いろは歌
闇は、熊野霊山の奥を静かに覆っていました。
月は欠けており、光はほとんど地に届かず、風だけが白衣の裾をそっと揺らしていたのです。
篠は、呼ばれた気がいたしました。
聲ではなく、名でもなく、胸の奥をかすめるような――魂の気配、とでも申しましょうか。
澪姉さまであれば、その響きを風と同じ呼吸で聞き分けられたでしょう。
姉さまは、篠にとって祈りの灯でした。
闇夜に浮かぶ欠けた月のように、完全ではなく、しかし確かに道を照らす光。
けれどその光はもう、この世にはありません。
だから篠はひとりで歩きました。
恐れも迷いもありませんでした。
感情が乏しいというのは、時に便利なものなのです。
いろは歌が、唇から自然と零れました。
「いろはにほへと、ちりぬるを……」
彷徨える魂と邂逅するとき、歌は風のように流れ出る――
そう姉さまに教えられたのを、篠は覚えておりました。
岩場に差し掛かったとき、唄がふと止まりました。
そこに、気配がありました。
白装束の青年が、岩に凭れるように倒れておられました。
衣は血に染まり、黒い瞳孔は閉じきらず、闇の底を見つめています。
傍らには、息絶えた熊が横たわっていました。
命と命が、互いを削り合った痕跡です。
篠は、その光景を淡々と眺めました。
恐ろしいとは思いませんでした。
そういう感情は、生まれたときから持ち合わせていないのです。
跪き、青年の瞳に触れると、魂はそこにはございませんでした。
かといって、彼岸にも渡りきれず、どこかで足を止めている――そんな気配でした。
篠は瞼を閉じて差し上げました。
「苦しかったのでしょうね」
その言葉が優しさなのかどうか、篠には分かりません。
ただ、語るべき時には語る。それだけのことです。
歌を続けました。
「わかよたれそ、つねならむ……」
虚空に滲む記憶が、篠の胸に触れました。
母を失った夜の焦燥。
祈りが届かぬ苦しみ。
そして――
――りょうしょう。
最も深く残っていた響きでした。
名ではなく、願いのようでした。
求め、焦がれ、最後の瞬間に呼び続けた灯。
その響きに、篠は覚えがございました。
欠けた月の夜に出会った僧――天満月の方の声と重なったのです。
篠は青年の名を静かに口にしました。
「……螢雪さま」
思い入れがあったわけではありません。
ただ、記録がそう囁いただけのこと。
けれど、螢雪さまが求めた“りょうしょう”という光は、篠の血の底に微かに揺れました。
その灯が導く先――
澪姉さまの記録を語らねばならない、と篠は思いました。
語りとは、祈りの形であり、祈りとは、魂を還すための道ですから。
だから篠は、欠けた月の下で瞼を閉じ、血の記憶を、静かに紡ぎ始めたのです。




