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縁起外伝~宵待ちの螢~  作者: 熊掛鷹
第七章:天満月の影
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 横川での修行を終え、私は再び宵の一門の行脚に身を置いた。

 螢雪は小僧たちに教学を授け、笑いの絶えぬ境内を明るく照らしていた。

 私は信楽様の傍らで加持祈禱を施し、この世ならざる魂を彼岸へ送った。

 所作も言葉も、気づけば信楽様の祈りと重なっていた。

 あの方の影に倣うのではなく、祈りそのものが、私の内にも息づいていた。


 春の風が、子供たちの笑い声を運んでゆく。

 私はその光景を遠くから見つめるだけで、声をかけることはなかった。

 螢雪と私の歩む道は、知らぬ間に光と影のように分かれていた。

 だが影は、光を曇らせぬためにある。

 私は闇を歩き、光の背を守ることを己の行とした。

 ――それが陰の済衆行脚だった。

 いずれ再び並び立つために、今はただ、己の闇を抱いて歩むしかなかった。


 京の町を巡り、死者に祈りを捧げた。

 けれど、出会う怪異の多くは、もはや魔ではなかった。

 それは、人の心が生み出す影――恐れや執着が凝り固まり、形を得たものだった。

 祈りとは、差し出す手だけでは届かない。掴まれなければ、ただ空を切る。

 毒となるのは、外なる魔ではなく、内に潜む無明。

 私は何度もその空虚に触れ、そのたびに静かに目を伏せた。


 それでも、すべてが人の影とは限らない。稀に、真の異形と出会うこともあった。

 掌には誰の温もりも残らず、夜風の冷たさだけがあった。

 そのたび私は語りかけ、寄り添い、光へと導いた。

 多くは静かに帰すことができたが、

 慈悲を拒み、牙をむくものもいた。

 祈りが届かぬとき、慈悲が拒まれたとき――

 私は、阿闍梨様がそうされたように、力をもって越えさせるしかなかった。


「良宵、また退魔に赴くのか?たまには一緒に話をしよう。この子らも、お前の修行の話が聞きたいと言っているぞ」

 螢雪の声が、笑いの輪に混じって届く。私は振り返り、わずかに微笑んだ。

 言葉にできぬ感謝と、踏み出せぬ距離の証だった。

 あの光の輪に踏み入れば、私は螢雪の影となる。だから踏み出さなかった。光を曇らせぬために、ただ、その外に立ち尽くした。

 それは拒絶ではなく、祈りのかたちだった。

 かつて叢海様が言われた。――灯す者と待つ者。時に、交わらぬ道となる。その言葉の響きが、胸の底に沈み、息を細くした。

 螢雪は光を追い、私は影を歩いた。遠ざかるほどに、光はなお明るく燃えた。

 風が梢を撫で、光の輪がわずかに揺れた。その明るさが、私を奮い立たせた。

 ――無名様も、きっとそうだったのだろう。名を告げず、語らず、ただ祈るように歩かれた。

 祈りは言葉よりも前にある。語れば、すでに形を失う。沈黙とは、無関心ではなく、滅びをも照らす灯なのだ。

 私はその静けさの中で、祈りの声を聴こうとしていた。


 * * *

 夏の丑三つ時。胸の奥に微かなざわめきが生じ、叢雲寺の縁側で西の空を仰ぐと、風の奥に童らの囁きが滲んだ。


『天満月さま、こちらへおいで――』


 その声は、風の中に澪んでいた。

 霊命を澄ませると、童霊たちが蛍のように夜気を舞っていた。

 彼らは死を知らぬまま、この世にとどまった子ら。日々の経を捧げても、遊び相手と誤解され、彼岸へ渡ることはなかった。

 けれど今宵、誰かが地の底から彼らを呼び起こしていた。

 私は霊縛(れいばく)の経典を携え、寺を後にする。

 雲母坂を越え、化野の念仏寺の川沿いを歩いた。

 風は静まり、月光が白く地を照らしていた。

 林の奥で、童霊の声がいっそう高まる。


『天満月さまがきてくれた――』


 童らが指差す先に、二人の巫女がいた。

 ひとりは幼く、胸に鏡を抱いて佇む。

 もうひとりは、鈴を飾った梓弓を掲げ、爪弾いていた。

 その音に応えるように、童霊たちが月下を舞い始める。

 川面の光が揺れ、世界は神秘の帳に包まれた。


「どうしたのだ、このような刻に」

 私が問うと、童霊は囁いた。

『巫女がぼくらを起こしたんだ。地の底の子らも、みんな起こしてくれるって』

 白い袖が揺れ、瞳の光が息に触れた。

 弓を持つ巫女は霊縛の経典に目を留め、わずかに眉を寄せた。

 その瞳は、冷えた水のように澄んでいた。

 声が張り詰め、静かな刃となって放たれた。

「――天満月の僧様。この童らは、私たちと遊ぶために現れたもの。霊縛の経典は、今宵には不要です。ひとしきり遊ばせた後、私が責任を持って彼岸へ渡します。どうか、ご安心くださいませ」

 言葉が静まると、夜の底が震えた。

 私は経典を懐に納め、笠を外した。

 静かに会釈すると、影が胸の奥に沈んだ。その瞬間、童らの笑い声が風に溶けた。

「童らの声に呼ばれ、気づけば足を運んでおりました。鬼神の類かと案じ、備えておりましたが――

 そのお言葉を聞き、胸の底が静まりました」

 私は微笑み、問うた。

「この子らと、少しだけ――時を分かたせていただけますか」

 巫女は目を開き、首を傾げた。

「京の怪異が噂する“天満月の僧”が、遊ばれるのですか? ――童霊と?」


 その声に、螢雪の笑顔が脳裏に浮かんだ。

 笑いの中にも祈りが宿る――そう教えてくれた友の顔だった。

「拙僧は、笑うことを忘れて久しく……なれど、我が友が子らと笑う姿を見て、少しだけ真似てみたくなったのです」

 掌に神力を集め、淡い光の球を生み出した。

 蹴鞠のように放つと、光は宙を滑り、林を駆けた。

 童らは歓声を上げ、光を追って駆け回る。

 その輪に、私も歩を入れた。

 笑い声が風に溶け、時間が静かに融けていく。

 巫女もやがて、戸惑いを捨てて輪の中に入った。

 光に触れ、童らと笑うその顔は――ひとりの少女のように見えた。

 彼女の名は、(みお)といった。

 その声は、祈りの調べのままに、いつしか生の笑いへとほどけていった。

 幼い妹巫女は、少し離れた場所で、その光景をただ見ていた。


 澪様の笑顔には、無垢と哀しみが同居していた。

 夜の静けさに咲いた一輪の花のように。

 その花弁の縁を撫でる光が、失われていた熱を、そっと呼び戻していた。

 ――私は、それを気づかぬふりで見ていた。


 やがて童らは満ち足りたように、空へ昇っていった。

 澪様はその光景を見つめながら、風に溶けるように呟いた。


「天満月さまの慈悲は……夜を照らす月そのもの。孤高の光なのに、こんなにも温かい……」

 澪様が、こちらを見ていた。昇りはじめた朝の光が、彼女の瞳を揺らした。

 その揺らぎに、痛みがあった。

 私が眩しさで目を細めると、澪様が心を隠すように、弱く、微笑んだ。


 その笑みを返したとき、胸の奥に、言葉にならぬ痛みが滲んだ。

 祈りを差し出すたび、誰かの影が一歩、遠のく気がした。

 けれど、私はその痛みに名を与えなかった。

 ただ、僧としての微笑を保った。


 澪様の笑みが深まった。

 それは、温もりを知った雪のように儚かった。

 風が過ぎ、光が静まった。

 ――祈りだけが、そこに残った。

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