宵待ちのほたる
新月の闇は山をひとつに縫い、深さも距離も奪い、黒だけが残った。
道も影もほどけ、区別は沈黙の底に沈んだ。
螢雪の歩みは修行の律を離れ、断食七日の身は力を失い、
歩むという外殻だけが形を保った。
錫杖の重さが掌に残り、岩を擦る音は闇に吸われた。
靄が視界を覆い、ただ土だけが、所在を示した。
呼吸は胸の奥で細く鳴り、祈りは姿を持たなかった。
ただ一念だけが、時間の底に残った。
――良宵に会いたい
それは感情ではなかった。
崩れゆく意識に縫い留められた、断片にすぎなかった。
足もとが揺れ、膝が土に触れた。
意識は外側へ滑り落ち、世界は途切れた。
咆哮が闇を震わせた。
螢雪は息を吸い、現へ戻った。
朔の闇に熊の影があった。
濁った瞳が螢雪を捉えた。
黒い躯が迫った。
螢雪は身を逸らした。
足は土を外した。
崖下へ落ちた。
衝撃は痛みより先に、身がひとつ減ったという事実となった。
脚が引かれた。
牙が肉を裂いた。
骨の音が夜へ溶けた。
血は温度を持たず、岩を濡らし、夜を濡らした。
螢雪は岩に指をかけた。
身が寄った。
熊の喉がわずかに開いた。
短刀は振り上げられ、ただ一点へ落ちた。
咆哮は途絶え、静けさが戻った。
木々の間に瞳があった。
子熊の瞳であった。
怯えは宿っていた。
螢雪には、因果の反復として映ったにすぎなかった。
伏見の夜が音もなく浮かんだ。
血の匂い。
崩れた襖。
倒れた母の影。
その図と、子熊の瞳が重なった。
ただ重なった。
因果は反復した。
反復は因果を返した。
夜に残ったのは、形のみであった。
円は閉じた。
円は閉じ、
円はただ閉じた。
短刀が首筋へ運ばれた。
刃の冷たさは、冷たさとしてすら感じられなかった。
「有為の山奥、修行半ばに己で己の世界を閉じる俺など、どこにも残らぬ」
「誰でもよい。独りで己の世界を閉じる私を……感じてはくれぬか。救ってはくれぬか」
祈りは声にあらず。
祈りは形にあらず。
祈りは救いにあらず。
祈りは夢にあらず。
祈りはただ、空へ帰す。
刃が沈み、血は温度を持たず夜へ落ちた。
息は途絶え、身体は闇へ預けられた。
螢の光は救いにあらず。
螢の光は影にあらず。
螢の光はただ、死の輪郭に触れる。
螢の光はひとすじ、輪郭に触れ、光り、消えた。
* * *
月は欠け、光は薄れ、稜線だけが残った。
奥山は沈黙を守り、風だけが細く通り過ぎた。
枝葉は揺れず、吐息だけが死者の眠る地を撫でた。
幾日が過ぎ、屍はなお形を保っていた。
血は乾き、白装束は土へ沈み、命の気配だけが空気の奥に薄く残った。
巫が現れた。
白衣が現れた。
声より先に、ただ在るという気配があった。
それは巫ではなく、祈りを運ぶ器であった。
月の光はその肩に触れた。
触れたのは光であり、温度ではなかった。
歩みは夜闇を恐れず、ただ静かに屍へ向かった。
巫は屍の側に跪いた。
跪いたのは膝であり、情ではなかった。
山伏の手には短刀があった。
刃は首元に沈み、指は硬直し、そこに留まり続けていた。
巫はその手を包んだ。
指を一本ずつ、根元からほどいた。
関節は軋み、冷えた指はゆるやかに開き、短刀は土の上に転がった。
首元の裂傷が現れた。
血の痕は白装束の襞へ沈んだ。
巫は両手を胸に置き、祈る形を整えた。
温もりはなく、ただ形だけが残った。
巫は開いたままの両眼を見た。
瞳は虚空を彷徨い、魂がなお世に留まっていることだけを告げた。
それは事実であり、救いではなかった。
巫は瞼に手を添え、意識を彼の岸に置き、魂の記録へ触れた。
唇がひとつだけ動いた。
「苦しかったのでしょうね」
その声は語りではなく、祈りの呼気であった。
「あなたの御霊に添い、語りましょう。あなたが存在した証を──」
「──ですが」
巫の瞳が冷たく揺れた。
「どれほど歩み寄ろうとも、あなたの苦しみは、あなたにしか届かない。
救いは神でも仏でもなく、他者でもございません。
あなたを救えるものは、ただあなた自身であらねば、なりませんでした」
声はそこで途切れた。
巫は奥山に唄った。
色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見し 酔ひもせず
唄は語りではなく祈りとなり、祈りは灯となり、灯は語られぬ命を照らした。
祈りは声ではなかった。
形でも、救いでもなかった。
触れたものはすべて、ただ空へ戻っていった。
円は閉じた。
ただ静かに、閉じた。
巫の唄に導かれ、螢が舞った。
ひとつ。
またひとつ。
螢らは月の光へ溶け、音もなく消えた。
ただひとつ
消えきらぬほたるだけが
巫の語りを聞いていた




