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縁起外伝~宵待ちの螢~  作者: 熊掛鷹
第一章:宵の一門の光と影
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 夜の帳が深く沈み、堂外の虫音すら途絶えた闇に、叢雲寺の拝殿は静寂を湛えていた。

 堂内に香の煙が薄く漂い、茶碗から湯気が細く昇り、蝋燭の灯に揺れ、香煙こうえんと静かに溶け合った。 灯は三つの影を壁に投げ、ゆらりと揺れていた。

 その中心、微かに光を帯びた弥勒如来像が、温かな慈悲の眼差しで闇を見守っているように佇んでいた。 沈黙は深まり、灯の揺らぎが、まるで語られぬ祈りのように壁を撫でていた。


「――この世に生まれ幾千年……」

 影のひとつが沈黙を破った。

 般若鬼若は、香煙の中へ視線を沈めて、呟く。その声は、夜の底を這うように低く、遠き時代の記憶を呼び覚ますような響きだった。

「聖人とて数多く見てきたが、あの僧は異質よ……戯言ざれごとすら通じぬ。ふとすれば、殺されるところだった」

「そらなあ、儂が天塩にかけて育てたもの。そうなるのは必然よ」

 もうひとつの影、宵叢海よいのそうかい様が笑うと、蝋燭の灯がふわりと揺れ、堂内に柔らかな影を広げた。

虚言そらごとを織りなすな」

 鬼若は小さく笑みを漏らし、その目に試すような悪戯の輝きが満ちた。

 香煙がその顔を一瞬隠し、闇に溶ける。

天満月あまみつきの僧はそなたの手にも余る愛らしい光よ。あの生真面目さはそなたとはかけ離れておるではないか、叢海」

 最後の影、信楽様が肩をすくめ、微笑を湛えた。

わかさんの言う通りです。叢海様は密法みっぽうを何ひとつ授けられていないのに……我流であそこまで極めるなんて。恐ろしい子です」

「そなたこそ、一門における法力の達人であろうに、法忍信楽よ。叢海の手に余るなら、一門の首座であるそなたが良宵を導かれんことを具申きしん申す」

 鬼若が静かに言う。香の煙がその銀髪を掠め、蝋燭の灯に揺れる。

「九字の結びはまことに精緻せいち。しかし神通力の制御に粗さが残る。それほどの才ゆえに、惜しきことよ。そなたが導けば、いかほどの高みに達することか」

「さてさて……お前さんはどちらの味方なのだろうなぁ、鬼若よ」

 叢海様が目を細めて言った。言葉だけを聞けば、鬼の発言とは思えぬ穏やかさだった。

 信楽様は鬼若の言葉に、困ったように頬に手を添えて言う。

「良宵さんはすでに光そのものです。小生しょうせいの手には収まりませんよ」

 信楽様が微笑を深めると、蝋燭の灯が再び揺れ、堂内に影がゆらりと広がる。

 叢海様は静かに目を細め、良宵の行く末を案じるように香炉の煙を指で払った。

 その指先が、まるで未来の因果をなぞるように、煙の中で静かに揺れていた。

「宵の一門に留め置いても、良宵の天性の才を燻らせるだけかもしれぬな。縁を結ぶ我らゆえ、縛るは我らの本意にあらず」

「叢海様、良宵さんを紀伊高野の霊峰にて、修行の一歩を踏ませてはいかがでございますか? 空海様が開かれた霊場にて、良宵さんは厳しい試練に身を置かれるかと存じます。されど、それ乗り越えられ、身心を磨かれし時、霊命力も安定いたしましょう」

 鬼若は信楽様の言葉に、首を傾け、目を細めて小さく頷いた。

 香煙がその銀髪を掠め、蝋燭の灯に揺れる。

「空海の霊場にて己を磨いたとなれば……なるほど、人の域に収まるなどもはや愚かよ。妖共は息を潜め、麿まろら鬼神三兄弟も、《《大高僧》》の座にまでのぼり詰められた天満月《《殿》》に怯え、眠る暇もなくなるやもしれぬ。さすがのお方、恐ろしい」

 鬼若の言葉に、叢海様が膝を叩いて笑った。その笑いにつられるように、鬼若も笑い出す。

 人と鬼の隔てなき縁に結ばれた旧知の者同士のような親しさが、堂内に満ちる。 その笑いは、互いの境界を超えた深い絆の残響のようだった。

 叢海様が灯を見つめて言う。

「高野山には教学きょうがく阿闍梨あじゃり覚明かくめい殿がおられたな。和顔わがん阿修羅あしゅら殿なら、良宵の光を導いてくださるやもしれぬ。一度、金剛峯寺こんごうぶじ別当べっとう殿に話を上げてみるか……」


 ――三人の会話を襖の隙間から覗き見ていた俺は、誰にも気づかれず、ただそこに立ち尽くしていた。 鬼若は敵ではなかったのか――その笑いと叢海様の親しげな声に、ようやく恐怖は和らいだ。

 しかし、胸の奥深くで疼く暗い感情は消えずに根深く残っていた。

 良宵の輝きと自分の影の差に押しつぶされそうな、じわりと染み込む負の感情だった。


 天性の才、か……良宵。

 十五夜の夜、俺より一日遅れてこの宵の一門に入った。

 同じ五つの年で、孤児として、背を並べたはずだった。


 母を知らず、父を亡くし、喪失に沈むお前の孤独な背を、俺は照らすつもりだった。

 兄弟子として。朋友として。お前の闇に寄り添うため、俺の螢の灯で――

 だが、全て違ったのだ。

 宵闇に揺れる螢の灯など、天満の輝きに誰も目を留めぬ。

 お前を照らしていると、俺は思っていた。だが、照らされていたのは、俺だった。

 高野山に上がれば、お前はさらに遠くなるのだろうか。

 そんな予感だけが、胸に重く沈んだ。

 襖の隙間からこぼれる蝋燭の灯が、足元の影をゆらしていた。

 その光に照らされる自分に気づき、目を閉じた。

 祈ることも、灯すことも、許されなかった螢の灯が、ただそこに在った。


 * * *


 ―― 虚空に綴られた記録が、微かな光を放つ。

 闇の底にひとつ、咲いていた命の記憶を、巫の篠は鏡に映し、静かにむ。


“灯すことも、祈ることも許されなかった命が、闇の底にひとつ、咲いていた。”


「――だから篠は、虚空に綴られた記録から記憶を詠むのです。そして、その者の祈りを篠の鏡に……そっと、灯すのです」

 巫の篠から紡がれる言葉に、山伏は静かに耳を傾けていた。

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