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縁起外伝~宵待ちの螢~  作者: 熊掛鷹
第七章:天満月の影
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問答

 あの夜のことは、まだ胸の底に静かに沈んでいた。

 鬼若は叢海様の客人として堂に迎え入れられ、一門の空気がわずかに変わった。


 雲母坂の深緑が、初秋の霞に溶けていく。

 風は涼しく、夏の名残をひと息ごとに落としていった。


 寺の者たちは鬼神の夜を語り草にし、眼差しの温度が、そっと変わるのを私は感じた。


 崇めるでも、恐れるでもない。

 ただ、触れぬように――

 手前で呼吸をひとつ置くような、静かな隔たりだけが広がっていった。

 そのわずかな距離が、風よりも冷たかった。


 叢雲寺の園庭に足を踏み入れると、露を帯びた落ち葉が足元に散り、竹箒の音が、子らの笑い声と混じり合って揺れていた。

 螢雪が箒を握り、僧童らとともに落ち葉を集めている。

 その所作は軽やかで、笑い声は秋の空へまっすぐに昇っていった。

 私は園庭の端に立ち、しばらくその光景を眺め、そして静かに踵を返した。


「お帰り、良宵」

 螢雪の声が、秋風の中で私を引き留めた。

 手招きする螢雪に、私はひとつ微笑を返し、そのまま境内の奥へ向かおうとした。


「――良宵!」

 露を含んだ園庭に、螢雪の張り上げた声が鋭く響いた。

 振り返った瞬間、螢雪が腹を押さえて崩れ落ちた。

 胸がひとつ跳ねた。

 気づけば、足は地を蹴っていた。

 露を踏む音だけがやけに大きい。

 螢雪の名を呼ぶ前に、手が伸びていた。


 ……次の瞬間、湿った葉がふわりと宙を舞い、私の肩と袈裟に降りかかった。

 螢雪が、こちらを伺うように目を細めていた。

 芝居だった。

 安堵が胸でほどけ、同時に、どこか子どもじみた悔しさが滲む。

 落ち葉まみれの私を見て、僧童らがくすりと笑いを漏らした。

 螢雪は立ち上がり、軽く袖を払って言った。

「さて、良宵はこのように、落ち葉の声を聞く役目を担ってくれた。『語らぬ者にこそ語りかけよ』――京灯百夜抄にある宵の諺だが……さて、この題目を覚えている者はいるか?」

 螢雪の声が、落ち葉の山にそっと染み込んでいく。

 笑いの輪がゆるやかに広がり、僧童たちの小さな足音が秋の空へ軽く跳ねていった。 露の冷たさ、土の匂い、子らの息づかい――それらが胸の奥で、いつしかひとつの灯へと集まっていく。

 その向こうで、ひとりの僧童が手を挙げた。宵岸だった。

「嵯峨野の地蔵です」

「正しき解なり。この諺の意味は―― 語らぬ者が、しばしば見過ごされるということだ。 例えば道端の地蔵のように、その静けさは容易に通り過ぎられてしまう。 だが、言葉を届けるべきは、そうした沈黙の者たちである。 語らぬ者に語りかけることこそ、尊厳を認め、命を吹き込む行いなのだ」

「つまり、黙する者に慈悲を向ける、ということでしょうか?」

「その通りだ。宵岸、お前はやはり聡い子だ」

 螢雪が宵岸の頭に手を置き、軽やかに笑った。

 螢雪は、子らの輪の中に、そっと溶けていた。その背にまとわりつく光が、どうしようもなく眩しかった。

 その笑みがふと風に揺れ、私は、いつのまにか光の輪の端に立っているのを知った。

 螢雪は、あの夜以来ずっと、踏み出さずにいた私の背に、静かに手を添えていたのだろう。

 ――螢雪は決して、私を置き去りにしない。

 その気配に胸がわずかに揺れた。

「ならば、宵岸。灯を抱く者は、燃えぬ炎を知る。この題目も覚えているか?」

「比叡の薪でございます!」

 宵岸の声が弾んだ。

 螢雪が語ったのだと、すぐにわかった。

 私は穏やかに頷いた。

「その通りだ。――だが、題目の意味は、言葉だけでは伝えきれぬ」

 背の薪をそっと地に下ろす。

 ――燃えぬ炎。

 怒りも悲しみも、声にせず抱えたまま歩む者。

 螢雪は、その静けさを語ろうとしていた。

 ならば私は、別の形を示したかった。

 輪に歩み寄るその手に、素直に応じればよかったのかもしれない。

 だが、それでは自分のどこかが崩れてしまう気がした。


 私は一歩、螢雪へ近づいた。

 肩に軽く手を置き、身をひとつ預けさせる。


 ふわりと浮いた体を、濡れた地面へ静かに返す。

 紅葉が舞い、僧童らが小さく息を呑んだ。


 螢雪は濡れた地に横たわり、眩しげに私を見上げていた。

 胸の奥が、ふっとほどけた。

「灯を抱く者は、燃え盛らぬ炎の本質を知る。 静かに抱え、時にその炎を纏い、時に誰かのために差し出す。 この背負い投げも、その慈悲の一端だと、私は思っている」

 螢雪は息を整え、眉を寄せた。

「それは曲解だ、良宵!“比叡の薪”が語るのは力じゃない。怒りも悲しみも外に出さず抱える者の静けさだ。灯は照らすためのもので、焼くためじゃない。そもそも、背負い投げをする必要が、本当にあったのか?」

 その声に触れた瞬間、胸の奥で、ひそやかに何かが開いた。

 どうして、この男はこんな時でさえ光を落とさぬのか。

 私は身をかがめ、螢雪の瞳をまっすぐに見据えた。

 幼い日、師を真似て繰り返した問答。

 いつも螢雪の言葉に押し返され、私の沈黙で終わっていた。

 だが今なら――


「ならば問う。灯を掲げる者が己の痛みを抱えたまま歩むとき、灯は風に揺れ、雨に濡れ、やがて消えようとする。如何なるか、灯を守る術とは。言葉か。沈黙か。あるいは、背負い投げか」

 園庭に、静かな緊張が落ちた。

 螢雪は手をつき、ゆっくりと息を整えた。

「言葉は風に乗るが、沈黙は地に根を張る。

 背負い投げは慈悲を問う者には痛みとなるが、灯を守る者には方便だ。

 だが、方便は真理を包む布であって、真理そのものではない。

 “比叡の薪”が語るのは燃やすことではなく、燃えぬ炎を知る者の静けさだ。

 そして、俺の灯は今、地面に散っている。

 ……どうか、拾ってくれ」


 その言葉が落ちた刹那、胸に小さく波が立った。

 叢海様の語りに似た、深い静けさだった。

 私は目を伏せ、笑いを堪えた。

 肩がわずかに揺れた。

「それは……落ち葉の声を聞く者の役目だろう」


 螢雪は空を仰ぎ、笑った。

 幼い日から変わらぬ、澄んだ笑い声だった。

「語らぬ者にこそ語りかけよ……ここで嵯峨野の地蔵に回帰するとはな! 祈りが名を越えて縁に還る。まさに宵の一門の……還りの灯、見事だ!」

 その声に、胸がひどく熱くなった。

 輪の中へ引き戻すような、螢雪の光のせいだった。


 風が紅葉を揺らし、笑いの余韻が園庭に漂った。

 螢雪はそっと手を伸ばし、私の袈裟に絡んだ葉を摘み取った。

 羽根のように軽く触れる指先が、十年の重みを思わせた。

「良宵――覚えているか。幼き頃、比叡山の帰路にて、師らの所作を模し、我らもまた問答を交わしたこと……」

「覚えているとも」

 私は仰向けの螢雪へ、静かに手を差し伸べた。

 螢雪はそっと手を伸ばし――そして、触れる直前で下ろした。

 その仕草は、拒むためではなかった。

 寄りかかれば、私が傾くと知っている者の、静かな思いやりだった。

 私はその沈黙を受け止めた。

 引き寄せればよかったのかもしれない。

 だが、あの一瞬のためらいこそ、私がまだ「灯を抱く者」になりきれていない証のように思えた。


 螢雪は起き上がり、弱く笑った。

 秋の光が、その笑みに薄く触れた。

「俺はいつも、お前に負かされて、泣いているよ」


 その言葉が落ちたとき、胸の奥で、何かがひとつ静かに沈んだ。


 泣くのは、螢雪ではない。

 泣かされているのは――私の方だ。

 だが私は、言葉を返さなかった。

 返してしまえば、その瞬間に何かが壊れてしまうような気がした。

 ただ、ひとつ笑みを浮かべた。

 螢雪も、葉と泥にまみれたまま笑みを返した。

 まるで、幼い日の続きがふいに戻ってきたようだった。


 螢雪の笑いが風に溶け、落ち葉の音がゆるやかに広がってゆく。

 その光景のただ中で、胸の奥がそっと揺れた。


 誰かのためではなく、何かのためでもない。

 名を持たぬまま、ただ“抱きたい”と願う灯があった。


 それは、かつて雲母坂の山道で問いとして残したまま、胸の底に沈んでいたもの―― 光を、誰のために灯すのか。


 その答えへと、初めて静かに息づいてゆく呼吸だった。

 まだ言葉にはならない。

 祈りとも願いとも呼べない。

 だが確かに、ひとつの灯が立ち上がった。

 それがどこへ向かう灯なのかを、この時の私は知らなかった。


 ただ、胸の奥で静かに脈打つその温もりに、私はそっと手を添えた。


 ――この灯が、いつか名を得るのだろう。

 その予感だけが、夜明けのように淡く胸に残った。

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