巫
横川での修行を終え、私は再び宵の一門の行脚に身を置いた。
螢雪は小僧たちに教学を授け、笑いの絶えぬ境内を明るく照らしていた。
私は信楽様の傍らで加持祈禱を施し、この世ならざる魂を彼岸へ送った。
所作も言葉も、気づけば信楽様の祈りと重なっていた。
あの方の影に倣うのではなく、祈りそのものが、私の内にも息づいていた。
春の風が、子供たちの笑い声を運んでゆく。
私はその光景を遠くから見つめるだけで、声をかけることはなかった。
螢雪と私の歩む道は、知らぬ間に光と影のように分かれていた。
だが影は、光を曇らせぬためにある。
私は闇を歩き、光の背を守ることを己の行とした。
――それが陰の済衆行脚だった。
いずれ再び並び立つために、今はただ、己の闇を抱いて歩むしかなかった。
京の町を巡り、死者に祈りを捧げた。
けれど、出会う怪異の多くは、もはや魔ではなかった。
それは、人の心が生み出す影――恐れや執着が凝り固まり、形を得たものだった。
祈りとは、差し出す手だけでは届かない。掴まれなければ、ただ空を切る。
毒となるのは、外なる魔ではなく、内に潜む無明。
私は何度もその空虚に触れ、そのたびに静かに目を伏せた。
それでも、すべてが人の影とは限らない。稀に、真の異形と出会うこともあった。
掌には誰の温もりも残らず、夜風の冷たさだけがあった。
そのたび私は語りかけ、寄り添い、光へと導いた。
多くは静かに帰すことができたが、
慈悲を拒み、牙をむくものもいた。
祈りが届かぬとき、慈悲が拒まれたとき――
私は、阿闍梨様がそうされたように、力をもって越えさせるしかなかった。
「良宵、また退魔に赴くのか?たまには一緒に話をしよう。この子らも、お前の修行の話が聞きたいと言っているぞ」
螢雪の声が、笑いの輪に混じって届く。私は振り返り、わずかに微笑んだ。
言葉にできぬ感謝と、踏み出せぬ距離の証だった。
あの光の輪に踏み入れば、私は螢雪の影となる。だから踏み出さなかった。光を曇らせぬために、ただ、その外に立ち尽くした。
それは拒絶ではなく、祈りのかたちだった。
かつて叢海様が言われた。――灯す者と待つ者。時に、交わらぬ道となる。その言葉の響きが、胸の底に沈み、息を細くした。
螢雪は光を追い、私は影を歩いた。遠ざかるほどに、光はなお明るく燃えた。
風が梢を撫で、光の輪がわずかに揺れた。その明るさが、私を奮い立たせた。
――無名様も、きっとそうだったのだろう。名を告げず、語らず、ただ祈るように歩かれた。
祈りは言葉よりも前にある。語れば、すでに形を失う。沈黙とは、無関心ではなく、滅びをも照らす灯なのだ。
私はその静けさの中で、祈りの声を聴こうとしていた。
* * *
夏の丑三つ時。胸の奥に微かなざわめきが生じ、叢雲寺の縁側で西の空を仰ぐと、風の奥に童らの囁きが滲んだ。
『天満月さま、こちらへおいで――』
その声は、風の中に澪んでいた。
霊命を澄ませると、童霊たちが蛍のように夜気を舞っていた。
彼らは死を知らぬまま、この世にとどまった子ら。日々の経を捧げても、遊び相手と誤解され、彼岸へ渡ることはなかった。
けれど今宵、誰かが地の底から彼らを呼び起こしていた。
私は霊縛の経典を携え、寺を後にする。
雲母坂を越え、化野の念仏寺の川沿いを歩いた。
風は静まり、月光が白く地を照らしていた。
林の奥で、童霊の声がいっそう高まる。
『天満月さまがきてくれた――』
童らが指差す先に、二人の巫女がいた。
ひとりは幼く、胸に鏡を抱いて佇む。
もうひとりは、鈴を飾った梓弓を掲げ、爪弾いていた。
その音に応えるように、童霊たちが月下を舞い始める。
川面の光が揺れ、世界は神秘の帳に包まれた。
「どうしたのだ、このような刻に」
私が問うと、童霊は囁いた。
『巫女がぼくらを起こしたんだ。地の底の子らも、みんな起こしてくれるって』
白い袖が揺れ、瞳の光が息に触れた。
弓を持つ巫女は霊縛の経典に目を留め、わずかに眉を寄せた。
その瞳は、冷えた水のように澄んでいた。
声が張り詰め、静かな刃となって放たれた。
「――天満月の僧様。この童らは、私たちと遊ぶために現れたもの。霊縛の経典は、今宵には不要です。ひとしきり遊ばせた後、私が責任を持って彼岸へ渡します。どうか、ご安心くださいませ」
言葉が静まると、夜の底が震えた。
私は経典を懐に納め、笠を外した。
静かに会釈すると、影が胸の奥に沈んだ。その瞬間、童らの笑い声が風に溶けた。
「童らの声に呼ばれ、気づけば足を運んでおりました。鬼神の類かと案じ、備えておりましたが――
そのお言葉を聞き、胸の底が静まりました」
私は微笑み、問うた。
「この子らと、少しだけ――時を分かたせていただけますか」
巫女は目を開き、首を傾げた。
「京の怪異が噂する“天満月の僧”が、遊ばれるのですか? ――童霊と?」
その声に、螢雪の笑顔が脳裏に浮かんだ。
笑いの中にも祈りが宿る――そう教えてくれた友の顔だった。
「拙僧は、笑うことを忘れて久しく……なれど、我が友が子らと笑う姿を見て、少しだけ真似てみたくなったのです」
掌に神力を集め、淡い光の球を生み出した。
蹴鞠のように放つと、光は宙を滑り、林を駆けた。
童らは歓声を上げ、光を追って駆け回る。
その輪に、私も歩を入れた。
笑い声が風に溶け、時間が静かに融けていく。
巫女もやがて、戸惑いを捨てて輪の中に入った。
光に触れ、童らと笑うその顔は――ひとりの少女のように見えた。
彼女の名は、澪といった。
その声は、祈りの調べのままに、いつしか生の笑いへとほどけていった。
幼い妹巫女は、少し離れた場所で、その光景をただ見ていた。
澪様の笑顔には、無垢と哀しみが同居していた。
夜の静けさに咲いた一輪の花のように。
その花弁の縁を撫でる光が、失われていた熱を、そっと呼び戻していた。
――私は、それを気づかぬふりで見ていた。
やがて童らは満ち足りたように、空へ昇っていった。
澪様はその光景を見つめながら、風に溶けるように呟いた。
「天満月さまの慈悲は……夜を照らす月そのもの。孤高の光なのに、こんなにも温かい……」
澪様が、こちらを見ていた。昇りはじめた朝の光が、彼女の瞳を揺らした。
その揺らぎに、痛みがあった。
私が眩しさで目を細めると、澪様が心を隠すように、弱く、微笑んだ。
その笑みを返したとき、胸の奥に、言葉にならぬ痛みが滲んだ。
祈りを差し出すたび、誰かの影が一歩、遠のく気がした。
けれど、私はその痛みに名を与えなかった。
ただ、僧としての微笑を保った。
澪様の笑みが深まった。
それは、温もりを知った雪のように儚かった。
風が過ぎ、光が静まった。
――祈りだけが、そこに残った。




