表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
縁起外伝~宵待ちの螢~  作者: 熊掛鷹
天満月の影
28/37

愛別会

 正徳元年。私は十九を迎えていた。

 翠藍様が逝かれて一年が過ぎ、冬の気配が杉の梢を震わせはじめた頃、奥の院の行は、いっそう静まり返っていた。


 喪失の熱だけが、なお胸の奥でくすぶっていた。

 季節は巡れど、あの灯だけは沈黙を保っていた。

 覚明様の眼差しと、高野で出会った僧たちの気配がなければ、きっと心はどこかで折れていただろう。


 紅葉が石畳に散り、灯籠の光が霧に滲んだ夜だった。

 御廟橋の手前に立っていた。

 笠を外し、草履を脱ぎ、数珠をひとつだけ鳴らす。

 その一音に、奥の院の沈黙が、深く応えた。

 月は雲の奥に沈み、参道は白い霧に覆われていた。

 冷たい気配が頬を刺し、吐く息だけが灯籠の下でほどけた。

 そのとき――

 聖域が、ごくかすかに揺れた。風でもなく、地鳴りでもない。

 世界の縁がひとつ踏み越えられたような、静かな震えだった。


 杉の影の間に、白いものが揺れた。

 足が止まり、目が自然にその奥を探った。


 霧の向こうに、ひとつの影が立っていた。


 螢雪だった。


 衣の裾が揺れているのに、そこに重さがなかった。

 息の音もしない。ただ、目だけが、生きていた。

 その目を見た瞬間、胸のどこかが冷たく裂けた。

 思考よりも先に、ひとつの感覚だけが落ちた。

 埋まらぬ空白が、もうひとつ重なったような感覚だった。


 螢雪は、何も言わずに立っていた。

 懐かしさとも、呼びかけの途上ともつかぬ揺らぎが、瞳の底に滲んでいた。

 震える手で数珠を握りしめ、喉の奥でひとつの名を探した。


「……螢雪」


 その一音が霧に触れた瞬間、螢雪の姿は、音も残さず、霧と同じ密度にほどけて消えた。

 残ったのは、沈黙と霧だけだった。

 杉の影が揺れ、灯籠の光が細く滲んだ。


 膝が崩れ、石畳に手をついた。

 冷えた地面の硬さだけが、指先に静かに積もっていった。

 そこに立っていたはずの姿が、もうどこにもなかった。


 何が起きたのか、どこで途切れたのか──

 そのすべては霧の奥に沈んだままだった。

 ただ、ひとつの結末だけが、揺らぎもせず、そこに残っていた。


 その夜ののち、螢雪の姿は、毎晩のように現れた。


 言葉も持たず、ただ立っていた。

 口元に、笑みとも影ともつかないものを浮かべて。

 私は手を伸ばし、名を呼ぼうとした。

 声が形になるその直前に、螢雪は霧へ戻った。

 音も影も置かずに。

 沈黙を選んだ夜もあった。

 名も呼ばず、祈りも言葉にせず、ただ息だけを置いた。

 それでも、気づけば姿はなかった。


 語っても消え、黙しても消えた。

 その消失だけが、夜ごと、静かに積もっていった。


 灯籠の灯が揺れ、その陰に覚明様の姿があった。

 いつからそこにおられたのか分からなかったが、その眼差しは、私の痛みを逸らさずに受け止めていた。


「彼は……己が死んだことすら忘れて、彷徨っているのだろうね」


 声は、夜気よりも静かに落ちた。


「言葉は、ときに刃になる。まずは器を先に──数珠の呼吸を、彼に渡しなさい。声は、そのあとで良い」


 あまりにも淡々と告げられた“死”という音が、胸の奥で、何かがひっそりと割れた。

 痛みは叫びにならず、ただ静かに沈んでいった。

 息を吸うたびに、そのひびが胸の内側でわずかに軋んだ。


「……螢雪は……本当に、逝ったのですか」


 声は霧に触れながら、かろうじて形を保っていた。

 言葉を足そうとした瞬間、胸の底で何かが崩れ、声は途切れた。

 霧が喉の奥に溜まるようで、言葉はそこで止まった。

 覚明様は、いつもの柔らかな笑みを静かに消し、師のまなざしで私を見据えた。


「彼の死を、君はすでに知っている。ただ……その形を見ることを、心が拒んでいるだけだ」


 その声は叱責でも慰めでもなく、ただ、事実だけをそこに置く響きだった。


「だが、導く者が目を逸らしてはならない。君は、もうその立場にある。彼は何故、君の許へ辿り着くと考える?」


 問われ、私は視線を石畳に落とした。


「……魂がこの世を彷徨うのは、命の終わりに残された想いが、まだ果たされぬ故だと……そのように、教わりました」


 言葉は、自分の内から拾い上げていくような、遅い速度だった。


「ならば……終わりの際に、私を思ったのでしょう。その念が、魂をここへ誘ったのだと」


 覚明様は静かに頷かれた。

 肯定ではなく、ただ事実の灯を置く仕草だった。


「君が言葉を紡ぐ前に彼が消えるのは、君自身が、その事実に触れることを恐れているからだ」

 声は静かで、責めも慰めも含んでいなかった。

 ただ、覆いをはがすように淡々としていた。


「その恐れが、言葉を閉ざし、時を繰り返させている。導く者が目を逸らせば、魂は迷い続ける。死した魂も、生きる我らと同じく、永遠ではない。縛られたまま同じ夜を歩かせてはならない」


 わずかに、覚明様のまなざしが深く沈んだ。


「……君がすべきことが、分かるね?」


 言葉は探せなかった。

 胸の内で、わずかな風がきしんだ。


 覚明様は、私の沈黙に重ねるように続けられた。


「本来であれば、あのような魂は、この聖域まで辿り着くことなど、できはしない。空海様がそれをお許しになっている。――そういうことだよ」


 一度だけ、静かな間が落ちた。


「良宵くんの祈りで、導いてやりなさい。そのための御慈悲だと、私は思う」


 その声音には、わずかな温度があった。

 突き放さず、寄り添いもせず、ただ“道”の方向だけを示す温度。


「彼は……君の誓願の基盤となった存在だったのだろうね。君がここまで歩めたのは、彼という灯があったからだ」


 言葉は淡く、しかし胸の奥を正確に射抜いた。


「だからこそ――縛られる前に、決めるんだよ、良宵くん」


 名前だけが、最後に静かに置かれた。

 それは命じる声ではなく、選ぶべき一点を示す声だった。


 空海様の聖域に、螢雪の魂が立っている。

 本来ならありえない光景が、確かにそこにあった。

 それが試練であることは、頭では理解できた。

 ――けれど、心だけが、どこにも動かなかった。


 螢雪は、生を離れてなお、私を頼って来た。

 その魂を彼岸へ送ることが導きなのか、それとも、私が彼を手放す行いなのか。

 そのどちらともつかぬ問いだけが、霧の底に沈んだまま、形を結ばなかった。


 私は、ゆっくりと首を振った。

 声にはならず、わずかな息だけが漏れた。それが覚明様に届いたのかどうかは、分からなかった。

 視界の端で、涙がひとつ滲んだ。

 言葉より先に、痛みだけが落ちた。


「……猶予を、賜りたく存じます。もう少しだけ……」

 それは祈りではなく、願いでもなかった。

 ただ一つの魂に向けて、差し出せる限りの誠だけがあった。


 覚明様は何も言わず、静かに、私の肩へ手を置かれた。

 その沈黙は、祈りより深く、痛みよりもやわらかく、胸の奥に、静かな刃のように沈んだ。


* * *

 季節がひとつ過ぎた頃、消失の重さは、もはや痛みと呼べないものになっていた。

 ただ薄く沈み、胸の底で形のない影となった。


 高野の修行にも、終わりの気配があった。

 その気配は、風より静かに、心の奥へ触れた。


 螢雪は、いまも霧のように現れては、霧へ消える。

 その繰り返しのどこかで、私は──静かに、ひとつの答えへ傾き始めていた。


 理由は、どこにも置けなかった。

 言葉にすれば嘘になるような、名のない傾きだった。


 ただ、その夜の月は冴えていた。


 八月十五日。二十を迎える夜。

 雲の切れ間からこぼれた月光が、静かに足元を照らした。

 影が細く伸びた。

 確かな輪郭だった。


 数珠を握る手に、決意という名はなかった。

 それでも、心は、あるひとつの方向へと向いていた。


「……固まったのだね」


 背から届いた覚明様の声に、私はただ、ひとつ頷いた。


 その頷きは、別れではなく、導くために必要な、静かな峻さだけを抱いていた。


* * *


 御廟橋の手前に立っていた。

 風はなく、霧だけが静かに流れていた。


 瞼を伏せ、数珠を指先に置いた。

 決意という名を持たぬまま、胸の奥に沈んでいた。


 時が来るのを、ただ待った。


 ――その夜の螢雪は、いつもと少し違っていた。


 白装束は裂け、ところどころに、かすかな血の跡が滲んでいた。

 顔は疲れ果て、目の縁には乾きかけた涙の線が残っていた。


 そして、螢雪の魂は、初めて言葉を持った。


「……りょうしょう……」


 名を呼ぶたび、声の輪郭がほぐれていった。

 言葉の縁だけが欠け、記憶の片方だけが残っているようだった。


「……寺を……出た……

 信楽様にも……叢海様にも……

 すまぬことをした……はずなのだが……」


 “はず”という一語だけが、やけに鮮明だった。


「……お前を……追った……

 ただ……それだけは……

 覚えている……」


 螢雪の視線は、記憶と現実のあいだをゆらいだ。


「山を……歩いて……

 いつ……だったか……

 足が……どこかで……沈んだ……

 暗かった……

 ……あれは……崖……だったのか……?」


 言葉は、落ちるたびに霧へ吸われていく。


「……痛みが……あった……

 何かが……噛んだ……ようで……

 でも……」


 螢雪はそこで、ふと言葉を止めた。

 “痛み”だけが、生前のまま残っているようだった。


「……良宵……

 お前の名だけが……浮かんだ……

 それで……歩いた……

 どこを……どう歩いたのか……分からない……

 気づけば……この場所に……いた……」


 ほんの少し笑った。

 その笑みには、温度がなかった。


「情けないよ、良宵。

 でも……もう一度……会いたかった……

 お前が……こんなにも……懐かしい」


 笑みは、薄い風に裂かれるように消えた。

 涙がひとすじ落ちたが、霧に触れた途端に跡を失った。


「なぁ……良宵……

 駄目な兄弟子だが……

 こんな俺でも……お前と……共に修行ができると思うか?」


 その問いが落ちた瞬間、胸の奥でひとつ、音のない軋みが生まれた。

 数珠を握る指に、細いひびが入ったようだった。


 螢雪は、自分がどこで途切れたのかを知らなかった。

 ただ、私と共に修行を望むという、その一点だけを抱いて立っていた。


 その姿を見たとき、胸の内で別の声が静かに立ち上がった。


 ――ならば、私の歩みが、螢雪をここまで連れてきたのか。


 寺を離れるとき、私は振り返らなかった。

 伸びかけた螢雪の手から目を逸らし、己の道だけを選んだ。

 その選択が、螢雪の背をどこへ押しやったのか。ようやく、その輪郭が淡く浮かびはじめた。


 もし、あのとき一歩でも戻れていたなら——そんな思いがひとつ、静かに沈んだ。


 螢雪は涙を拭おうともせず、弱く笑った。


「あぁ、良宵……我が同門の兄弟よ。俺達はまた、共に修行ができるのだ……あの頃のように……」


 冬の息吹が参道を包み、灯籠の光がひとつだけ影を伸ばした。


 祈りを下ろすことができなかった。

 数珠を握りしめたまま、ただ、微かな笑みだけを返した。

 螢雪は、それを答えと受け取った。

 安心しきった子どものような目で私を見つめた。

 その夜、祈りはなお空を切り、螢雪の魂には届かなかった。


 ……もし、あの夜へ戻れるのなら、私は迷いなく、螢雪を彼岸へ送っただろう。


 秋。

 高野山での最後の夜。

 空海様の御廟を背に、私は橋の前に立った。

 月光が揺らぎ、夜の帳が細く裂けた。

 影がひとすじ、前へ伸びる。

 私は静かに目を開き、その先を見据えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ