天満月さま
澪姉さまと共に里を出てから、五年が過ぎておりました。
東の地を巡り、西へ戻り、また山を越え――歩き巫女としての旅は、ただ祈りとともに続いていたのです。
その頃には、澪姉さまは、ほとんど言葉を交わされなくなっておりました。いつが最後の会話だったのか、今となっては、もう思い出せません。夜になれば神懸りを行い、昼は人の嘆きを聞き、祈りをほどき、弔いを重ねるうちに、姉さまの声は、次第に人の世から遠ざかっていったのでしょう。けれど、沈黙の奥で、澪姉さまの祈りだけは、なお深くなっておりました。
再び西へ戻る旅路の果てに、澪姉さまと篠は、京の地へ足を踏み入れました。京に入った途端、怪異たちが、とある僧の噂を囁き始めました。
比叡の山で厳しい修行を終えられた僧さまがおられること。その方は、禍を祓うのではなく、祈りの中で共に笑うのだと。
怪異たちは、その僧さまを「天満月の僧」と呼んでおりました。恐れではなく、どこか親しみを含んだ呼び方でした。
澪姉さまは、その名を聞いたとき、わずかに瞳を上げられました。何かを期待したのか、何かを思い出されたのか――篠には分かりません。けれど、そのまなざしは、ほんの一瞬だけ、夜空を探す子供のように見えたのです。
* * *
天満月さまと出会ったのは、姉さまが化野で神懸りを行われていた夜のことでした。
地の底に沈んだ童の霊魂を、いっとき地上へ浮かび上がらせるために、澪姉さまは梓弓を爪弾きました。埋葬された小さな骨の上を、火の粉のような灯がいくつも漂い、童たちの笑い声が、夜気の中でかすかに弾んでおりました。
そのときです。林の奥から、静かな音が近づいてまいりました。笠を深く被ったひとりの僧が、火の消えた松明のような静けさ――けれど、どこか底に灯が宿るような気配を纏って、風葬地の端に立たれたのです。
僧は、霊縛の経典を携えておられました。使い様によっては、悪鬼をも強制的に彼岸へ送る力を持つ、厄介な経でございます。
澪姉さまは、その経典を見た瞬間、わずかに眉を寄せられました。童霊たちは、姉さまの周りをくるくると飛び回りながら、しかし僧さまを警戒することなく、なぜか声を弾ませていました。
澪姉さまは、静かに口を開かれました。
「――天満月の僧様。この童らは、私たちと遊ぶために現れたもの。霊縛の経典は、今宵には不要です。ひとしきり遊ばせた後、私が責任を持って彼岸へ渡します。どうか、ご安心くださいませ」
久方ぶりに聞く姉さまのお声は、鋭さと澄みを湛えておりました。戒めるようでありながら、童たちを庇うような響きでございました。
僧さまは、その言葉を黙って聞いておられました。やがて、霊縛の経典を懐へと収め、笠を静かに外されました。その顔を見た瞬間、澪姉さまの瞳が、わずかに揺れました。そこに立っていたのは、思いのほか若い僧さまでございました。十六になられる姉さまと、同じほどか、それよりいくぶんか幼くも見えました。
けれど、その瞳には、年に似合わぬ深さがありました。数多の命の終わりを見届けてきた者だけが持つ、静かな光でございます。
天満月さまは、月の光を背に受けながら、柔らかな声で言われました。
「童らの声に呼ばれ、気づけば足を運んでおりました。鬼神の類かと案じ、備えておりましたが――そのお言葉を聞き、胸の底が静まりました」
その声は、風に紛れるほど穏やかで、語尾にかすかな余韻を残しておりました。祈りを押し付ける声ではなく、誰かの痛みの隣に立つための声でございました。
そして、調子を変えることなく、こんなふうに続けられたのです。
「この子らと、少しだけ――時を分かたせていただけますか」
祈りではなく、願いでもなく、ただ「共に在りたい」という頼み方でございました。
その瞬間、童らの灯りがふっと弾みました。澪姉さまの肩からも、わずかに力が抜けたように見えました。
童霊のひとりが、姉さまの袖を引きました。
『巫女さま、大丈夫だよ。天満月さまは、いつも僕らと戯れてくださるの』
姉さまは少し驚かれました。
そして、天満月さまに視線を向けられ、問いかけました。
「京の怪異が噂する天満月の僧が、遊ばれるのですか? ――童霊と?」
天満月さまは、ほんの少し照れたように笑っておられました。
「拙僧は、笑うことを忘れて久しく……なれど、我が友が子らと笑う姿を見て、少しだけ真似てみたくなったのです」
そう言うと、天満月さまは掌に小さな光の球を生み出されました。柔らかな光は、蹴鞠の玉のようにふわりと宙に浮かび、童らがそれを追いかけて、風葬地の中を跳ね回りました。
天満月さまも、その輪の中へ静かに加わられました。
光の球が空を渡り、童らが笑い、姉さまも、やがてその遊びに混ざられました。梓巫女としての厳しい横顔がほどけ、ほんの少しだけ、少女の顔が覗いていたように思います。
「稀なる霊命の力を……このようなことにお使いになるとは」
姉さまは、半ば呆れたように、半ば微笑みながら呟かれました。それは、嘲りではなく、心底からの驚きと、少しの羨望を含んだ声でございました。
篠は、少し離れた場所から、その光景を見ておりました。
光の球が空を渡るたび、童らの影が地面に跳ね、天満月さまと姉さまの影が、時おり重なって揺れました。炎でも涙でもなく、ただ「遊び」というささやかな灯で、死者と人と僧がひとつの輪になっていたのです。
やがて、童らはひとり、またひとりと、空へ昇っていきました。
満ち足りた魂が、静かに天へ還っていく気配でした。
天満月さまは、最後の童が消えるまで、頭を垂れておられました。その背に、ひとつだけ、小さな影がしがみついていることに、篠は気づきました。僧の衣の端を小さな手で握りしめ、まるで見つからぬように身を縮めている童でございました。
澪姉さまも、それを見ておられました。天満月さまに声をかけようとした瞬間、その童は振り返り、姉さまに向かって、唇に指を当てました。「しー」と。秘密を分かち合う子供のような仕草でした。
天満月さまは、もちろん気づいておられたのでしょう。けれど、何も言わず、気づかぬふりをして、林の外へと歩み去られました。
月光に溶けてゆくその背を、澪姉さまはしばらく見つめておられました。そして、ふと――声を立てて笑われたのです。その笑いは、巫女のものではなく、ただの少女のものでございました。
篠は、その笑顔を、はっきりと覚えております。祈りの言葉ではなく、誰かの優しさに触れてこぼれた、ひとつの「嬉しさ」という形。
澪姉さまが人として笑った夜は、後にも先にも、あの夜だけであったように思うのです。
篠は、ときどき考えます。あのとき、天満月さまが童と遊び、姉さまを笑わせてくださったことは、確かに救いでございました。けれど同時に、その光は、姉さまの魂を、いっそう彼岸へと傾けていったのではないかと。
あの夜、欠けた月の下で灯った笑顔は、満ちることのない光でございました。だからこそ澪姉さまは、あの満ち足りた祈りに、もう一度触れたくて――いつしか、自らも「天満月さまのように祈りたい」と願われるようになったのでしょう。
その焦がれは確かに、姉さまの歩みを、人の岸ではなく、もっと遠い、祈りの彼方へと連れていこうとしていたのです。




