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縁起外伝~宵待ちの螢~  作者: 熊掛鷹
第七章:天満月の影
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鬼神

 巫の姉妹と別れたのち、私は化野念仏寺の朝行に加わった。

 堂に満ちる念仏が、夜を漂っていた無数の御霊を、静かに彼岸へ導いてゆく。

 念仏が静まり、香の煙がゆるやかに天へ昇った。

 住職様が香炉の灰を整えながら、穏やかに言われた。

「選ばず、背かず、ただ灯す――宵叢海様のお心は、教えの海を越えて届きます。良宵さん、ようお詣りくださいましたな」

 私は合掌した。

「この地にて、仏縁を賜りました。祈りは、分かつためではなく、結ぶためにあると信じております」

 住職様は微笑まれた。

「わしらの念仏は、誰かを救うためのものやあらしまへん。ただ、“願う心”をそのまま唱えるだけですわ。生きる者も、逝きし者も、同じ願いの中におる。……あんたはんの心も、その願いのひとつや」

 その言葉に、胸の奥で灯がひとつ渡った。

 風が香の残りを揺らし、鈴の音のような余韻が残った。

 私は深く一礼し、寺を後にした。


 叢雲寺へ戻る道すがら、町で病める者に手を当て、屍には小さく経を唱えた。

 ひとつひとつ灯した記憶だけを胸に置き、夕刻、ようやく叢雲寺の山門が見えてきた。


 本堂に入り、弥勒如来像の前に坐した。

 経典を繰る指が、自然と静まりゆく。

 化野の月光、童霊の笑顔、巫女の祈り、衆生に寄り添った歩み——

 それらすべてを、今日の済衆行脚として、弥勒の御前にそっと手渡していった。

 祈りの言葉よりも先に、灯した慈悲の記憶が、静かに落ちていった。

 背に、気配が立った。

 振り返ろうとして、私は動きを止めた。

 螢雪の気が、いつもの光ではなかったからだ。

 沈黙が、刃のように背を撫でた。

 息がひとつだけ冷たく揺れた。

 焦りか、怒りか――それとも、祈りの迷いか。

 螢雪の心に、微かな乱れが走っている。

 ただ、それだけが確かだった。


「どうした、良宵。霊縛の経典とは穏やかじゃないぞ。退魔にでも赴くのか?」

 声に、かすかな棘があった。怒りではない。胸の奥に押し込めた何かの気配だった。

 私は経典を畳み、香の煙越しに螢雪を見た。

 瞳が揺れた。それだけで、胸に小さな波が立った。

 祈りが届かぬときの、あの静かな空虚に似ていた。

 触れようと伸ばした手が、どこにも届かない――

 そんな冷たさが、喉の奥でひとつ、ほどけた。

「その帰りだ。洛外の童霊に呼ばれて、化野まで足を延ばしてきた」

「また死霊と遊んできたのか?」

 茶化した声の下で、螢雪の瞳がわずかに痛んだ。

 その揺れに、私は小さく首を傾げた。

 ――どうしたのだ、螢雪。


 今日のことを語ろうとして、言葉が胸で止まった。

 陰の歩みは、光に寄り添うものではない。

 螢雪には、まだ触れさせたくなかった。

 化野での笑いがふと蘇る。

 螢雪が子らと笑う姿を真似ただけで、童霊たちは静かに昇っていった。

 その光を守りたい――ただ、それだけだった。

 螢雪のようになれればと、一瞬思った。

 だが、口にはしなかった。

「懐かれただけさ、螢雪。いつものように」

 螢雪の瞳に、ふっと複雑な影が宿った。

 その影を見た瞬間、胸がかすかにざわついた。

 言葉を探しかけて、やめた。

 螢雪の心に触れてはいけない気がした。

 そのとき、堂に別の気配が落ちた。


「して、何があったのか話していただけますか? 良宵さん」

 信楽様の穏やかな声だった。

 私は立ち上がり、その背を追って堂の奥へ進んだ。


 * * *

 蝋燭が静かに揺れていた。

 その前で、私は化野での出来事を報告していた。


「洛外の童霊に呼ばれまして……馳せ参じました。すれば、その地に巫の姉妹が」

 信楽様は、ただ耳を澄ませておられた。

 梓弓の音が胸の底をかすかに震わせる。月光に呼応するように、霊たちが浮上した――あの夜の息づかい。

「それは、恐らく梓巫女ではないかしら」

「梓巫女……?」

「特定の神社には属さず、各地を遍歴し……神懸りで生霊や死霊を呼び出す巫女です。その神楽は、神と舞い遊ぶ仙人の如し、と」

「まさにそのような巫でございました」

 信楽様の瞳が蝋燭に淡く映る。

 その灯に合わせるように、化野の夜が胸に甦った。童らの笑顔だけが、静かに残っていた。

「さて――良宵さん。なぜ連れ帰ったのかしら?」

 信楽様の視線が、私の背後に潜む童霊へ向いた。

 私は苦笑し、軽く息を吐いた。

「……隠しきれませんか。遊んでいるうちに、懐かれてしまいまして」

「誰に似たのかしらね、そういうところ」

「さて……どなたでありましょうね。信楽様も、よくよく連れ帰っておられますゆえ」

 信楽様が、ふっと口端を上げた。

「言いましたねえ。……ここは寺であって、学び舎ではありませんから。早う、その子らを送りなさい」

「承知致しました」

 私は少し表情を引き締めた。


「時に信楽様……螢雪のことですが」

 信楽様が、わずかに目を伏せた。

 続く言葉を、静かに待っておられた。

「……わずかに、揺れているように思えました」

 信楽様の視線が、静かにこちらへ向いた。

 蝋燭の灯がその瞳に揺れ、言葉にならぬ深さが宿っていた。

「修行とは、揺れぬ者になることでなく、揺れに気づくことです。……螢雪さんも、今はその途上でしょう。良宵さん。あなたはあなたの行を、静かに歩きなさい」

 私は返事をせず、目を伏せた。


 そのとき、堂の外で空気がわずかに軋んだ。

 月光が揺らぐより先に、肌が先に震えた。

 ——鬼神の気だ。

 信楽様もまた、気配を拾われたらしい。

 だが、その息遣いは驚くほど静かだった。

「あら……若さんでしょうね」

「……鬼若が」

 自分の声の上ずりに、わずかな悔いが滲んだ。

 信楽様は蝋燭の火を眺めたまま、淡く言われた。

「そうでしょう。良宵さん――」

 その続きを待つことなく、私は立ち上がっていた。

 胸のどこかで、微かな痛みが跳ねた。

 * * *

 月の下、螢雪が立っていた。肩がかすかに震えていた。

 その前に、銀の影――般若鬼若。

 輪郭だけが、夜の底から切り出されたようだった。


「螢雪!」

 声が夜を走った。

 私は駆け寄り、その肩に触れた。温い。生きている。

 足元には数珠が散り、珠が月光を吸っていた。

 それは、彼の祈りが砕けた跡のように見えた。

「無事でよかった。お前に何かあれば、私の心が砕けてしまう」

 螢雪は俯いたまま動かない。

 肩が細く震えていた。

 私はその前に立ち、鬼若と向き合った。

 一人であれば、言葉を試しただろう。

 だが――いまはその余地がなかった。

 九字を結ぶ。

 光が夜を裂き、一閃は鬼若の手を焦がした。

 火の珠が、闇にひとつ跳ねる。

 鬼若は焦げた手を眺め、口元にうっすら笑みを浮かべた。

「誉れ高き天満月の僧殿、厚遇に痛み入る」

「我が一門に何用だ、鬼若」

 声は静かだった。

 その静けさだけで、夜の気配がわずかに沈んだ。

「約束ゆえに参ったのだ。叢海はおるか?」

「……お師匠の命が目的か」

 鬼若は遠い闇をひとつ見るように目を細め、再びこちらへ向いた。

「ついでに、そなたの命も欲しいと申せば?」

 月が雲にかすか隠れた。

 私は退かなかった。

 螢雪の震えが背に触れた。私は、それを言葉にしなかった。

「この良宵、鬼の言葉に心を乱すことなければ、そなたの所業、鬼神の闇を、ただ見過ごすつもりもない」

 鬼若の瞳が、ふと何かの記憶に触れたように揺れた。

 その奥に、一瞬だけ柔らかな色が宿った。


 だが、この時の私は、それに触れぬよう、ただ夜の向こうを見据えていた。

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