澪姉さま
忘れられたはずの因果が、静かに、けれど確かに息を吹き返した時代がございました。おばあさまは、まるで見えざる手に導かれるように、熊野霊山の麓の小さな村へ、足を踏み入れてしまったのです。
おばあさまは、歩き巫女として幾つもの国を巡られた方でした。人々の嘆きを受け続けるうちに、身も心も擦り減っていったのでしょう。旅の果てに辿り着かれたのが、熊野霊山の麓の村でございました。
その地が、御影巫の血脈にとって決して踏み入れてはならぬ忌み地であることを――おばあさまは、気づかれなかったのではなく、気づかれた時には、もう遅かったのでしょう。母は、すでにお腹の中におられたのです。
傷ついた巫女を迎えたのは、若き日の祖父でした。
祖父の眼差しは、春の陽のようでございました。凍えた土がそっと解けていくように、おばあさまの心は静かに力を失い、長く背負ってこられた務めを、ふっと手放してしまわれたのです。
巫女としての務めを終えたおばあさまは、巫女服を脱ぎ、祝詞を収め、長き旅を共にした梓弓と面丸鏡を、家の奥深くへと仕舞われました。二つの聖具は、まるでおばあさまの過去そのものを封じるように、ひっそりと眠りについたのでございます。
やがて、母が生まれました。母は、巫の力をひとつも宿されぬ方でした。熊野霊山に抱かれて育ちながらも、血脈の重さを知らず、影の匂いにも触れず、ただ村の娘として、清らかに生を歩まれたのです。おばあさまの胸には、そのことが、小さな棘のように引っかかっておりました。
熊野霊山が何を奪い、何を眠らせたのか――それは、おばあさまにも分からなかったのでしょう。確かな答えは得られぬまま、時だけが、穏やかなふりをして流れていったのでございます。
やがて、母は村を治める家の男と結ばれました。そして生まれたのが、澪姉さまでございます。澪姉さまの誕生は、途絶えかけていた御影巫の血脈に、ふっと灯が差し込んだ瞬間だったのでしょう。
姉さまは、巫覡の血を濃く受け継いでおられました。幼い瞳にこの世ならざるものの影が映り、風の囁きをそのまま言葉として聞き取り、夜になると、誰もいない座敷で見えぬ誰かと静かに話しておられたといいます。おばあさまにとって、その霊験はきっと喜ばしいものであったはずです。御影巫さまの祈りは、まだ完全には絶えていなかったのだ、と。けれど、母と父は違いました。
理解の及ばぬ力に怯え、その異質さを薄気味悪がり、澪姉さまを屋敷の奥のあかずの間へ閉じ込めてしまわれたのです。まるで──古の村が三裂霊さまを祠へ閉じ込めた、あの夜をなぞるように。
澪姉さまは、外の光を知らぬまま、ひとりきりで時を重ねていかれました。
澪姉さまが六つの折、篠はこの世に生を受けました。篠は、泣きませんでした。笑いもしませんでした。産声も上げず、目の前の世界に興味を示すこともなく、ただ、布にくるまれて、じっと天井を見ていたといいます。母と父は、その静けさを恐れました。まるで、影だけを宿して生まれた子のようだと。感情を見せぬ赤子。泣きもせず、笑いもせず、まるで人形のように、音ひとつ立てぬ子。二人は、その世話を、奥の間の澪姉さまに託しました。
澪姉さまは、惜しみない手つきで篠を抱き上げてくださいました。
姉さまは静かにいろは歌を口ずさみ、その響きが、あかずの間の薄闇の中で篠の胸へと、ゆるやかに沈んでいきました。
いろは歌は、篠にとって、子守歌の響きでございました。物心がつく頃には、篠は、姉さまの背を追って歩くようになっておりました。
何ものにも興味を示さなかった篠が、ただひとつ追いかけたのが、闇の中で揺れる澪姉さまの白い袖だけでございました。
やがて、母と父は、姉さまをあかずの間から解き放ちました。澪姉さまは、ようやく屋敷の外へ出ることを許されました。けれど、外の世界には、姉さまを迎える柔らかな光はございませんでした。村人たちは、長く閉ざされた部屋から現れた姉さまを、好奇と恐れの入り混じった目で見つめました。囁きが、風に紛れて漂っておりました。
「やっと出てきた」
「あれが、あの部屋の娘か」
その言葉はただ音として、篠の耳をかすめただけでございました。
篠は姉さまの後ろを歩き、落ち葉を踏む小さな音と、白い裾が揺れる気配だけを追っておりました。
澪姉さまにとって、外の世界は、ほんのわずかな憧れの延長でございました。風の匂い。陽のぬくもり。鳥の声。あかずの間の小窓から、幾度も夢のように眺めてきたものです。
そのとき、姉さまの瞳に、かすかな灯がともりました。けれど、村人たちの冷えた視線に触れた瞬間、その灯はひどく小さく揺れました。そして、音もなく消えていきました。姉さまの笑みは少しずつ姿を見せなくなり、言葉も風と同じほど少なくなりました。その瞳は、誰の顔でもなく、もっと遠いどこかを見つめているようでございました。
篠は、その背をただ追い続けました。姉さまの沈黙の中に、篠は、祈りのようなものを感じていたのかもしれません。
おばあさまは、母たちの目を盗みながら、姉さまに何かをそっと授けておられました。幼い篠には、それが何であったのか分かりません。けれど――その頃からでしょう、姉さまの背に、風がひと筋、宿りはじめたのは。言葉ではなく、視線でもなく、ただ背中に、静かな道が描かれてゆくような気配でございました。
おばあさまは多くを語らぬ方でしたが、姉さまの掌に触れる手つきは、どこか別れを知る者のそれでございました。
姉さまの未来が、この村の外にあること。いつか、ここを離れねばならぬこと。おばあさまは、おそらく、とうに悟っておられたのでしょう。
澪姉さまが十一になられた折のことです。
熊野霊山の奥、白蓮山を見上げる湖のほとりで、姉さまは欠けた月を仰いでおられました。篠は少し離れた岩陰から、その背を見守っておりました。水面には、半ば欠けた月が揺れ、満ちきらぬ光が湖底を淡く撫でておりました。
姉さまは、そのわずかな光を掬うように、静かに詩を紡いでおられました。声は小さく、けれど湖と霊山にははっきり届く響きでした。
その詩に誘われたのでしょう。霧の向こうから、ひとりの青年が現れました。
湖畔に立つその影は、月光に照らされ、この世のものとは思えぬほど静かな気配を纏っておりました。風に揺れた輪郭が、一瞬だけ、涙を含んだ般若の面のように篠には見えました。
青年は、姉さまの歌を聞き、ふっと微笑むように囁かれました。
「……懐かしい響きだ。遠い昔、どこかで聞いたようにも思える」
澪姉さまは水面から目を離さず、静かに応じられました。
「代々伝わる詩でございます。遥か昔、祈りの道を歩まれた巫の方が最初に紡がれたと聞き及んでおります」
青年はわずかに目を細められました。その瞳には、深い哀しみのような光がありました。
「……巫覡の系譜。風に聞いたことがある。伏された後も、細く、密やかに続いていると」
澪姉さまは、その気配を感じ取られたのでしょう。
そっと膝をつき、青年へと頭を垂れられました。
恐れではなく、敬いでもなく――ただ、古い祈りに触れた者の静かな礼でございました。
月と水と霧が、ふたりの影をひとつに重ねておりました。
世界はその時、ひと呼吸分だけ沈黙し、まるで天上より降りた御霊同士の邂逅のように見えたのです。
その静寂を裂いたのは、遠くから響く足音でございました。霧のむこうで松明が揺れ、ざわめきが湖面を乱しました。村人たちの影が現れ、月光に照らされた青年の姿を見たとたん――誰かが叫びました。
「禍御霊だ! あの娘が、禍を呼び寄せた!」
その声を聞いたとき、篠には、ただひとつだけ分かりました。
――あれは、姉さまを害するものではない、と。それだけでございました。それ以上の名も、感情も、篠にはまだ持てませんでした。
けれど、その叫びは、熊野村に眠っていた古い恐れを、一気に目覚めさせてしまったのです。澪姉さまと青年が交わした詩は、祈りの灯であるはずでした。けれど村人の目には、それは禍の再来と映ったのでございます。
霧の中で重ねられた声は、たちまち断罪の証へと変えられていきました。その夜を境に、澪姉さまは「禍御霊を呼び寄せた娘」と呼ばれるようになりました。
熊野霊山には、古き神代より続く忌まわしき風習がございます。
――栫の儀。禍が顕れたと見なされたとき、命をもって神へ祈りを捧げ、均衡を保とうとする、人身御供の習わしです。
三裂霊さまを供物として祠へ押し込めた、あの古い因果を、村はまた繰り返そうとしておりました。
……篠には、今でも分かりません。なぜ祈りを愛した姉さまが、祈りの名において断たれねばならなかったのか。なぜ澄んだ灯が、禍と呼ばれねばならなかったのか。
もしも、この世に“愚”という言葉があるならば、あの夜ほど、その言葉がふさわしい場面はなかったように思うのです。
供儀の準備が静かに進むなかで、おばあさまは、梓弓と面丸鏡を再び取り出されました。そして、それらを澪姉さまに託そうとされたのです。
「ここを出なさい」その言葉を、篠は今もはっきりと覚えております。
おばあさまのその決意が、ご自身の命を危うくすることを、姉さまはすぐに悟られました。だからこそ、一度は首を振られたのです。ここに残れば、供物として捧げられる運命は、ほぼ定まっておりました。けれど、逃れれば、その刃はおばあさまへ向かうことも、姉さまは知っておられました。
しばしの沈黙がありました。それでも――「生きてほしい」というおばあさまの願いが、あまりにも静かで、あまりにも強かったがゆえに、姉さまは、ついに頷かれたのです。
篠は、そのやりとりを障子の影から見つめておりました。これで、澪姉さまとは永遠に別れるのだと、どこかで理解していたように思います。けれど篠には、それを悲しむだけの形をした心が、まだありませんでした。空のように何も宿さぬ胸では、執着も抗いも芽吹かず、涙の流れ方さえ、よく分からなかったのです。
ただひとつ、巫女服を纏われた姉さまの姿だけが、篠の目に、焼きつきました。梓弓を携え、面丸鏡を抱え、月光のような白さで立つ姉さまは、祈りそのもののように美しかったのでございます。
旅支度を整えられた姉さまは、ためらうことなく篠に手を差し伸べてくださいました。その手は、冷たくも熱くもなく、ただ、月の光のような静かな温もりを湛えておりました。
その瞬間、篠は、初めて「選びたい」と思いました。誰かの孤独に添うために。誰かの灯を守るために。空虚なはずの胸の奥で、小さな意志が、ひとつだけ形を持ったのです。自らの足で、澪姉さまと共に、語りの道を歩みたいと。それが、篠が持った最初の意志でございました。
十一の澪姉さまと、六つの篠。幼き梓巫女の姉妹は、生まれ育った里を離れ、熊野霊山の影を背に、遠く、遠くの地へと、あてもなく旅立ったのです。
その背が村の視界から完全に消えるまで、風だけが見送っておりました。




