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縁起外伝~宵待ちの螢~  作者: 熊掛鷹
天満月の影
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高野

 冬の気配が深まり、私は高野への道をひとり歩いていた。


 峠にかかる雲は薄く、潮の匂いだけがまだ衣にかすかに残っていた。


 和歌の浦で出会った姫・翠藍様は、大蛇の呪いに蝕まれ、十七でありながら、生の半ばを諦めたような眼差しをしていた。

 その瞳が、ある朝、波の静けさに似た色へ変わった瞬間を、私はいまも忘れられない。

 あの頃の私は、呪いを祓う術を持たず、ただ痛みを眠らせることしかできなかった。

 それでも姫は、怨みではなく、言葉にならぬ祈りを胸の奥に宿していった。


 ──あの祈りが、どこへ辿りついたのか。

 それを語るには、まだ別の季節が必要だ。


 彼女の笑みは、塩の香のように、いつまでも衣にとどまった。

 その灯を離さぬよう、私は高野へと歩みを戻した。


 高野山に辿りついたのは、雪が静かに寺を包みはじめた冬の初めだった。


 金剛峯寺の広い堂は、深い水底のように静まり返り、灯籠の灯が、障子越しに映る雪明かりをかすかに揺らしていた。

 冷気は骨まで澄み渡り、吐く息がゆるやかにほどけていく。


 その静寂の中央に、教学阿闍梨・覚明(かくめい)様が立っておられた。


 和顔の阿修羅──

 その名がどこから生まれたのか、対面した瞬間に理解した。

 穏やかな笑みの奥に、ひそやかな洞察の刃が潜んでいる。


「良宵くん。ようこそ──高野の灯へ」

 緩やかな声だった。

 だが響きは、雪を抱いた山のように静かで重かった。


 覚明様の背後、広く開けた座の奥には、別当様が沈黙のまま控えていた。

 その沈黙が、堂の空気をひときわ引き締めていた。


「さて──君は、何のために修行をするのかな?」


 問われた瞬間、胸の奥で何かがそっと整った。

 私は深く一礼し、言葉を選ぶように答えた。


「この命、衆生済度の願いにて歩ませていただきたく存じます。身を捨てるためではなく……命を灯すために」


 覚明様は扇子をゆるく持ち上げ、微かに口元を隠した。

 その奥で、笑みがわずかに揺れていた。

 声には出さず、ただ静かに受け取るような笑みだった。

 ──奥に控える別当様の気配が、覚明様の笑いを抑えているのだと、

 若い私はその時、薄く理解した。


「そうか。ならば、この山は──君には厳しくも、やさしい場所になるだろう」


 その声が、雪明かりのように胸に落ちた。

 静けさの中で、灯がひとつ、確かに脈打った。


 * * *

 雪深い高野では、声よりも火の呼吸が先に胸へ落ちていった。


 曼荼羅観は、心の影をそのまま映していた。

 火の呼吸は、まだ遠くの水音のように揺れていた。

 同じ堂に籠る、行を共にする者たちは、時に呻き、時に悔しさを噛みしめながら座していた。


 私はただ、火のゆらぎを見つめていた。

 苦でもなく、悦びでもなく、

 名のない沈黙の底へ降りていくような感覚だった。


 覚明様は、時折こちらを一瞥されることがあった。

 その視線の意味を、当時の私は深く測ることができなかったが、いま思えば──あれは“歩みに寄り添う者”の眼差しだったのだろう。


「良宵くん、曼荼羅観はどうだい?」

「まだ、深くは見えませぬ」

「そうか。じゃあ護摩を二十日ほど増やしておこうね。火は、形を呼びやすいから」


 声は柔らかい。告げられる行だけが苛烈だ。


 その瞬間、背後で息を呑む気配があった。

 顔を青ざめさせ、そっとこちらに目をやる者もいた。

 私はふと目を伏せ、静かに微笑んだ。

 行とは、ひとりで越えるものと思っていた。いまは、その息遣いが隣にある。

 息を呑む者がいて、震える者がいて、それらが交差し、追い越しながら、行が積み重なってゆく。

 その静かな共鳴が、胸のどこかを温かくした。


 覚明様は、怒声も叱責も用いられなかった。

 だが沈黙だけでもない。

 笑顔のまま、平然と過酷を足してくる方だった。

 まるで火の性質を知る者のように、何を燃やし、どこを照らすかを、迷わず選んでゆく。


 横川の無名様が“沈黙で導く師”だったのなら、覚明様は“言葉の底に慈悲を潜ませる師”だった。

 痛みを避けず、迷いをごまかさず、笑顔のまま、さらに深い行へと手を引いてゆく。

 比叡では掴めなかった「寄り添い」は、高野の静けさの中で、そっと背を押す掌のように息づいていた。

 * * *

 ある日、宝物殿の棚奥に、埃をかぶった古巻があった。

 墨のかすれに時の重みが沈み、空海上人の直筆と伝わるその頁には、見慣れぬ真言が刻まれていた。


 おん でぃーぱ ぷらかーしや そわか


 墨跡の傍らに刻まれた見慣れぬ梵字を、覚明様は指先で静かになぞられた。


「『でぃーぱ』は光、『ぷらかーしゃ』は火」

 そういう意味を持つのだと、淡く語られた。


 法燈明、自燈明──

 そう解する者もいるらしい。

 だが、その声に説教めいた響きはなく、どこか探るような柔らかさがあった。


「これまで誰も気に留めず、誦唱にも用いられたことはないよ」


 そう続けながら、覚明様の瞳にかすかな笑意が浮かんだ。

 それは教義への誇りでも、珍しさへの驚きでもない。

 長く棚奥で眠っていた灯が、ようやく誰かの呼吸に触れたことを、密かに喜ぶような表情だった。

 そのとき、胸の奥で微かな揺れが走った。

 懐かしいようでもあり、初めて触れる響きのようでもあった。

 それは思考よりも早く、ただ“声にしなければならない”という、かすかな衝動だけが静かに灯った。


 覚明様は驚きを見せなかった。

 微笑すら浮かべず、ただ扇子をそっと閉じられた。


「……良いだろう。君の心が呼ばれたのなら」

 その声が落ちると、堂内の空気がひとつ深く沈んだ。

 私はまぶたを閉じ、胸の底でわずかに揺れる灯を、ひと息で静かに沈めた。

 息が落ちる先に、かすかな温もりだけが残った。


 ──オン・ディーパ・プラカーシャ・ソワカ。


 その瞬間、世界が白い閃光に満たされた。


 青蓮を掲げる女神が立っていた。

 突然に現れたようで、しかし、ずっとそこに在ったかのようでもあった。

 金の瞳がこちらを映し、春霞のような髪が虚空へほどけてゆく。

 微笑には幼い無垢と、触れられぬ祈りの影が淡く宿っていた。


 ただ一灯だけが、胸に置かれた。音はなかった。


 光が退いたあと、堂の空気はゆっくりと沈み、静けさを取り戻した。

 目を開けると、覚明様が静かにこちらを見ていた。


「閃光は見た。だが──君が見た“何か”は、私には見えなかった」


 それだけを告げると、覚明様は再び黙された。

 その沈黙は、疑いではなく、これから共に歩む“深さ”をすでに見据えた者の、静かな覚悟だった。


 私の霊性はまだ未熟だった。

 導きにもなれば、危うい刃にもなる──

 そのことを、誰よりもよく理解していたのは、私自身だった。


 夏の光が障子を透け、広間に淡く広がっていた。

 金剛峯寺の拝殿。

 別当様が坐す場。

 呼ばれたまま、静かに正座していた。隣には覚明様が坐しておられた。

 空気は澄み、音のない時間が、ひと呼吸ごとに深まっていった。


「龍華良宵よ」


 別当様の声は低く、揺らぎがなかった。


「汝の力は、未だ制御されざる炎なり。

 己を磨き、その炎を慈悲の光へと転じるまでは──

 奥の院より、一歩も出ることを許さぬ」


 それは、静かな刃だった。


「天地が揺れようとも、汝の命は衆生のために捧げよ。その覚悟なくして、この山に留まることはかなわぬ」


 その言葉だけが、胸の奥に深く沈んだ。


 奥の院より一歩も出るなかれ。

 不動の護摩三百日、虚空蔵の真言三百日──

 静かに、課された。


 脇に控えていた覚明様と、視線が交わった。

 慰めでも反論でもない。

 ただ、決断の重さを共に受け取る者のまなざしだった。


 私がかすかに頷くと、覚明様はわずかに唇を緩められた。

 その微笑は、未来の灯をひとつ受け取った者の、静かな承認に近かった。


 胸の奥で、何かがゆるやかに息をした。


 私は深く頭を垂れた。

 この身をどこへ向けるのか。

 その歩みを、いま決めることだけが、静かに確かだった。


 * * *

 護摩の炎が、ゆらぎを細く伸ばしていた。

 奥の院に閉ざされて数か月。私は十六を迎えていた。

 年を重ねたという実感よりも、ひとつの灯が静かに深みに沈んだ。ただそれだけの感覚だった。

 火の呼吸だけが、昼と夜の境を教えてくれる日々だった。


 静けさの底で、大地が、底から突き上げるように鳴った。


 灯籠が激しく揺れ、倒れ、壁に細かな亀裂が走る。

 護摩壇の火が一瞬、形を失い、煙が乱れて視界が白んだ。


 外から、風に乗って人々の叫びが届いた。

 山の向こうで海が軋む音がした。

 紀伊の地がどこかで裂けてゆく気配が、思考の縁を冷たく撫でた。

 和歌の浦で出会った人々――

 春の青蘭のようなその微笑だけが、胸の底で、消えぬ火となった。

 私は思わず扉へと身を向けた。

 その瞬間、背後でひとつ咳が落ちた。


 振り返ると、覚明様が壁にもたれ、額から細い血を流しながら、ただ私を見ていた。

 その眼には、怒りも嘆きもなかった。

 ただ、ひとりの僧としての断だけがあった。


 首が、ゆっくりと横に振られた。

 天地がどう揺れようと、堂を出ることは許されない。

 その意味を悟った刹那、自分の浅さが胸の底で崩れた。

 膝が震え、息が乱れた。

 それでも私は、火の前に戻った。

 炎は荒れ、煙は白く、胸の奥が焼けるほどの焦燥が走った。


 それでも、護摩の火に向かうしかなかった。

 真言を唱える声はかすれ、息は乱れ、汗が頬を伝う。

 その向こうで──翠藍様の微笑が、ふっと揺れた。


 その光だけが、揺れ続ける世界の中でひとつ確かだった。

 覚明様の沈黙が、そっと背に宿った。

 その静かな覚悟だけが、私の祈りを支えていた。 


 * * *


 二年が過ぎていた。

 私は十八になった。


 翠藍様が息を引き取った、秋の終わり──

 その冷たさは、幼き日に見た父の姿と重なった。


 喪失とは、いつも不意に訪れる。

 気がつけば、胸のどこかが静かに崩れている。


 なれど──

 崩れた胸の底に、祈りが滲んだ。

 それは、炎に焼かれながらも、なお灯り続けた。


 護摩の炎が揺れた。

 覚明様は黙って座していた。

 私はその背中を静かに見据えていた。


 雪の降る気配が、炎の向こうからかすかに届いた。

 音というほどでもなく、ただ空気が沈む気配だけが胸に触れた。


 炎の温みが頬を照らし、外から流れ込む冷気が、背の衣を静かに冷やしていた。


 熱と寒気がひとつに重なり、心の奥で灯がわずかに揺らいだ。

 喪失により、我ならざる我が、静かに思い出す。

 父が捨身を遂げた、あの夜の炎が胸に灯る。

 この世の一切は無常であり、世間は燃え立っている。

 ――私の、この心も。

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