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螢雪さま

 螢雪さま。

 篠は、あなたと出会うことで、ようやく教えていただいたように思えるのです。これが因果の繋がりであるのだと。


 人の畏れが生み出した三裂霊さま。

 御影巫さまの赦しの旅。

 おばあさまを迎えた熊野霊山。

 澪姉さまが歩まれた祈りの道。

 そして、天満月さまの光。


 そのどれもが、ひと筋の線となって、熊野霊山を終の場所と定められた螢雪さま──あなたへと、静かに続いていたのだと、今は静かに思い至るのでございます。

 けれど、その因縁をさらに遡れば、篠の目にも、記憶にも届かぬほど、気の遠くなるような昔へと繋がっているのかもしれません。それを知るすべは、篠にはございませんが。

 巫は、与えられた縁を静かに受け取り、目の前の御霊へと祈るしかない存在。

 だからこそ、篠は思うのです。

 螢雪さま……あなたの御霊には、天満月さまの光が、あまりにも強く刻まれすぎている、と。


 あなたもまた、天満月さまの祈りに焦がれられたのでしょうか……。

 澪姉さまがそうであられたように。


 もし天満月さまと出会われなければ――あなたも死には至らなかったのでしょうか。

 ……などという戯言は、巫には相応しゅうございませんね。因果は、ただ受け取るほかないものでございますから。


 だから篠は、あなたの御霊が戻ってこられるその時まで、静かに記録を詠むだけのこと。

 螢雪さま。あなたの命語りを、ここで紡ぎましょう。

 あなたが確かに、この世に在られたことを、証するために。




 九条雪政。まずその御名を呼び奉る──これぞ命語りの始まりにて候。


 雪政さまは、幼き日のひととき、安らかに穏やかに、生を享け給えり。


 伏見の社にて賊の刃を蒙り、母君を喪い給いしその日までは。


 その日より、世界はひとつ、色を失い給えり。


 従者に抱かれ、叢雲寺へ逃れ、「螢雪」の名を授けられ、闇を包む灯火のもとに匿われしは、まこと悲しき縁の始まりにて候。


 絶望の淵に沈み給う折、天満月の僧──良宵さまと巡り会い、胸のうちに小さき灯、そっと息づき給えり。


 比叡の峰にて学び、良宵さまと併び歩み、その背に祈りの影を見つめ給いし日々。


 叢雲寺に戻りては、僧童らに旅の語りをそそぎ、夜半の燈心を揺らしゐたり。


 良宵さまより「別の道を歩まん」と告げられ、それでもなお、ひたすらに待ち続け給えり。


 横川へ向かう一歩を踏みかけては、胸の内おぢて、寺へ戻り給いし迷い


 修行を終えた良宵さまのお姿を見つけ、胸ふるえるほどに喜び給えり。


 泣くまいと唇を噛みしめ、ただひと言、「お帰り」と告げ給う。


 その声の奥に、言えぬ祈り深く沈み給えり。


 ――共に歩めぬ焦り。

 ――守りたき方に、守られてしまう現実。


 鬼若さまと相対し、己が力の浅きを痛感し給えり。


 されど心折れず、良宵さまを追うごとく、ひっそりと叢雲寺を出で給う。


 孤の旅に身を置き、苦学と苦行に日々を削り、「もう一度会いたい」ただその祈りひとつを灯として、幾多の聖地を巡り歩み給えり。


 そして──この奥山にて、運命と出会い給う。


 母熊に襲われ、肉裂かれ、骨砕け、命のかたち、大地に散らばるなかにありても、なお叫び給う。


 ――死ねぬ。

 ――もう一度、会うまでは。


 その一念が、折れかけた指を動かし、短刀の切先を熊の喉へ運ばせ給う。


 回峰行の途上にての殺生──最も重き戒を破り給えり。


 足は千切れ、血は溢れ、命の灯は風前に細く揺れど、最期の祈りとして、自ら死を選び給えり。


 罪を贖わんがために。良宵さまへの想いを抱いたまま、ひとつの魂として散らんがために。


 これぞ──螢雪さまの命語りにて候。



 篠は、何百度、何千度、夜ごとこの(ことば)を唱えてまいりました。

 あなたの御霊が、この山に戻られる──その一刻のために。


 * * *

「いろはに ほへど ちりぬるを わがよ たれぞ つねならむ」

 満ちた月は、山の梢を薄く撫でるように光っておりました。

 奥山の静けさは、息をひそめた水面のようで、霧の童らは、その中でただ揺れ、音ひとつ立てませんでした。

 篠は、枝にそっと腰を下ろし、面丸鏡の縁を指先でなぞっておりました。

 歌声は細く、けれど、夜の底を静かに渡っていきました。

 忘れ去られた祈りの影が、微かに息づくようでもございました。


 カラン、カラン──


 錫杖の音が、夜気をかすかに震わせます。

 遠雷よりも小さく、それでいて、篠の胸の奥に沈んだ記録を、そっと揺らすほどには、確かな響きでございました。

 足もとで揺れていた童霊たちが、光を宿したように震え、螢雪さまの白骨の影が、月光の上で、静かに形を帯びはじめました。


 ── ひとつの気配が、奥山の深みから近づいてまいりました。


 風の揺れひとつで、篠にはその御霊がどなたであるか分かりました。けれど、その御霊は、名をどこかへ置き忘れたまま、月影の道を歩んでおられるようでもございました。

 影は、やがて篠の真下に、そっと留まりました。

 答えを求めるでもなく、問いを抱えるでもなく、ただ──“帰り着いた”という静けさだけを帯びておりました。

 そのとき、夜気を揺らす声が、深く落ちてまいりました。


「丑の刻、死霊に満ちた奥山に、白衣の童女がひとり……不可思議なことだ。そなたはヒトか、モノノケか?」

 声はかすかに震えておりました。恐れだけの震えではなく、遠くに失った祈りの名を探し当てた者の、深い揺らぎに似ておりました。

 篠は、枝の上で微かに息を整え、目を伏せたまま静かに答えました。


「巫でございます。梓巫女の篠と申すものでございます」

 名乗りの瞬間、霧の童らの揺れがひとつ止まり、月光が枝葉を淡く照らしました。

 そっと瞼を上げると、月の白さを背に立たれる螢雪さまが視えました。命語りが、ようやく届いたのでございます。

 けれど、そのお顔にはまだ名の影はなく、帰る場所を探して歩まれた御霊の静けさだけが、ひっそりとたたずんでおりました。


 篠は、面丸鏡を胸に寄せ、月へ向かう声で、命語りをそっと紡ぎはじめました。


 しかし──これが最後となりましょう。


 語られぬ祈りの最初の一節が、静かに、奥山の底へ降りていきました。

 月影に立つ螢雪さまは、ただ篠の声に耳を傾けておられました。

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