導き
山霧がほどける。
声はまだ遠い。
けれど、その気配が近くをあたためた。
――祈りは、魂を見つけるためにある。
叢雲寺では、信楽様の不在に、兄弟子から退魔を任されることがあった。
祓うためではない。見つけるための祈りだった。
山には、己の死を知らぬ魂が彷徨っていた。
その時、風が名を運んだ。
呼ばれたように、影が形を結んだ。
黒衣の行者が立っていた。
「不思議なことよ。延暦寺の焼き討ちで散った魂たち。怨恨の業、容易に導けぬ。だが、そなたの祈りは法を越え、魂に響く」
「貴方は?」
「無名とでも呼べ。その術、いずこで?」
「師僧を見て、真似ただけです。震えるところへ、手を置いた……それだけです」
無名様は静かに笑んだ。
「宵の一門か。天満月の僧とは、そなたか」
その名に、かすかな影が宿った。
月はまだ昇らず、風の裏側に、かすかな灯の気配があった。
「横川で修行を重ねよ。そこは境の縁、生と死のはざまにある。そなたの祈りは、角大師の光に通ずる」
私は俯き、数珠を握りしめた。
「私のような者が、その光に……?」
無名の眼差しは、未来を透かすようだった。
その夜、叢雲寺へ戻り、信楽様と叢海様に、無名様との出会いを語った。
横川への修行を勧められたことも、正直に告げた。
信楽様は、しばらく沈黙し、穏やかに言った。
「霊命の光は授かりもの。闇をも引き寄せる。祈りの形を見極めるために――行ってきなさい」
叢海様が続けた。
「良宵、そなたは灯す者。螢雪は待つ者。灯す者と待つ者――時に交わらぬ道となる」
その言葉が、胸の奥に静かに沈んだ。
息が浅くなり、喉が固まった。
沈黙は痛みより深く、呼吸を奪った。
* * *
夕暮れの裏山を、螢雪と並んで歩いた。
木々の影が長く伸び、蝉の声が遠ざかる。
風の中で、二人の影が一度だけ重なり、やがて離れた。
「観音経の無畏施は、怖れを取り除く施しなんだって」
螢雪は微笑んだ。「良宵の祈りに似ているね」
私は立ち止まり、数珠を握った。
その温もりが、決意と痛みを同時に運んできた。
「螢雪……しばらく別の道を歩こう」
螢雪は振り返らず、夕陽に染まる輪郭のまま言った。
「分かった。俺は叢雲寺で待つ。兄弟は離れても、心を並べて祈れるさ」
風が木々を揺らし、数珠が鳴った。
その音が、祈りの始まりにも終わりにも聞こえた。
陽が宵に溶け、月が微かに滲みはじめていた。




