鬼神
巫の姉妹と別れたのち、私は化野念仏寺の朝行に加わった。
堂に満ちる念仏が、夜を漂っていた無数の御霊を、静かに彼岸へ導いてゆく。
念仏が静まり、香の煙がゆるやかに天へ昇った。
住職様が香炉の灰を整えながら、穏やかに言われた。
「選ばず、背かず、ただ灯す――宵叢海様のお心は、教えの海を越えて届きます。良宵さん、ようお詣りくださいましたな」
私は合掌した。
「この地にて、仏縁を賜りました。祈りは、分かつためではなく、結ぶためにあると信じております」
住職様は微笑まれた。
「わしらの念仏は、誰かを救うためのものやあらしまへん。ただ、“願う心”をそのまま唱えるだけですわ。生きる者も、逝きし者も、同じ願いの中におる。……あんたはんの心も、その願いのひとつや」
その言葉に、胸の奥で灯がひとつ渡った。
風が香の残りを揺らし、鈴の音のような余韻が残った。
私は深く一礼し、寺を後にした。
叢雲寺へ戻る道すがら、町で病める者に手を当て、屍には小さく経を唱えた。
ひとつひとつ灯した記憶だけを胸に置き、夕刻、ようやく叢雲寺の山門が見えてきた。
本堂に入り、弥勒如来像の前に坐した。
経典を繰る指が、自然と静まりゆく。
化野の月光、童霊の笑顔、巫女の祈り、衆生に寄り添った歩み——
それらすべてを、今日の済衆行脚として、弥勒の御前にそっと手渡していった。
祈りの言葉よりも先に、灯した慈悲の記憶が、静かに落ちていった。
背に、気配が立った。
振り返ろうとして、私は動きを止めた。
螢雪の気が、いつもの光ではなかったからだ。
沈黙が、刃のように背を撫でた。
息がひとつだけ冷たく揺れた。
焦りか、怒りか――それとも、祈りの迷いか。
螢雪の心に、微かな乱れが走っている。
ただ、それだけが確かだった。
「どうした、良宵。霊縛の経典とは穏やかじゃないぞ。退魔にでも赴くのか?」
声に、かすかな棘があった。怒りではない。胸の奥に押し込めた何かの気配だった。
私は経典を畳み、香の煙越しに螢雪を見た。
瞳が揺れた。それだけで、胸に小さな波が立った。
祈りが届かぬときの、あの静かな空虚に似ていた。
触れようと伸ばした手が、どこにも届かない――
そんな冷たさが、喉の奥でひとつ、ほどけた。
「その帰りだ。洛外の童霊に呼ばれて、化野まで足を延ばしてきた」
「また死霊と遊んできたのか?」
茶化した声の下で、螢雪の瞳がわずかに痛んだ。
その揺れに、私は小さく首を傾げた。
――どうしたのだ、螢雪。
今日のことを語ろうとして、言葉が胸で止まった。
陰の歩みは、光に寄り添うものではない。
螢雪には、まだ触れさせたくなかった。
化野での笑いがふと蘇る。
螢雪が子らと笑う姿を真似ただけで、童霊たちは静かに昇っていった。
その光を守りたい――ただ、それだけだった。
螢雪のようになれればと、一瞬思った。
だが、口にはしなかった。
「懐かれただけさ、螢雪。いつものように」
螢雪の瞳に、ふっと複雑な影が宿った。
その影を見た瞬間、胸がかすかにざわついた。
言葉を探しかけて、やめた。
螢雪の心に触れてはいけない気がした。
そのとき、堂に別の気配が落ちた。
「して、何があったのか話していただけますか? 良宵さん」
信楽様の穏やかな声だった。
私は立ち上がり、その背を追って堂の奥へ進んだ。
* * *
蝋燭が静かに揺れていた。
その前で、私は化野での出来事を報告していた。
「洛外の童霊に呼ばれまして……馳せ参じました。すれば、その地に巫の姉妹が」
信楽様は、ただ耳を澄ませておられた。
梓弓の音が胸の底をかすかに震わせる。月光に呼応するように、霊たちが浮上した――あの夜の息づかい。
「それは、恐らく梓巫女ではないかしら」
「梓巫女……?」
「特定の神社には属さず、各地を遍歴し……神懸りで生霊や死霊を呼び出す巫女です。その神楽は、神と舞い遊ぶ仙人の如し、と」
「まさにそのような巫でございました」
信楽様の瞳が蝋燭に淡く映る。
その灯に合わせるように、化野の夜が胸に甦った。童らの笑顔だけが、静かに残っていた。
「さて――良宵さん。なぜ連れ帰ったのかしら?」
信楽様の視線が、私の背後に潜む童霊へ向いた。
私は苦笑し、軽く息を吐いた。
「……隠しきれませんか。遊んでいるうちに、懐かれてしまいまして」
「誰に似たのかしらね、そういうところ」
「さて……どなたでありましょうね。信楽様も、よくよく連れ帰っておられますゆえ」
信楽様が、ふっと口端を上げた。
「言いましたねえ。……ここは寺であって、学び舎ではありませんから。早う、その子らを送りなさい」
「承知致しました」
私は少し表情を引き締めた。
「時に信楽様……螢雪のことですが」
信楽様が、わずかに目を伏せた。
続く言葉を、静かに待っておられた。
「……わずかに、揺れているように思えました」
信楽様の視線が、静かにこちらへ向いた。
蝋燭の灯がその瞳に揺れ、言葉にならぬ深さが宿っていた。
「修行とは、揺れぬ者になることでなく、揺れに気づくことです。……螢雪さんも、今はその途上でしょう。良宵さん。あなたはあなたの行を、静かに歩きなさい」
私は返事をせず、目を伏せた。
そのとき、堂の外で空気がわずかに軋んだ。
月光が揺らぐより先に、肌が先に震えた。
——鬼神の気だ。
信楽様もまた、気配を拾われたらしい。
だが、その息遣いは驚くほど静かだった。
「あら……若さんでしょうね」
「……鬼若が」
自分の声の上ずりに、わずかな悔いが滲んだ。
信楽様は蝋燭の火を眺めたまま、淡く言われた。
「そうでしょう。良宵さん――」
その続きを待つことなく、私は立ち上がっていた。
胸のどこかで、微かな痛みが跳ねた。
* * *
月の下、螢雪が立っていた。肩がかすかに震えていた。
その前に、銀の影――般若鬼若。
輪郭だけが、夜の底から切り出されたようだった。
「螢雪!」
声が夜を走った。
私は駆け寄り、その肩に触れた。温い。生きている。
足元には数珠が散り、珠が月光を吸っていた。
それは、彼の祈りが砕けた跡のように見えた。
「無事でよかった。お前に何かあれば、私の心が砕けてしまう」
螢雪は俯いたまま動かない。
肩が細く震えていた。
私はその前に立ち、鬼若と向き合った。
一人であれば、言葉を試しただろう。
だが――いまはその余地がなかった。
九字を結ぶ。
光が夜を裂き、一閃は鬼若の手を焦がした。
火の珠が、闇にひとつ跳ねる。
鬼若は焦げた手を眺め、口元にうっすら笑みを浮かべた。
「誉れ高き天満月の僧殿、厚遇に痛み入る」
「我が一門に何用だ、鬼若」
声は静かだった。
その静けさだけで、夜の気配がわずかに沈んだ。
「約束ゆえに参ったのだ。叢海はおるか?」
「……お師匠の命が目的か」
鬼若は遠い闇をひとつ見るように目を細め、再びこちらへ向いた。
「ついでに、そなたの命も欲しいと申せば?」
月が雲にかすか隠れた。
私は退かなかった。
螢雪の震えが背に触れた。私は、それを言葉にしなかった。
「この良宵、鬼の言葉に心を乱すことなければ、そなたの所業、鬼神の闇を、ただ見過ごすつもりもない」
鬼若の瞳が、ふと何かの記憶に触れたように揺れた。
その奥に、一瞬だけ柔らかな色が宿った。
だが、この時の私は、それに触れぬよう、ただ夜の向こうを見据えていた。




