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縁起外伝~宵待ちの螢~  作者: 熊掛鷹
第七章:天満月の影
22/26

横川

 九つの秋、叢雲寺を離れた。

 朝日が山路を淡く照らしていた。

 数珠が鳴るたび、螢雪の笑顔が胸に浮かんだが、振り返らなかった。

 幼い祈りはまだ形を持たず、ただ歩むことだけが答えだった。

「良宵さん、その光の形を、横川で見極めなさい」

 信楽様の声が、風のように背を押した。

「寂しくなったら、逃げ帰ってこい。儂が迎えに行く」

 叢海様は、冷たい風に鼻をすすりながら、真顔で言った。信楽様は肩をすくめた。

「叢海様、それではまるで迷子の子を探す祖父のようですね」

「祖父でもええ。ついでに団子でも買うてやろう」

「慈悲と過保護は紙一重ですよ」

 叢海様は鼻を鳴らした。

「紙が破けたら、儂の勝ちじゃ」

「……執着もまた、縁のかたちと。そういうことでございますね」

「そこまで考えておらなんだわ」

 口元が、静かにほどけた。

 笑いというより、風に似たものが胸を撫でた。

 その温もりが、祈りのように揺れて、山の向こうへと消えていった。


 風の奥に、あの囁きが残っていた。――「そなたの祈りは、角大師の光に通ずる」

 無名様の言葉が、見えぬ道標のように胸に灯っていた。


 * * *

 幾つもの峠を越え、幾度も祈りを重ねた。

 不断の法灯に手を合わせ、伝教大師様の霊廟で静かに頭を垂れた。

 どれほど歩いたのか分からない。

 光が薄れ、霧が満ちる。

 石段を越えたとき、夜明け前の闇が横川中堂を包んでいた。

 堂の縁で掃きを止めた老僧が、静かに頭を下げる。

 私も深く頭を垂れた。

 言葉はない。受ける祈りと、預かる祈りだけが、そこにあった。


 小さな掌で数珠を握り、苔の冷たさに指を沈める。

 意味は知らず、ただやってみる――それが、始まりだった。


 最初の一年は、横川の山裾に小さな庵を結んだ。

 老僧のもとで粥を分けてもらい、夜明けとともに祈りを覚えた。

 誰に教わるでもなく、風や水、石が師となった。


 山中の日々は、沈黙と苦行の連なりだった。

 裸足で岩を踏み、風に溶ける歩みを覚える。

 水行では氷のような水が肌を刺し、声は奪われた。

 それでも、数珠の音だけは途切れなかった。

 “祓う”ためではない。“見つける”ための祈り。


 * * *

 季節が巡り、十二の春。

 岩窟に籠り、灯を絶ち、死者の声に耳を澄ませた。

 焼かれた堂の影、火に呑まれた祈り。

 その残り香のような囁きが、胸に沈んだ。


――「なぜ焼いた」

――『子はどこ』

――「恨めしい」


 それは本当に“彼ら”の声なのか。

 それとも、私がそう思い定めることで生まれた声なのか。どちらとも言い切れない。

 ただ、かすかな揺らぎだけが胸を撫でた。

「祈られぬ魂よ――」そこで言葉はほどけ、形を失った。

 音にならぬ祈りは、名を持たず、ただ温度として胸に残った。

 それは、語ることを拒む命の残響。

 名の外に在るその痛みが、言葉にならぬまま、ただ熱として、私の内に灯っていた。


 ある夜、無名様が岩窟の奥に立っていた。

 言葉なく、九字を逆に刻む。

 空気が軋み、祈りの向きが反転する。

 これは封印ではない。ほどくための所作だ、と直感した。


「怨恨をほどき、因果を反転させて彼岸へ導く……そう、なのですね」

 無名様は沈黙のまま、風だけが頷いた。


 翌朝、苔の上に白い花が一輪。

 その夜から、私は“導きの九字”を編み始めた。

 言葉の岸を離れ、数珠と、声なき声のあわいに糸を張る。

 それでも、沈黙は形を求めた。

 ――文机に、短い走り書きを二つだけ残した。

「九つの名を刻み、灯を置く。芯へ届け」

「祓わず、ほどく。導かず、抱く。耳は声なきところへ」

 墨はすぐに乾き、文字は風に薄れた。意味だけが残った。


 十三の秋、祈りは言葉を離れ、沈黙の所作になった。

 岩窟の入口に、一輪の白花。祈りの届いた夜にだけ咲いた。

 誰が置くのかは、誰も言わなかった。


 十四の春のはじめ、祈りを見失った修行者に出会った。

 声は裂け、瞳は凍りついていた。

 その祈りは、己の闇を照らそうとして、形を失っていた。

 私は祓わず、ただ膝を折った。

 風が止み、雪が降りしきる音だけが残った。

 その沈黙の中で、私は胸の奥に手を置いた。

 何も唱えず、何も祈らず、ただその痛みを受け入れた。

 雪の底から、微かな声が漏れた。

 ――「ありがとう、天満月の僧」

 その瞬間、白い息が星のように昇った。

 祈りが形を変える音を、はじめて観た。

 その夜、無名様は初めて言葉を残した。


「そなたが感じた通り、祈りとは、名を持たぬ声を観じ、その痛みを抱くこと。

 拙はあえて禁を破り、邪道を唱えた。祈りの形を壊し、怨恨の底を覗き、因果の糸を逆に撚る術を求めた。

 それでも、辿り着くまでには、幾星霜の闇を歩いた。

 だが、そなたは――清らかな六根で、祈りの本質に触れた。

 経の響きを離れ、法の魂に還った。

 縛られた因果をほどき、祈りの風で、彼岸へ導いた。


 その手はまだ幼くとも――

 祈りはすでに、名を持たぬ者の名を知っている。


 ……良宵よ。まこと、恐ろしい子だ」


 声は、比叡に降る雪のように静かだった。

 私は答えられず、ただ数珠を握った。


 夜更け、堂の縁にて瞑目していると、

 闇の底で、ふと光が息をした。

 過去と未来の鎖がほどけ、ただ祈りだけが残った。

 それは、息づくというより――静かに在るものだった。

 誰かの魂が放つ、清らかな光。

 在ること、それ自体が、すでに慈悲だった。

 その境地に、私はひとつの名を思い浮かべた。

 ――「無垢(むく)(こう)超越(ちょうえつ)

 否定ではなく、苦しみの奥にふるえる慈悲を見出す光。


 それが誰のものかは分からない。

 ただ、孤独の只中で、その光は確かに、私の傍らにあった。

 いつか、私もそのような光となりたい。

 そう、静かに願った。


 * * *

 春、修行を終えた朝。岩窟の前に、白花と小石が置かれていた。

 小石には、角のような刻みがあった。私は触れず、ただ掌を合わせた。

 風が過ぎ、沈黙がかたちを結んだ。


 横川中堂の回廊には、掃きを止めた老僧や若い僧が、言葉少なに集まっていた。

 誰かが湯を差し出し、誰かが遠くの雲行きを見上げた。

 私が微笑むと、皆も微かに微笑んだ。私が頭を下げると、輪のように静かな礼が返った。

 別れは、それだけだった。

 けれど、その静けさが、胸の奥で温もりのかたちをした。


 横川を発ち、御廟へ向かった。伝教大師の御前に数珠を置き、掌を重ねる。言葉を離れ、息を鎮め、ただ一度、深く礼す。風が祠をかすめ、数珠がひとつ、微かに鳴った。

 その音は、別れでも始まりでもなく――ただ、静けさのかたちをしていた。


 下山を前に、東塔の大講堂に立ち寄った。

 阿闍梨が歩み寄り、数珠をひとつ鳴らした。


 その沈黙の中で、叢海様の声が過った。

 ――灯す者と、待つ者。交わらぬ道。

 螢雪の笑顔が、雪明かりに溶けた。

 その灯は、もう彼のもとに残してきた。私の歩みは、別の方角へ続いている。

 阿闍梨はただ頷き、数珠をひとつ鳴らした。

 音は秋の風にほどけ、どこへともなく消えた。


 懐かしい雲母坂の風が頬を撫でた。宵の一門の笑顔が、遠い灯のように揺れる。

 あたたかな声、静かな慈しみ、沈黙。

 それらが因果の糸のように胸に結ばれていた。


 祈りとは、届かせることではなく、抱くこと。

 光は、いつも闇の中に宿る。

 ――その光を、誰のために灯すのか。

 その問いだけが、胸の奥に残った。


 数珠を握り、ゆっくりと歩き出す。

 風が背を押し、山影が長く伸びる。

 道は、静かに、下りていった。


 * * *

 雲母坂を下りきると、叢雲寺の屋根が夕陽に照らされていた。

 塀の外から子供たちの笑い声が響き、風に紅葉の香が混じっていた。

 五年ぶりのその香に、私は足を止めた。


 門をくぐると、庭に同じ紅葉が揺れているように見えた。

 けれど、それは同じではない。ただ、変わりゆくものが、そのままに在るだけだった。

 私の祈りも、もうあの日のものではなかった。語られぬ声に耳を傾け、名もなき魂を抱こうとした日々。その形は、静かに変わっていた。


 縁側には子供たち。

 その輪の中心で、螢雪が笑っていた。

 僧童らに袖を引かれながら、明るく手を振っている。


「さあ、次はどんな話がよい?」

「螢雪さま、巨椋池(おぐらいけ)の女の話が聞きたいです!」

「ほう、京灯百夜抄か。よいぞ。ただ――あれは信楽様の語りであったな。俺は、あの方のようにお化けは見えぬ」

「では、どうやって語るのですか?」

「聴くのだ。如是我聞(にょぜがもん)――『このように聞いた』そうやって、祈りを語りへと繋げるのだ。信楽様のように見えぬ分、聞き違えて悟ったとしても、それは愛嬌だ」


 仏の教えが、夕陽の光のように庭に落ちていた。

 ふと、その目がこちらを向く。

 驚いたように目を見開き、すぐに微笑んだ。

「お帰り、良宵」

 光が、ふるえた。

 その瞬間、祈りの輪が閉じた。

 説くことではなく、灯すこと。

 言葉より先に、光が届く。

 螢雪は、微笑でそれを教えていた。

 あの日の沈黙が思い出される。 ――螢雪は、あちら側に灯を置く。


 父の祈りは、命を差し出して命を救うものだった。

 螢雪の祈りは、生きる者の笑いの中に宿っている。

 どちらも、同じ光の形をしていた。


 《捧ぐや祈り、死せる世の為――使うや命、生ける世の為》


 死せる魂に祈りを捧げ、生ける者のために灯を使う。

 その二つが重なるところに、慈悲の理があるのだと、私は思った。

 夕陽が沈み、笑い声が光の中に溶けていく。

「ただいま、螢雪」

 風が吹き、紅葉が一枚、宵の庭に落ちた。

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