誓願
紅葉が色づき、秋の気配が叢雲寺を包んでいた。
拝殿の中央に正座し、静かに息を整える。向かいには叢海様と信楽様が座しておられ、その脇に一門の僧が並んでいた。
信楽様の数珠がひとつ鳴る。薄く私を射抜く眼差しは、刃のように澄んでいた。
叢海様は香炉の煙を指先で撫で、やわらかく微笑まれた。
「良宵、そなたはこれより紀伊の高野山へ参る。力ある者がその力に呑まれぬためには、導きが要る。金剛峯寺の別当殿より、ぜひにとご指名を賜った。教学阿闍梨・覚明様のもとで術の理を学び、心を修行の灯にて磨きなさい」
叢海様の言葉に、胸が静かに震えた。
それは導きであり、信頼であった。
私は掌を膝に添え、深く頭を垂れた。
「斯くも尊き機会を賜り、光栄に存じます」
自らの声が、驚くほど澄んで響いた。
信楽様の気配が、さらに鋭さを帯びる。
「高野の聖地は、弘法大師空海上人が開かれし密教の根本道場。天地の理を解し、衆生を救わんとする試練の地。一子相伝の秘儀を継ぐ門を潜れば、行を終えるまで下山は許されぬ。
修行途上で命尽きた法弟も少なくはない。良宵さん──貴兄にその覚悟はありますか。
心身を、いえ、命を修行に捧げる気魄はありますか?」
言葉は穏やかであったが、奥に澄んだ刃が潜んでいた。
私は静かに目を上げ、二人をまっすぐ見返した。
「私は修行に命を捧げることはできません」
僧たちの呼吸がわずかに揺れた。
「命を惜しみ……修行を退かれるおつもりでございますか」
「そうではありません」
声は静かだった。
しかし、その静けさは不思議なほど揺らがなかった。
「命を仏のために捨てることは、私の本願ではありません。
仏より賜りし命は、我が身のために費やすものではなく、生きとし生けるものが安らぐためにこそ、用いるべきものだと信じております。
──これが私の願にして、衆生済度こそ我が誓願。
出家の身とはいえ、命を捧げるためではなく、命を灯すために、仏の道を歩む覚悟にございます」
叢海様は目を細め、香炉の煙を眺めながら言われた。
「草木は揺れど、根を忘れず。命は風に散るとも、願いは土に残る。
そなたの父、良治先生の志こそが、今日まで小さき灯を守り育てた根である。
龍丸──その名を越えて、よくぞここまで育たれた」
“龍丸”と呼ばれても、心は静かだった。
その名を越えるべき時が、ようやく来たのだ。
「……その深き志こそ、不惜身命の修行を重ねし今のそなたを成した根源にほかならぬ。
良治先生の志を胸に抱き、弘法大師の御前にて行に励むがよい。
宵の一門より旅立つそなたに──『龍華良宵』の名を授けよう」
蝋燭の灯が揺れ、若草色の袈裟を照らした。
私は両手をつき、深く頭を下げた。
「御教誡、胸に刻みました。
『龍華良宵』の名を灯として、父母より繋がれし命を徒らに落とすことなく、
衆生済度の願をもって修行に尽くしてまいります」
父の詩が、胸の奥で静かに息を吹き返す。
《只々世の為、人の為。されば我が為、我が子らが為》
父は命を差し出し、私に生きる道を残した。
その慈悲が、私の祈りの始まりだった。
私の祈りは、空を切らぬためにある。
──それを、宵の一門に教えられた。
そして今、ようやく灯がひとつ、名を得た。
* * *
十五の秋、叢雲寺を離れた。
朝日が山路を淡く照らし、山門には一門の僧たちが並んでいた。
読経の声が、旅の無事と修行の成就を祈るように胸へ沁みる。
ひとり、またひとり。
感謝を告げていくうち、集まりの後方に佇む螢雪の姿が目に入った。
私は歩み寄った。
「螢雪……お前は私の朋友だ。この十年を耐えられたのは、お前の灯が傍にあったからだ」
名を呼ぶたび、言葉を紡ぐたび、祈りのような優しさが胸に満ちていった。
「良宵……俺は……」
螢雪の声には、言葉にならぬ揺れがあった。
ただ、その意味を探るには、私はあまりに未熟だった。
螢雪は宵の一門の太陽だった。
「お帰り、良宵」と笑った声。あの声が、どれほどの夜を照らしただろう。
「お前の道を、我が心にて祈念する。兄弟子として」
螢雪の微笑みに、光の奥の涙が微かに滲んだ。
触れれば崩れる気がして、その意味を問うことができなかった。
「ありがとう、螢雪。必ず修行を完遂して戻る。しばしの別れだ」
その瞬間、螢雪の手が、私の背へ伸びた気がした。
触れる寸前で止まった、気配だけの手だった。
振り返れば、きっと迷う。
その迷いこそ、螢雪が最後に示した“祈り”だったのだろう。
ただ、当時の私は、それを祈りと呼ぶ術さえ持たなかった。
叢雲寺の門をくぐり、霧深い参道を降りてゆく。
五歳のとき、叢海様に手を引かれて上った道だ。
次に戻るとき、衆生を照らす灯となれるよう――
その誓いを胸に、歩みを進めた。
だが背には、まだ螢雪の気配が残っていた。
あの伸びかけた手が示していたものを、
私はこの時まだ、名付けることができなかった。




