》》の座にまでのぼり詰められた天満月《《殿》》に怯え、眠る暇もなくなるやもしれぬ。さすがのお方、恐ろしい」
鬼若の言葉に、叢海様が膝を叩いて笑った。その笑いにつられるように、鬼若も笑い出す。
人と鬼の隔てなき縁に結ばれた旧知の者同士のような親しさが、堂内に満ちる。 その笑いは、互いの境界を超えた深い絆の残響のようだった。
叢海様が灯を見つめて言う。
「高野山には教学阿闍梨の覚明殿がおられたな。和顔の阿修羅殿なら、良宵の光を導いてくださるやもしれぬ。一度、金剛峯寺の別当殿に話を上げてみるか……」
――三人の会話を襖の隙間から覗き見ていた俺は、誰にも気づかれず、ただそこに立ち尽くしていた。 鬼若は敵ではなかったのか――その笑いと叢海様の親しげな声に、ようやく恐怖は和らいだ。
しかし、胸の奥深くで疼く暗い感情は消えずに根深く残っていた。
良宵の輝きと自分の影の差に押しつぶされそうな、じわりと染み込む負の感情だった。
天性の才、か……良宵。
十五夜の夜、俺より一日遅れてこの宵の一門に入った。
同じ五つの年で、孤児として、背を並べたはずだった。
母を知らず、父を亡くし、喪失に沈むお前の孤独な背を、俺は照らすつもりだった。
兄弟子として。朋友として。お前の闇に寄り添うため、俺の螢の灯で――
だが、全て違ったのだ。
宵闇に揺れる螢の灯など、天満の輝きに誰も目を留めぬ。
お前を照らしていると、俺は思っていた。だが、照らされていたのは、俺だった。
高野山に上がれば、お前はさらに遠くなるのだろうか。
そんな予感だけが、胸に重く沈んだ。
襖の隙間からこぼれる蝋燭の灯が、足元の影をゆらしていた。
その光に照らされる自分に気づき、目を閉じた。
祈ることも、灯すことも、許されなかった螢の灯が、ただそこに在った。
* * *
―― 虚空に綴られた記録が、微かな光を放つ。
闇の底にひとつ、咲いていた命の記憶を、巫の篠は鏡に映し、静かに詠む。
“灯すことも、祈ることも許されなかった命が、闇の底にひとつ、咲いていた。”
「――だから篠は、虚空に綴られた記録から記憶を詠むのです。そして、その者の祈りを篠の鏡に……そっと、灯すのです」
巫の篠から紡がれる言葉に、山伏は静かに耳を傾けていた。




